橋田家への訪問
橋田先輩は一通りの精密検査を終えて退院されていた。
今はまだ実家にいらっしゃるが、しばらくは休職することになった。
具体的な時期は未定であり、橋田先輩にはいろいろな数値が落ち着くまでと説明された。
取り敢えずの目処は1ヶ月だ。
しかし橋田先輩は納得されず、俺は橋田常務から一度説得に来て欲しいと頼まれた。
もちろん承諾し、俺は橋田先輩の実家へ伺った。
橋田常務はその日は出掛けていて家にはいないと聞いていた。
橋田常務も必死で奔走しているのだ。
白金台にある橋田先輩の実家は桜田通りから一つ入った場所にある立派な邸宅だった。
外資系であるストラール社の常務取締役である橋田常務の収入は桁違いに高い。
しかも、元々別な都内の場所の地主だったというから資産は相当なものなのだろう。
この場所で広さ300坪もの邸宅は途轍もない値段になるし、毎年の住民税も高いだろうと普通の人間の俺には思えた。
白い西洋風の御殿のような家で、4階建てであり部屋数はまるで想像も出来ない。
立派な白い門は自動で開くようになっており、プリウスで伺った俺は場違い感も甚だしかった。
その証拠にガレージにロールスロイスとポルシェなどが停まっているのが見えた。
玄関で橋田先輩が出迎えてくれ、俺は恐縮して見舞いの千疋屋のフルーツをお渡しした。
橋田先輩は白のパンツスーツ姿で、今日もお綺麗だった。
顔色は大分良くなっており、こけていた頬も若干戻って赤味も挿していた。
顔は化粧をしているが、首元をみても明るい肌であり、もう十分な休養を取った甲斐が顕われていた。
やはり相当なお疲れだったことは確かだ。
俺が差し出す土産を眉をしかめて受け取った。
「なによ、気にしないで気楽に来て欲しかったのに」
「そうは行きませんよ! 大事な橋田先輩のお見舞いなんですから!」
「まあ!」
橋田先輩は嬉しそうに微笑んで俺を中へ入れてくれた。
邸宅と同じ白く塗装された大きな木製の扉。
玄関は10畳はあるかと思われる。
もちろん脱ぎ捨てた靴などは一切見当たらず、俺は自分の靴を脱いで揃えてから上がった。
橋田先輩がフカフカのスリッパを出してくれ、礼を言って使わせてもらう。
応接室へ案内され、年配の女性が入って来られた。
お綺麗な品の良い方だ。
「紹介するわ。私の母の美津子です」
「兜坂です。今日はお邪魔します」
「兜坂さんですね。主人と娘からよく伺っています。二人が大変お世話になっているのだと」
「いいえ、自分の方こそです! 特に橋田先輩には大学時代からずっと良くして頂いていて。今も仕事でお力添えを頂いております」
お母様が紅茶のセットを運んで来られ、俺に振る舞って下さる。
お茶請けはクッキーだが、高級なものであろうことはすぐに分かった。
少し橋田先輩の普段のことなど話し、お母様は下がられた。
橋田先輩と二人になる。
橋田先輩が紅茶を注ぎ直してくれた。
「ごめんなさいね。仕事に戻りたいんだけど父から、それに成田教授にまで止められてしまって」
「ええ、大丈夫ですよ。ちょっとお身体を壊してしまっているようですから」
橋田先輩には脳腫瘍のことは伏せられていた。
橋田常務は医師と相談して極度の疲労による多臓器不全に近い症状という病名を告げている。
しばらく休養すればよくなるということで、今は無理せずに自宅療養をするような診断になっているのだ。
実際は脳腫瘍は見過ごせないサイズになっており、まだステージはⅡ期ではあるが、今後どれほどの早さで進行するのかは未知だ。
何しろ最近発見されたわけで、これからの経過観察が必要だった。
毎年の定期健康診断は当然受けられているが、普通は腫瘍マーカーなどは取らないので分からなかったのだ。
それに脳腫瘍は自覚症状が無いことも多い。
症状が出た時には危ない状態であるとも言える。
「肝臓や腎臓などの数値が落ち着くまではどうかゆっくりとなさって下さい」
「でも、研究が……」
「ダメですよ! 橋田先輩のお身体が一番大事です! 俺が御無理させてしまって申し訳ありません!」
「そうじゃないんだけど、うん、分かったわよ。仕方がないわね。じゃあ兜坂君、ちょっとだけお休みをいただきます」
「ええ、そうして下さいね。ちゃんと数値が正常になるまでですからね」
「もう、分かったわよ!」
俺が必死に謝ったことで、橋田先輩も退いてくれた。
俺に責任を感じさせたくはないという優しさだ。
俺は笑って橋田先輩が休んでいる間の研究の進捗を少し話した。
あまり話し込んではいけないと思い、30分ほどで切り上げた。
「あのさ、兜坂君」
「はい、何ですか?」
「忙しいのにこんなこと言うのは申し訳ないんだけど」
「ええ、何でしょうか?」
「あのね、ちょっとでいいから時々は顔を見せに来て」
「ああ、そんなこと」
「大事なことなの!」
「何言ってるんですか、そんなこと当たり前でしょう」
「え、兜坂君!」
橋田先輩が興奮して俺に抱き着いた。
俺は慌てて落ち着くように言った。
「もう体調が悪いんですから大人しくしてて下さい!」
「ごめんなさい」
橋田先輩は恥ずかしがってはいたが、嬉しそうに微笑んでいた。
俺に会えないことを不安に思っていたのかもしれない。
俺たちは笑って別れた。
帰る時に橋田先輩のお母さんが玄関まで見送りに来て下さった。
橋田先輩の隣で頭を下げていた。
俺たちの会話も聞いていたのかもしれない。
別に咎めるような思いはなく、心底から心配されているのだと理解している。
それに一人娘の橋田先輩が重い病気になられたのだ。
さぞ苦しい思いでいることだろう。
俺もお二人に深々と頭を下げて、帰った。




