橋田先輩の入院
数日後、橋田先輩とお会いした時に、1週間ほど休暇になったと言われた。
わざわざ俺の会社まで来て話してくれた。
明日からということだった。
「そうですか。ゆっくり休んで下さいね?」
「うん、ごめんね。確かにちょっと疲れているみたいだから」
「それはそうですよ。俺もいろいろご迷惑をお掛けしましたし」
「それは無いわ! 私は休むつもりは無かったんだけど、成田教授から強く言われてしまって」
「教授の言う通りです。橋田先輩は休む必要がありますって。研究の方は順調に進んでいますからね。ああ、今橋田常務がナノマシンの製薬化に向けて厚生労働省と交渉に入りました」
「そうなの! それは知らなかったわ!」
「本当はまだ極秘の案件ですからね。橋田先輩には特別です」
「アハハハハハ!」
もちろん機密事項を漏らしたわけではない。
親子と雖も会社の機密を打ち明けるわけには行かないが、橋田先輩は研究チームのトップなので知っておいて問題は無い。
ただ、伝達の順番というものがあり、統括責任者の俺から伝えたというだけだ。
他には成田教授にもお話ししている。
流石にそこまでの範囲になるが。
だがこれで「5A169」構造体の臨床試験へ向けての本格的な動きが始まったわけだ。
今までにないナノマシンによる治療法が始まるのだ。
製薬とは違ったものであり、それに沿った法整備も含めた手配になって行く。
そのために政治家や官僚たちとの交渉、それに安全性を確保するために他の研究機関との連携も必要になって行く。
俺は研究畑だけしか知らない人間なので、そういった認可に向けてのことは全く疎い。
橋田常務がその困難な仕事を一手に引き受けて下さった。
またお世話になってしまった。
もちろん世界的に初の試みであり、これが実現すればアストラール社は一気に名声を得ることが出来、莫大な利益を上げることになるだろう。
だからこそ会社としても最大の力を注ぐつもりだし、それが優秀な橋田常務に任されたということでもある。
橋田常務はそうした政財界や様々な機関へのパイプを持っている人だった。
アメリカの本社でも大きな期待を寄せており、この動きに伴って研究費予算もとんでもなく増えた。
もちろんまだまだ見えない未来だが、着実に進み始めている。
橋田先輩もそうした状況は分かっており、だから今研究から抜けることをよしとしなかったのだ。
今が大切な時期であるためだ。
でも言い換えれば今だからこそだ。
これから本格的な完成に向けて動き出すのだから、今のうちに身体を整えておいた方がいい。
俺もそう説得した。
「だから橋田先輩はゆっくりと養生して下さいね」
「分かったわ。一応実家に戻るつもりなの」
「それがいいですよ。自宅にいるとまた研究に没頭しちゃいますからね」
「うん、父にも読まれてる。強制送還よ」
「まったく!」
橋田先輩は明るく俺の前で笑った。
きっと成田教授も橋田常務も説得に苦労したことだろう。
橋田先輩は意外と頑固な面があることを知っていた。
優しく温厚な人だが、一度決めたことは絶対に貫こうとする方だ。
だから学生時代にも留学時代にも多くの人間の信頼を得て来た。
スタンフォード大学に応援を頼めたのも橋田先輩の伝手だ。
本当に素晴らしい人なのだが、今回は相当な無理を重ねられた。
「また兜坂君に会いたい……」
「え?」
「あ、何でもない! 私、何言ってるんだろう……」
「休暇が終わったらまた会いましょう」
「うん、楽しみにしてる」
「それじゃ、本当に休んで下さいね」
「分かったわ。大人しくしてるって」
「約束ですよ」
「もう、分かったって!」
俺たちは笑って別れた。
翌日、橋田常務から呼ばれ、また近所の喫茶店『エトワール』でお会いした。
橋田先輩の話であることは分かっていた。
「兜坂君、娘を入院させることにした。精密検査を受けさせるよ」
「そうですか、大分お疲れのようですからね」
「うん、今朝奈保美を見て驚いたよ。大分痩せていた」
「はい、申し訳ありません」
橋田常務が笑って言った。
「いやいや、君のせいじゃないよ。奈保美が自分でやったことだ。まあこの際徹底的に検査するさ」
「はい。研究の方は全く問題ありませんので、どうかゆっくり休むようにお伝えください」
「分かった、ありがとう」
「いいえ、こちらこそです」
一応一週間の休暇だが、俺は場合によってはもっと休んで欲しいと言った。
万一検査で何か異常が出れば、それを治してから復帰して欲しいと。
「ありがとう。私がしっかり見ているよ」
「お願いします」
橋田先輩の御実家は白金台にあった。
『虎の門病院』に検査入院されるそうだ。
あそこならば最新の医療機器もあるし優秀な医者も多い。
いろいろと詳細に調べてくれることだろう。
俺は安心していた。
橋田先輩の抜けた穴はもちろん大きかった。
成田教授の所の研究チームは橋田先輩が主導で担っていたためだ。
俺が統括責任者にはなっていたが、流石に外部のチームのために詳細な指示は出来ない。
振り分けていたモジュール構造の幾つかを俺の研究チームで対応することにした。
橋田先輩が復帰すればまた割り振りを変えるつもりだ。
入院中の橋田先輩からは、一度も連絡が来なかった。
橋田常務が携帯電話などを取り上げたらしい。
その話を聞いて俺は笑った。
そうだ、橋田先輩ならば絶対に研究の進捗を気にするに決まっている。
今は本当に養生に専念して欲しい。
もちろん俺からも連絡することもせず、病院に会いにも行かなかった。
だが五日後、橋田常務からまた呼び出された。




