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美咲ちゃんはちっちゃくてカワイくて、そしてとっても早い  作者: 青夜


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愛の羅(あみ)

 橋田先輩は何も話さずに歩いて行った。

 俺は重い資料とPCの入ったカバンを持ち、橋田先輩は私物の入ったエルメスのケリーデペッシュだけを持った。

 橋田先輩の住むマンションは8階建ての広大な建物で、豪華な造りだった。

 俺はマンションの前までは来たことはあるが、中に入るのは初めてだった。

 エントランスは広く明るく、24時間の警備というかコンシェルジュが常駐している。

 鍵を挿す機械も大理石で覆われたものだった。

 橋田先輩はエルメスのケリーデペッシュからポロサスのキーケースを取り出してエントランスの扉を開く。

 ガラスの扉は分厚く、また広かった。

 相当な重さがあると思われるが、スムーズに開閉する。

 後ろでコンシェルジュの女性が深々と頭を下げていた。

 橋田先輩は何も話さない。

 俺も別に話すことは無かったので黙って歩いた。

 時間帯は遅いが、単にお茶を飲むだけのことだと俺は自分に言い聞かせた。

 そうしなければ、自分の中の何かが表に出てきてしまう。

 俺は淡い後悔を感じていた。


 橋田先輩は最上階の8階に住んでいる。

 エレベーターホールに着く前に広いロビーがあり、ここで来客を迎えることが出来るように豪奢なソファセットが幾つもあった。

 そこは庭に面して広い嵌め殺しのガラスが回してあり、山水のような庭園が眺望できる。

 また橋田先輩がエレベーターホールに向かう扉を鍵で開けた。

 防犯と言う以上に、住む人間の快適さを求めた仕様だ。

 渋い金色の内装のエレベーターに一緒に乗り、やはり黙って橋田先輩がボタンを押した。

 エレベーターの中も、ホールと同じく毛足の長い絨毯が敷いてある。

 大きさは12名が乗れる広いもので、対面に大きな姿見の鏡が付いている。

 その姿見に映った橋田先輩の緊張した顔を見て、俺も強張った。

 静かにドアが閉まり、エレベーターが上がり始める。


 「今日もお疲れ様です」

 「いいえ」


 それだけだった。

 俺たちは8階でエレベーターを降り、長い廊下を歩いた。

 橋田先輩のお部屋は角部屋のようだった。

 廊下もまた絨毯が敷いてあり、清掃が頻繁に入るらしくゴミ一つ落ちていない。

 橋田先輩の部屋に着く。

 盛り上がった金泥の意匠の豪華なドアに鍵を挿して開けた。

 広い玄関とそれに続く広い廊下が見えた。

 

 「入って」

 「はい、お邪魔します」


 人感センサーか、自動で暗い玄関の灯が点き、橋田先輩が脱いだパンプスを綺麗に整えて上がった。

 俺に来客用のスリッパを出してくれる。

 室内は清潔で掃除が行き届いていた。

 非常に忙しい橋田先輩のはずだったが、やはり育ちがいいのだ。

 俺はそのままリヴィングへ案内され、ソファを勧められて座った。

 明るいベージュのクロスのソファで、それほど柔らかくはない。

 そういうものが橋田先輩の好みなのだろう。

 部屋は暖色系の照明で、そこは俺と同じ好みだ。

 橋田先輩はキッチンで湯を沸かしている間に部屋着に着替えて来た。

 ゆったりとしたTシャツとスウェットのパンツだった。


 「ごめんね、こんな寛いだ格好で」

 「いいですよ、もうゆったりとなさってください」


 本当にお邪魔しているのはこちらの方だ。

 お茶をいただいたら、すぐに帰ろう。


 「ねえ、軽く飲む?」

 「いいえ、運転がありますから」

 「あ、そうだった!」

 「橋田先輩は召し上がって下さいよ。ご遠慮なく」

 「うん、じゃあごめんね。私だけいただくわ」


 そう言って橋田先輩は冷蔵庫からロゼのワインを取り出した。

 そして沸騰した湯で俺のために紅茶を淹れてくれる。

 俺に紅茶を出し、キッチンでチーズを少し切って持って来た。

 一緒に食べられるように俺たちの間に皿を置く。

 俺は紅茶の香りを嗅ぎ、一口飲んだ。


 味が分からなかった。


 「兜坂君、少しは休んで」

 「先輩こそ。このところずっと遅いですよ」

 「兜坂君こそ、私が上がった後も研究をしているでしょう?」

 「俺は自分がしたいからです」

 「お願い、少しは身体を労わって。もう見ていられないほどに痩せたわよ」

 「……」


 橋田先輩はそれが言いたくて俺を部屋に入れたのか。

 俺のいるソファの隣に来て座った。


 「頑張ったけど、もう……」

 「……」


 分かっている。

 今の進捗では美咲を救うことは出来ない。

 MRIやCTの画像は、もう美咲の脳腫瘍が不可逆的なほどに膨張していることを示していた。

 その肥大が美咲の意識を奪っていることは確実だった。

 多分、このまま美咲はほとんど目覚めることはないだろう。

 

 「兜坂君、お願い、もう無理をしないで」

 「……」


 何かを言おうとした瞬間、橋田先輩が俺を横から抱き締めた。

 不意を衝かれはしたが、俺も拒もうとも思わなかった。

 橋田先輩の唇が俺に重なる。

 橋田先輩の閉じた瞼から涙が溢れた。

 俺も橋田先輩を抱き締めた。

 力が抜け、柔らかな身体が俺に預けられた。

 俺の方からキスをした。

 橋田先輩が潤んだ目で俺を見ていた。


 「今日は帰りますね」

 「兜坂君……」


 俺は黙って立ち上がり、部屋を出た。

 橋田先輩は無言で座ったままだった。


 「じゃあ、また明日」

 「うん……」


 二人とも、今あった出来事には触れない。

 触れられるわけもない。

 俺たちは確かめ合ってしまったのだ。


 俺はその日から数日、美咲の病室へは行けなかった。

 激しい後悔と美咲への懺悔で死にたかった。


 以前に読んだ源信の『往生要集』の言葉が頭に浮かんだ。


 《我は悲の器なり、...〔略〕...閻魔大王答えて曰く、おのれと愛のあみたぶらかされ、悪行を作りて、いま悪行の報いを受くるなり》




 俺は報いを受けたかった。

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