うねりゆく思い
橋田先輩は早速俺の提案したIL-2のナノマシン化に取り掛かった。
多少は構造が単純なので、早く仕上げたいと会う度に言って下さった。
もちろん並行して「5A169」構造体の構築も進める。
成田教授が人員を手配して、橋田先輩の作業を補助するようにしてくれた。
俺も自分の研究室の人員を使って同じ作業を進めた。
橋田先輩の研究チームと連携し、互いに分業体制を整えていく。
IL-2のナノマシン化は橋田先輩の研究チームにお任せした。
「5A169」構造体は幾つかのモジュールに分解し、それぞれの研究チームで構築を分担して行くようにした。
その総指揮を俺が執った。
更に橋田先輩は古巣のスタンフォード大学にも応援を頼み、生化学部門の研究室にIL-2の誘導の研究を頼んでくれた。
成田教授も伝手を使って協力を要請してくれ、俺たちの「5A169」構造体の実現に向かって様々な人間が手伝ってくれる体制も整って行った。
本当に有難い。
それもこれも、橋田先輩が懸命に「5A169」構造体の有用性を訴え続けてくれたお陰だ。
学会や研究発表に慣れている橋田先輩が、実現してくれたのだ。
美咲の容態は良くなかった。
睡眠時間が徐々に長くなり、脳圧を下げる薬も効かなくなって行った。
薬品は続ければ必ず効能は鈍化する。
美咲は既に東大病院で治療しているが、それほど遠くなく限界が訪れる。
起きている間、美咲は頭痛を訴えることが多くなって来た。
腫瘍の拡大は止まらず、何度も抗がん剤や放射線治療を検討したが、効果は未知で副作用の弊害だけは確実だったので実行しなかった。
俺は「5A169」構造体の開発に全力で臨んだ。
サマー・バカンスを予定していたがそれも返上し、研究に没頭した。
だが、予想はしていたが美咲の病状は進み、意識を取り戻さない時間が長くなった。
「もう限界です。入院をお勧めします」
ついに東大病院の主治医からそう言われた。
美咲は毎日平均して1時間も起きておらず、そのために食事も少なくなった。
食欲自体も徐々に低下している。
もう点滴やチューブで栄養を補給する必要があった。
俺が食べたい物を聞いて作ると大喜びで食べ始めるが、あまり食べないうちに受け付けなくなってしまう。
下手をすると俺が作っている間にまた眠ってしまう。
美咲のお母さんには最近は泊まって頂くことが多くなった。
そして俺も出掛けられなくなってしまった。
もう限界だろう。
何よりも美咲を助ける研究が滞ってしまうのだ。
橋田先輩も、俺に美咲の入院を勧めて来た。
俺にも分かっていた。
病院で美咲の介護をしなければ、美咲はもう生命を維持できない段階に来ている。
美咲が俺と一緒の生活を喜んでいたとはいえ、今は既に美咲の意識がほとんどない。
入院すれば専門の医師が美咲を最も良いように世話してくれる。
美咲は意識を取り戻せばきっと泣くのだろうが、そういうことももはや言ってはいられないのだ。
俺は美咲の御両親と相談し、美咲を入院させることにした。
「もしかしたらまた起きていられるようになるかもしれませんよ」
「うん、そうだといいね」
虚しい会話だったが、俺はそう思わずにはいられなかった。
痩せていって眠り続ける美咲は、尚も可愛かった。
特別な配慮で、美咲が起きたら病院から俺に連絡をもらうようにしてもらった。
お母さんも基本的に昼間は美咲の傍にいてくれる。
俺は「5A169」構造体の研究にますます没頭した。
もう家にも戻らず、研究室に篭っている。
一日の数時間は東大病院へ行って美咲の顔を見ているが、起きていることは稀だ。
むしろ俺がいない間に起きると大泣きするようで、可哀想だった。
俺は美咲が起きた連絡をもらったらすぐに病院へ向かうようにし、その移動のために車を買った。
トヨタ・プリウスのプラグインハイブリッドだ。
時々橋田先輩も美咲の見舞いに来てくれる。
大抵は俺と一緒にだが。
しかも、気を遣って美咲が起きている時には会わずに帰られる。
プリウスを買ったことで、橋田先輩と一緒に移動することも増えた。
美咲の見舞いもそうだが、アストラール社への行き来も俺と一緒になることが多くなった。
大量の資料を移動する場合も、俺の自家用車が便利であることに気付いた。
毎回重い資料を運ばせてしまっていたことに、遅ればせながら気付いて申し訳なかったと思った。
橋田先輩の自宅へも送ることもあった。
今は東大の近くのマンションに住んでおられる。
やはり研究を主軸に生活を整えているのだ。
今は毎日のように橋田先輩と一緒にいるようになり、橋田先輩が俺の状態を心配し出した。
俺は研究に没頭するあまりに、食事も疎かになり、夜も眠っていない。
自分では夢中でやっているので気付くことも無かった。
だからこそ、橋田先輩は非常に心配してくれた。
「兜坂君、酷い顔をしてるよ?」
「すいません。ちょっと眠っていないので」
「食事も摂ってないんでしょう! ダメよ、そんなのは!」
「すいません。気を付けますよ」
そんな遣り取りが毎日のようにあった。
俺も分かってはいるが、時間が少ないことがどうしても俺を留められなかった。
美咲がいればきっと俺を止めただろう。
何をどうであろうと、絶対に俺を止めた。
だが、美咲は眠っている。
俺を止める人間はいなかった。
その日も橋田先輩と研究の進捗を検討し、俺が橋田先輩を自宅まで送った。
「兜坂君、今日もありがとう」
「いいえ、早く休んで下さいね」
「それはあなたの方よ。もう。ねえ、ちょっと上がって行かない?」
「いいえ、こんな時間ですし」
夜の11時を過ぎていた。
そうでなくとも、俺は橋田先輩の部屋へ行ったことは無かった。
「いつも送ってもらって、少しはお礼がしたいの」
「俺の方こそですよ。毎日遅くまで研究していらっしゃるのですから」
「ちょっとだけ。お茶を飲んで行って」
橋田先輩は俺の腕を握って離さなかった。
今日はいつになく本気だった。
仕方なく俺も付き合うことにした。
いや、そうではないか。
俺は自分でそう決めたのだ。
俺は自分の心が波であることを知った。
硬い岩ではなく、うねりゆく波なのだ。
「分かりました」
マンションの駐車場に車を入れ、俺は橋田先輩の部屋へ伺った。
俺は自分の心の波に自ら溺れたのだ。




