「5A169」構造体の完成
《ルシン》の提示したナノマシンの構築がほぼ完成した。
橋田先輩が休職してから3か月が経過していた。
橋田先輩の病状は思わしくなく、医師からは入院が必要だと言われていた。
だが俺が止めていた。
既に日常で眠っている時間が長くなり、覚醒時も感情を乱すことが多くなって行く。
記憶の混乱も始まり、それがますます感情的な興奮を生み出して行った。
しかし病院へ入ってしまえば「5A169」構造体の投与は出来なくなる。
アレは特殊なガイド装置が必要で、分子量を計算しながら体内に送り込む流量計測器が必要なのだ。
決して小さくは無いその装置を病室へ持ち込むことは出来ない。
だから別な場所を用意する必要があった。
橋田先輩の自宅も難しい。
無茶な人体実験をしたことに、橋田常務やお母さんを巻き込みたくは無かった。
橋田常務はもちろん承諾していることだが、罪は俺一人が背負えば良い。
橋田常務はそうは考えておられないのだろうが。
自分が罪を被るつもりで、自分の娘を救うために無茶な人体実験を行なったと言われてしまうかもしれない。
俺は考えた末、俺のマンションに運ぼうと思った。
俺のマンションであれば誰も近寄らない。
それに密かに装置を運び込むにも適しているだろう。
どうせ俺にしか扱えない機器類なのだ。
俺が橋田先輩を時々連れ出しているのは多くの人間が知っていることだ。
だから俺が橋田先輩を誘拐紛いのことをし、独断で人体実験を行なったことにすればいい。
それから間もなく一通りのモジュールが完成し、俺が研究室でそれらを結合した。
「5A169」構造体がついに完成した。
俺はまだ成田教授にも告げず、橋田常務にだけそれとなく伝えた。
「橋田先輩を俺のマンションへお連れしたいのですが」
「兜坂君……」
「もうそれしか手はありません」
橋田常務も俺が何をするつもりなのかを理解している。
だが言葉にはお互いに出せなかった。
「でもそれでは君が大変なことになる」
「構いません。俺は橋田先輩が助かれば、何がどうなっても構いませんから」
「兜坂君!」
「お願いします! もちろん確実なことは言えませんが、これが唯一の望みです」
「済まない! 君に何が起きようとも私が絶対に守る!」
「では御許しいただけますか?」
「宜しく頼む!」
俺はこれから犯罪を犯す。
一つは会社から極秘の機密を盗み出すことだ。
立派な刑事罰であり、横領罪に問われる。
そして民事訴訟では何百億を請求されてもおかしくない。
もう一つは人体実験だ。
危険なことを知ってのことであり、場合によっては殺人罪が適用される。
俺は構わなかったが、橋田常務が僅かにでも情状酌量の余地を残すために、俺に橋田先輩との結婚を勧めて来た。
愛する妻を救うために俺が犯罪を犯してしまったということだ。
会社への実害は実際にはなく、むしろ人体実験でのデータは有用なものになる。
実際にどうなるのかは分からないが、民事訴訟も大分減額される可能性はある。
もしかしたら横領罪も取り下げてくれるかもしれないと橋田常務は言った。
そこまで色々と考えて下さっていたのかと、俺は驚いた。
俺は本当にどうなっても構わないのだが、橋田常務が必死に頼んで来るので橋田先輩との結婚を承諾した。
但し、もしも橋田先輩が助かったのならば離婚すると約束してもらった。
犯罪者の妻である必要は無いのだ。
むしろ夫に利用された被害者であり、世間の非難の矛先は橋田先輩には向かないだろう。
そう願う。
婚姻届けを出し、俺は橋田先輩をマンションへ移送した。
眠っている橋田先輩を安静に運ぶために、特別な医療用の移送車を手配した。
橋田先輩はもう、一日のほとんどを眠っている状態だ。
俺はアストラール社の研究室にあるものと同じ機器をマンションへ設置した。
ナノマシンの流出を計測できる特別な機械であり、4億円もする。
俺の貯蓄は十分にあったので賄えた。
「トウサカ・ストラクチャー」の成功で、俺の報酬は莫大なものになっていたのだ。
4億円は俺にとっても楽な支出では無かったが、絶対に必要な機械だ。
他にもバイタルセンサーや念のために人工心肺まで用意する。
橋田常務も負担すると言ってくれたが、そうすると後々の捜査で犯罪に加担したと思われるので断った。
橋田先輩を装置類を入れた寝室に寝かせた。
痩せてやつれてはいても、橋田先輩は尚美しかった。
用意したベッドで安らかに呼吸をしている。
美咲もそうだったことを思い出した。
「橋田先輩、申し訳ありません。俺の一存で橋田先輩のお身体に「5A169」構造体を入れます。もしも橋田先輩が助かったら、どんな非難も受け入れます」
橋田先輩はもちろん眠ったままだった。
それでも俺は告げずにはいられなかった。
「助かる保証はありません。もしかしたらもっと橋田先輩を苦しめてしまうかもしれません。それでも俺は使います。橋田先輩が万一にも助かる可能性があるのなら、俺は何でもします」
橋田先輩の手を握った。
一切の抵抗なく、俺に手を持ち上げられる。
「橋田先輩、愛しています」
俺はそう言葉にした。
美咲を愛しながら、目の前の橋田先輩を救う気持ちはそれしか無かった。
俺は橋田先輩にバイタルセンサーを繋いだ。
実際に「5A169」構造体を血中に入れる際にはECMO(循環器装置)、透析装置なども準備しなくてはならない。
俺一人での作業になるので、細かな調整は出来ないだろうが、俺は一通りの装置の使い方を勉強していた。
眠っている橋田先輩の唇にキスをした。
俺の罪は深い。




