何を書いているの?
橋田先輩と別れて俺がマンションに戻ると、美咲が起きていた。
まだ眠っている間に戻るつもりだったので、やはりお母さんにいてもらって良かった。
俺がいなくてもお母さんが傍にいるので、美咲は大人しくしている。
美咲はリヴィングのテーブルでまた絵を描いていたようだ。
画用紙やクレヨン、色鉛筆などがテーブルに拡がっている。
今はクレヨンや色鉛筆ではなくペンを握っていた。
ペン画だろうか?
お母さんは洗濯物を畳みながら俺に気付いた。
「孝道君、お帰りなさい」
「あ、タカちゃん!」
「やあ、戻ったよ。お母さん、今日もありがとうございました」
「いいえ。美咲は1時間前から起きていたわ」
「そうですか」
美咲がA4程の紙を裏返した。
俺は美咲が描いていた絵を見ようとしたが、美咲が慌てて隠した。
「なんだよ、ちょっと見せてくれよ」
「ダメよ!」
美咲は叫んですぐに寝室へ入ってしまった。
俺はお母さんと目を合わせて笑った。
「何を恥ずかしがってるんですかね」
「ウフフフフフフ」
まあいい。
でも絵が描かれた他の画用紙などはテーブルにあった。
はて、それじゃ何を持って寝室へ行ったのだろう?
俺がテーブルの絵を見ていると、お母さんがお茶を淹れてくれた。
美咲も戻って来る。
別に自分の絵を見られても平気な顔をしている。
先ほどの美咲の言動は、子供の甘えの行為とかなのだろうか?
「タカちゃーん!」
「おう!」
美咲と一緒に見た。
画用紙の美咲の絵は俺と一緒にテレビを見ている情景だった。
俺たちの座っているソファの後ろからのものであり、そういう三次元的な位置関係を美咲は絵画に出来るのだ。
やはり幼児の知能ではない。
線も拙くはなかったし、色も多彩だ。
「上手く描けてるな!」
「エヘヘヘヘ!」
美咲が喜んでいる。
さっきは見せたがらなかったのに、気分が変わったのか。
でも今の美咲が何かを恥ずかしがるなどというものがあるのだろうか?
「なんだよ、恥ずかしかったの?」
「え、なーに?」
あれ?
まあいいや。
「時々ね、何か書いては隠してるの」
お母さんが教えてくれた。
「そうなの?」
「なんにもないよー」
美咲は特に気にしてもいない。
お母さんは俺が戻ったので早々に帰られた。
本当は自分も美咲の傍にいたいはずなのだが、美咲が俺と二人の時間を欲していることを考えてのことだ。
申し訳ないと思う。
俺は夕飯の準備をした。
今日はナスのはさみ揚げを作る。
ひき肉のものと薄切りの牛ロースのものだ。
その他にイサキのオーブン焼きも作った。
俺が食べたかったのだ。
ナスに包丁を入れてヘタのギリギリを残して肉を挟む。
肉には塩コショウで下味を付けているので、片栗粉を塗ってあとは焼くだけ。
最後に醤油を回して仕上げると香ばしい風味になる。
イサキは酒で臭みを除き軽く小麦粉をまぶし、耐熱皿に入れてオリーブオイルとハーブとニンニク。
美咲がまた俺の作業を見ている。
時々笑顔を見せると喜ぶ。
イサキが焼き上がる間に、俺はマカロニサラダを作った。
辛子マヨネーズにし、パセリを多めに振った。
ゆで卵、薄い衣の揚げハム、細かく刻んだアンチョビ、それに白髪ねぎを上に乗せて。
味噌汁はほうれん草だ。
イサキが焼き上がったタイミングでナスの挟み揚げを仕上げ、食事を盛り付ける。
美咲はニコニコして待っていた。
「お待たせ、じゃあ食べようか」
「うん!」
「「いただきます!」」
美咲は「美味しい」と言って喜んで食べてくれた。
美咲の皿はナスは一口大に切っており、イサキも同じくカットしている。
「タカちゃん、美味しいよ!」
「そっか」
美咲は嬉しそうにどんどん食べている。
相変わらずの早さで、俺はそれが嬉しかった。
食事は普通に食べるのだが、眠っていることも多く回数が減っている。
起きている時に旺盛なのは、そういうこともあるのだろう。
でも、ある程度食べると箸が停まった。
「もういいのか?」
「うん、お腹一杯。タカちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
美咲は徐々に痩せて来た。
食事の量が減ったせいだが、もうあまり多くは身体に入らないようだった。
起きている時間には食事をするのだが、眠っていることが多くなったせいだ。
一回に食べられる量は限られているので、どうしようもない問題だった。
そして近いうちに本当に食べられなくなる。
もう数週間で俺がサマーバカンスを取っているのだが、その頃にはもっと酷くなっているだろう。
だから俺は「5A169」構造体の開発を急がなければならない。
だが、恐らくはそれが間に合わないことも分かっていた。
「タカちゃん、だいじょうぶ?」
美咲が心配そうな目で俺を見ていた。
いけない、美咲には笑っていてもらわなければ。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてたんだ」
「ふーん、おしごとたいへん?」
「そうだな。でももうすぐ夏休みをもらうから、それまでの我慢だな」
「うん、がんばってね!」
「おう!」
風呂に入り美咲を寝かせる前にまた『むらさきいろの目の王子さま』を読んでやった。
もう何度も読み聞かせているが、美咲はまたこの本をせがむ。
今日の美咲は俺にそっとしがみついており、いつものように興奮してはいなかった。
俺はふと、まだ話していないことを思い立って美咲に話した。
「この本ってさ、橋田先輩がアメリカ留学時代に書いたらしいぞ?」
美咲が橋田先輩のことを憶えているか気になったからだ。
美咲との会話の中では、俺と両親以外の名前は出て来たことが無い。
「え、橋田先輩!」
「ああ、覚えているか?」
「もちろんだよー! へぇー、そうだったんだぁ! そうなんだ……」
「な、凄い人だよなー」
「うん、そうだね!」
美咲がちょっと興奮していた。
そうか、橋田先輩のことは覚えているか。
「タカちゃん」
「なんだ?」
「橋田先輩のこと、大切にしてあげてね?」
「え? あ、ああ。もちろん尊敬する先輩だよ。今も一緒に仕事をしてるし」
「うん、そうだね」
「美咲?」
美咲は眠ってしまった。
俺の腕に絡ませていた手をほどき、目を閉じてすぐに寝た。
いつもの寝方ではない。
俺は美咲の変調に敏感になっていた。
しばらく美咲の寝顔を見ていると、涙を流していた。
何か悲しい夢でも見ているのだろうか。
俺はそっと枕元のティッシュで涙を優しく拭った。
「俺はずっと傍にいるよ」
そう囁いてベッドを出た。
今晩も研究を続ける。
幾つかの問題を何とか突破しなければならない。
もう時間があまり残されていないのだ。
間に合わないとしても、最後まで美咲を助ける努力を続ける。
今はそれしかない。
眠気覚ましに濃いコーヒーを淹れ、俺はデスクへ向かった。
ほんのりと美咲のスキンクリームの香りと共に、橋田先輩の香水の匂いを嗅いだ気がした。




