IL-2
翌日、また橋田先輩とお会いした。
今日も俺の自宅の近くの貸会議室まで来て頂いている。
8畳間ほどの広さで、会議テーブルと事務椅子、そしてホワイトボード、ハンガーラックが一台だけの簡素な部屋だ。
ビル全体が貸会議室になっており、様々な部屋やホールがある。
俺たちには簡素な部屋で十分だった。
橋田先輩はシルク混の綿の薄手の白いスカートに淡いピンクのブラウスを着ていた。
いつもながらに清楚な雰囲気だ。
荷物はルイ・ヴィトンのダミエのトートバッグだけで、薄いノートPCも入っている。
俺は白い綿のスラックスに青いクリネックのシャツを着ていた。
カフスに金のダンヒルのブルドッグを挿している。
橋田先輩と会うのにみすぼらしい格好にならないように気を遣っていた。
俺が買って来たチェーン店のアイスコーヒーを渡すと礼を言われた。
橋田先輩がノートPCを開いて準備をしたところで、俺が昨夜考えたことを話した。
「素晴らしいわ! うん、分かった。この方法を試してみるね」
「キラーT細胞そのものを作ることは続けますが、それを誘導するナノマシンはもっと早く出来る気がするんです」
「そうだね、構造は単純だから。でもよく思いついたね!」
「出来ることは全部と思いまして。元々体内ではあのキラーT細胞は存在するんですから、それらも利用出来ないかって」
「面白い発想だよ、早速成田教授にも報告する」
橋田先輩が嬉しそうに笑った。
俺が考案したのは、IL-2(インターロイキン2)のナノマシン化だった。
キラーT細胞は腫瘍細胞の自壊を促すことで破壊する。
だがそのためには腫瘍細胞まで直接自身が赴かなければならないのだ。
その順番大きく分けて三段階だ。
まず抗原提示細胞というものが細菌やウイルス細胞を発見すると抗原ペプチドを分解し、それがMHCクラスⅡというものを構成する。
敵の解析と分類だ。
次にそのMHCクラスⅡがヘルパーT細胞に認識されIL-2(インターロイキン2)を生成し、キラーT細胞に腫瘍の位置や情報を知らせる。
最後にキラーT細胞が準備を整えて出発し、細菌やウイルスを死滅させる。
複雑だが、体内を巡回する係と知らせを受けて連絡する係がいて、警察官のようなキラーT細胞が逮捕するって感じだろうか。
俺はそのシステムの中で直接キラーT細胞を誘導するIL-2をナノマシンで作ってしまおうということを考えたわけだ。
もしもそれが開発されたら、腫瘍の周辺にそのナノマシンを配置すれば、キラーT細胞があとはやってくれる可能性が高い。
それにIL-2が多くなれば、体内の免疫機構がそれに見合ったキラーT細胞を量産することも考えられる。
もちろんあまりにも楽天的すぎる考えだが、試してみる価値は十分にある。
急いで研究室へ戻るという橋田先輩を食事に誘った。
もう夕方の4時になっていた。
この時間から橋田先輩は研究室でまた作業するつもりなのだ。
その様子を見て、まだまだ遅くまで毎日作業をしていることが窺えた。
「橋田先輩、大分痩せましたよ?」
「何言ってるの」
「ダメです。きちんと食事をして下さい」
「分かっているわ。でも……」
俺は笑って強引に外に誘った。
何か食べさせようと思っていた。
丁度その時、美咲のお母さんから連絡が来た。
美咲が目を覚ましたようだ。
こうなると俺は帰らなければならない。
「すいません、美咲が起きたようです」
「そう、じゃあ戻らないとね」
「ええ」
俺は少し考えて言った。
一番の不安は美咲のことだ。
でもやっぱりお誘いした。
「橋田先輩、うちで食事を如何ですか?」
「え!」
「簡単なものしか作れませんが、宜しければ是非」
「でも佐伯さんが……」
俺はまた笑って言った。
もう俺の心は決まっていた。
橋田先輩を美咲に会わせたい。
美咲はあんなにも橋田先輩を慕っていたのだ。
きっと会えば喜んでくれる。
それに橋田先輩にも今の美咲を見せておきたかった。
もしかしたら、もう美咲には会えなくなるかもしれないのだ。
橋田先輩としては複雑な思いもあるかもしれない。
でも、俺はあの美しい思い出を蔑ろにはしたくなかった。
俺たち三人は、確かに友愛で結ばれていたのだ。
よく三人で一緒に遊んだし研究に励んだ。
あの日々は俺たち三人の中で今も輝いている。
俺たちはもう戻れないが、喪ってはいないと信じたい。
俺も美咲も橋田先輩も、互いに大切に思う関係なのだ。
「大丈夫ですよ。美咲は橋田先輩のことを憶えてました」
「え、そうなの?」
「ええ、昨夜確認しましたよ。美咲の大好きな『むらさきいろの目の王子さま』の作者が橋田先輩だと教えたら、美咲は喜んでました」
「そうなの!」
橋田先輩は嬉しそうに、また恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、本当にいいの?」
「もちろんです! 是非美咲にも会ってやって下さい」
橋田先輩は承諾してくれ、一緒に家に向かった。
美咲の状態は、もちろん橋田先輩も御存知だ。
俺が詳しく話しているし、橋田先輩も心配して様子を聞きたがっていた。
途中で美咲のお母さんにも連絡し、橋田先輩をお連れすることを伝えた。
お母さんも喜んでお連れして欲しいと言ってくれた。
お母さんは橋田先輩の自殺未遂やその原因となった思いは知らない。
もちろん美咲もだ。
今はそんなことは関係無い。
俺たちの友情は、確かに今もあるのだ。
橋田先輩は多少緊張はしていたが、やはり嬉しそうな顔をしていた。
俺は、その笑顔が美しいと思った。




