《ルシン》
橋田先輩が療養を始めてから、「5A169」構造体の開発の進展が大きく進んだ。
アストラール社の超高度AIがディープラーニングの結果、画期的な構築法を次々と編み出して行ったのだ。
もちろん以前から期待はしていた。
《ルシン》はAIとしては特殊な構造をしており、データセットを自ら集積し組み上げるようになっている。
通常のAIは多くの人間が膨大なデータセットを作り上げて積み重ねていく。
例えば「バラ」というデータセットを作るにあたり、世界中のバラの画像や品種について詳細なデータを入力して行く。
数百万以上のバラの画像とそれぞれの品種の名称や特徴、構造、育て方などのあらゆる項目。
更に画像に対して人間が見て美しさの段階を打ち込んで行く。
だから人間の作業としても果てしないものになるのだ。
以前はAIの開発会社が長期間に渡りそうやってデータセットを組み上げて行ったが、その後に外注に出されることになった。
データセットを組む専門の企業が出来て行ったのだ。
それらの企業の中には低賃金で雇うために、不法入国の外国人を使ったりし、AI開発の暗部が生まれて行った。
とにかく、人間の作業も膨大に必要なのだ。
《ルシン》はインターネットを通じて自らデータセットを集めて構築することが出来た。
自己進化するプログラムがあるのだ。
また、人間との対話によって「何か」を組み上げる機能もあった。
具体的なプログラムは俺も知らないが、人間相手に対話を続けて行くことで《ルシン》は途轍もない積み上げを行なうのだ。
AIが人間と対話することは普通にあるが、《ルシン》はそこから高速で発展させる。
対話から「興味」を抱き、自らそれを掘り下げて、情報を集め、そしてディープランニングを自分で行なっていく。
データセットから対話の答えを出す通常のAIとはそこが違うのだ。
人間に情報を提供するだけではなく、むしろ自己発展のための材料にして行く双方向の機能があるのだ。
そのため、《ルシン》の記憶容量は桁違いに用意されている。
日々刻々と《ルシン》がデータセットを生み出していくためだ。
相当にユニークな天才が設計したのだろう。
俺も詳しくは知らないが、開発の中心となったのはセルビア人らしい。
セルビア人は時にとんでもない天才が生まれる。
過去にはニコラ・テスラなどがそうだ。
テスラはエジソンの会社に入ってそこで有用な発明を幾つも開発した。
しかし電力供給の事業にあたりエジソンが直流が安全で使いやすいと考えたことに対し、テスラは真っ向から交流の有用性を提案した。
そのため二人は袂を分かち、結果的には現在を観れば分かるように世界中で交流の送電となっている。
エジソンはテスラに相当な嫌がらせをしたらしいが、テスラは本物の天才だった。
交流での送電だけだはなく、無線での送電の構想まで持っていたと言われる。
「世界システム」と名付けられたそれは、本当に実現していればエネルギー問題がまるで変わっていたのかもしれない。
残念ながらテスラのその構想の資料は喪われてしまっている。
《ルシン》の開発者も相当な天才だ。
自己発展するコンピューターなど、まだ誰も成功していないというのに、《ルシン》は実際にここにあるのだ。
開発者は自分がセルビア人であることに誇りを持っており、そのため《ルシン》という名前を冠したと聞いている。
セルビア人がロシア人などのスラブ系の民族とは異なる、東ヨーロッパのルシン語を話す民族であるということだ。
歴史的には東ローマ帝国の末裔と言えるのかもしれない。
彼はそのことに誇りを持っていた。
その《ルシン》こそがアストラール社の重要な機密であり将来の柱となって行くはずだった。
この特異な機能のため単なる計算の速さでは他のAI に後れを取ることもある。
しかし《ルシン》はある種の「閃き」のような結果を提示することがあるのだ。
但し万能ではなく、全てのテーマに有用ではなく偶発的な場合が多い。
そのため他のAIコンピューターよりも計算速度では劣ったりもするのだが、アストラール社は《ルシン》の有用性を十二分に認知していた。
特に製薬開発の分野では《ルシン》が他社の追随を許さない有用性を発揮して来た実績があるのだ。
そして今回「5A169」構造体に関しても奇跡が起きた。
俺は構造体の構築を他の研究員や成田教授たちに任せながら、俺自身は《ルシン》との対話を続けて来た。
《ルシン》に様々な質問を投げかけ、思い付いた全てのことを対話によって積み上げて行った。
俺の感覚ではあるが、《ルシン》は俺との対話に興味を持ってくれたようだ。
俺たちは様々なことを「話し合い」、互いに新たな発想を得て行った。
そしてついに《ルシン》はナノマシン構築に関して特殊な構築法を編み出したのだ。
俺は即座にその構築法を全員に知らせて、各モジュールの実際の構築を促した。
恐らく5年以上は模索したであろう「5A169」構造体が、見る見るうちに現実の構造体として完成して行った。
橋田常務はこの奇跡に狂喜し、他の重役たち、果てはアメリカ本社のCEOも俺の功績を褒め称えた。
今後アストラール社はナノマシンに関して世界最高の企業として君臨することになるだろう。
すぐに動物実験の手配が行なわれ、人体への臨床実験への道筋へも手配が始まった。
アストラール社が全社を挙げての事業として動き出したからには、恐らく実現もずっと早くなる。
だが、俺にはそれを待つ時間は無かった。
橋田先輩の脳腫瘍は肥大のスピードを上げて行ったのだ。




