時が流れない
美咲がいなくなったことで、俺の時間は止まった。
美咲が最期に目を閉じた瞬間から動けなくなった。
あの30年も見続けて来た可愛らしい顔が、少し微笑みながら止まってしまったのを見て、俺は自分の全てのものが美咲に結びついていたことを知ったのだ。
美咲がいたからこそ、今までの俺が在ったのだ。
だからそこからの時間は勝手に俺の周りで流れ、俺は止まったままだった。
俺は暗い中でそれをぼんやりと見詰めているだけだった。
俺は美咲を喪ったことで終わったのだ。
「孝道君、そんなに泣かないで」
美咲のお母さんがまるで分厚いガラスの向こう側からそう言っているのが聞こえた。
遠い所にいるようで、俺はそれが自分に向けられていることすら感じていなかった。
そもそも俺は自分が泣いていることすら分からない。
自分のことなどどうでもよく、美咲を喪った瞬間に俺は留まっていた。
何人かが俺だったものを運んで操っていた。
俺はただその流れに乗ったまま、美咲の死に縋っていた。
もう何も望むことなどなく、唯々美咲の死の傍から離れなかった。
俺は小さな人形になり、「俺」を使ってくれる人たちに任せた。
俺は何も考えることすらせず、美咲の葬儀ですら美咲や俺の両親の手配で終わってしまった。
俺は唯ぼんやりとそれを見ていた。
婚姻してはいなかったので、喪主は美咲のお父さんが務めた。
でも俺が中心に座らされ、全てが回って行った。
俺は何も感じないままにそれを見ていて、俺の中のほんの少しの「俺」が出来事を眺めていた。
「孝道君、辛いだろうが君はちゃんと生きてくれ。君の人生はきっと美咲がこれからも見ているよ? だってあんなに君のことが好きだったんだからね」
美咲のお父さんが俺にそう言っていた。
その言葉が小さな「俺」に何とか届いた。
でも「俺」は人形だったので、動けもしないし言葉も出なかった。
そのことが「俺」にまた何かを感じさせた。
俺は何も感じない人形になりたかったのに。
両家で話し合い、美咲の遺骨は美咲の家の墓に納められた。
俺の両親と美咲の両親は俺の手元にしばらく美咲の遺骨を置いておこうかと話していたが、俺の状態を見てそれは取りやめとなった。
そういうことすら、「俺」は何も感じなかった。
美咲はどうせ、もういないのだ。
そう自分に言い聞かせる「俺」の欠片がいた。
ほんの少しだけ「俺」は見ていた。
俺は葬儀の間、ずっと泣いていた。
あまりにも俺が泣き続けるので、大勢の人に心配された。
俺の両親や美咲のご両親、常に誰かが俺の傍にいてくれた。
橋田常務や会社の仲間たちも成田教授の研究室の方々も、もちろん橋田先輩も葬儀に参列下さったが、俺は誰とも話が出来なかった。
ただただ涙を流していた。
俺の状態を心配し、俺のお袋が家に戻るように言ったが、俺はマンションへ戻った。
その時だけは「俺」が僅かに話した。
「いや、美咲と暮らした部屋にいるよ」
「そう。元気を出してね、美咲ちゃんが悲しむからね」
お袋がそう言って俺たちの部屋まで送ってくれた。
心配そうなお袋に「大丈夫だ」と何とか言ったのを覚えている。
終わった俺は、あそこにいたかったのだ。
それが「俺」の唯一の望みだった。
独りで何もする気にはなれずに部屋に籠っていた。
全てが終わって、俺の中に少しずつ何かが生まれて行った。
「俺」がほんの少しだけ大きくなり、それが俺を苦しめた。
あちこちから連絡が来たが、それにも出なかった。
食事も摂らず、ベッドに寝ていた。
もう俺も終わりたかった。
美咲のいない世界で生きる気力も失くし、最後に美咲を裏切ってしまった罪悪感でこれからのことも考えられなかった。
死にたかった。
余りに悲しく、苦しみに耐えかねて俺は酒を飲んだ。
酔い潰れることで痛みが僅かに和らぎ、そのことが俺にますますの罪悪感を植え付けた。
何日も泣き続け、腐りはてた俺は、もう涙も出なくなった。
悲しみは重く辛く、もう悲しむことを突き抜けて苦痛だけが残った。
だから俺はますます酒に溺れた。
美咲の遺影も位牌も風呂敷に包んだまま、俺は酒を飲んで我を忘れた。
このまま惨めに死にたかった。
テーブルに座り、ウイスキーの瓶とグラスだけを置き、俺は意識の続く限り呷り続け、少し眠って起きるとそれを繰り返した。
もはや時間の感覚も無く、何日過ぎたのかも、カーテンを引いたままなので今が昼なのか夜なのかも分からなくなった。
美咲を喪失したことで、俺は自分がいなくなったのだ。
喪失の悲しみは自分が死を望むことで遠ざかり、ただ、苦痛だけが残った。
今いる俺は、抜け殻以下のゴミのようなものだった。
あれほどに俺をただ愛してくれていた美咲を助けられなかったばかりか裏切ってしまった。
その苦痛が。
俺はあとほんの少しだけ時が流れることを望んでいた。
いや、ただ待っていた。
でも今も俺の時は止まったまま、苦痛だけが俺の中で渦巻いていた。
時々チャイムが鳴らされ、時にはドアを叩く音が聞こえた。
俺か美咲の両親だろう。
でも俺はそれを無視していた。
しかし、ドアが開けられ誰かが入って来た。
俺は酩酊している頭で、どうでも良いと感じていた。
何もする気にもなれず、ただ腐って醜く果てて行きたかった。
もうあまり考えることも無くなっていた。
ただ、その時を待っていた。
「……」
誰かが何かを言っていた。
俺は床に転がっていたようで、抱き起され抱き締められた。
目を開ける力も無かった。
叫ぶ声が聞こえたが、意味は分からなかった。
俺はそれほどに堕ちていたのだ。
そして意識が途絶えた。
ようやく本当に時が止まると思っていた。




