橋田先輩の病気
『エトワール』はランチタイムを過ぎて空いていた。
俺が到着すると、先に橋田常務が座って待っていた。
他にはPCで作業している人間が一人だけだ。
「すいません、お待たせしました」
橋田常務はいつものように笑顔で「いいよ」とは言わなかった。
俺を見て真剣な顔をしている。
ウェイトレスが来て、俺は向かいに座ってブレンドを注文した。
俺のコーヒーが届くまで、橋田常務は口を開かなかった。
何か重要な用件があることはそれで分かったが、思い当たることが無い。
ようやく俺のブレンドが届き、ウェイトレスが離れてから橋田常務が言った。
「奈保美の検査の結果が出たんだ」
「何かあったんですか!」
俺は不安に襲われた。
この状況は、橋田先輩に良くないものが見つかったということなのだろう。
しかも深刻な。
橋田先輩が相当お疲れだったのは知っている。
だから疲労が溜まって正常な思考が乱れることもあった。
そう考えていた。
「奈保美の頭部に脳腫瘍が見つかった」
「なんですって!」
「4センチ大のものだ。結構大きい」
「そんな……」
橋田先輩は念のために腫瘍マーカーの検査も行なったようだ。
それに引っ掛かった。
だから全身のCTとMRI検査をし、その結果脳に腫瘍が見つかったらしい。
「脳幹部だ。それに小脳に接していて外科手術は難しいらしい」
「他の抗がん治療は?」
「今検討してはいる。でも兜坂君、君も知っての通り抗がん剤や放射線治療は効果が未知で期待できないものだ」
分かっている。
俺も散々美咲の脳腫瘍の治療法を調べたのだ。
現在は粒子線治療という従来以上の治癒を期待できる治療法もあるのだが、残念ながら脳腫瘍には適用出来ないことになっている。
抗がん剤は確実に効果が望めるものはまだ無く、放射線治療は脳という特別な部位のために危険が及ぶ。
特に脳幹部で小脳や間脳といった身体機能を司る場所の傍では使えない。
橋田常務は俺を見ていた。
「兜坂君、助けてくれ」
「……」
「君の開発中のナノマシン治療でなんとか娘を助けてくれ、頼む!」
「橋田常務……」
もちろん俺に否やは無い。
全力で開発を進めよう。
しかし順調に進んでいるとはいえ、まだ開発自体にも数年は掛かる予定だ。
それに臨床で使えるのは恐らくもっと先だ。
だがそれを今口にすることは出来なかった。
「橋田常務、自分は全力を尽くします」
俺はそれだけしか言えなかった。
橋田常務は俺に頭を下げながら、俺が言った言葉に反応は無かった。
これは俺たちの虚しい遣り取りなのだ。
橋田常務も製薬会社の人間だ。
今の「5A169」構造体の開発がどれほど困難なものかは分かっている。
それに一番のネックは治療薬として認可されることの難しさだ。
丁度橋田常務ご自身がその仕事を担っているが、それだけに認可までの道のりが遠いことも知っている。
だからこそ政治家や官僚を動かそうと奔走しているのだ。
臨床実験にこぎつけるまでにも相当な時間が掛かることも分かっている。
動物実験は比較的早く出来るだろうが、人間のガン細胞への治療なので、実際には治験をこなさなければ本当の安全性や効能は分からない。
動物実験は安全性の証明だけになる。
もっと言えば、その安全性の証明は年単位での経過観察が必要になる。
ラットという寿命の短い動物での実験ですらそうなのだ。
本格的に人間の治験を行なうとして、どれほどの期間が必要とされるのかは分からないが、最低でも数年は掛かるだろうし、恐らくは10年を超える。
今、スタンフォード大学ではヒトのキラーT細胞をラットに投与した場合の実験を依頼している。
橋田先輩がそうやって来たるべき認可に向けての準備を既に始めて下さっていたのだ。
だがそれにしても時間が掛かる。
「兜坂君、頼む!」
また橋田常務がまた頭を下げた。
俺の目の前にいるのは、娘を救いたい必死の人間だった。
俺にはその気持ちは痛いほどに分かるのだ。
俺を見上げ、縋るような眼差しで俺の目を見ていた。
俺はただうなずくしか出来なかった。
俺は橋田常務と別れ、考えていた。
美咲は俺の瞳が紫色だと言っていた。
幼い頃からずっとだ。
そして美咲は生まれながらに脳腫瘍を抱えていたことを俺は知った。
橋田先輩はアメリカへ留学中に『むらさきいろの目の王子様』を書いた。
先輩にも俺の瞳が紫色に見えたからなのではないだろうか。
これはどういうことだ……
俺の瞳が紫色に見えた二人が脳腫瘍を持っていた。
俺は研究の合間に紫の瞳について調べてみた。
虹彩が紫色というのは恐ろしく希少な色であり、1000万分の1以下の確率らしい。
瞳の色はメラニン色素との関係で異なるらしい。
但し、人間の遺伝子には紫色の色素は存在しない。
だから光の反射によってその色に見えるというのが実情だ。
余談だが生物には青の色素は基本的に存在しない。
それなのにモルフォ蝶などの真っ青な美しい羽、カワゲラの一部などにもそのような青が存在する。
しかしそれは実は反射なのだ。
モルフォ蝶やカワゲラの羽も水に浸すと本来の茶色の羽になる。
美咲や橋田先輩は何らかの反射光によって俺の瞳を紫色と認識した可能性が高いだろう。
脳腫瘍を持っている人間に特有の反射光を見ることがあるのかもしれない。
今はここまでだ。
俺が取り組まなければならないのは「5A169」構造体の開発だ。
橋田常務は口にこそ出さなかったが、認可されずとも橋田先輩のために「5A169」構造体を使うつもりだ。
俺も美咲に対して全く同じことを考えていた。
もう、これしかないのだ。




