I.W.ヴァイオレット
橋田先輩とお会いしてから、俺も「5A169」構造体の研究を進めた。
橋田先輩とも以前よりも連絡を取り合うことが多くなり、橋田先輩もアストラール社の研究室へ出入りできるように手配した。
超高度AI「ルシン」にも俺の立ち合いの上でのデータ処理と解析が可能になり、「5A169」構造体の製作に大いに役立った。
しかし美咲は徐々に食欲を喪い、日中も眠っていることが多くなって行った。
美咲のお母さんに俺たちのマンションに来てもらい、俺が出掛けることが多くなった間の美咲の世話を頼んだ。
介護士の方では、どうも美咲が容認しなかったのだ。
反対に俺は橋田先輩と過ごす時間が増えて行った。
アストラール社にはもちろんだし、俺が成田教授の研究室へ赴くことが増えた。
夜は美咲と一緒だが、昼間は二日に一度は橋田先輩と会っていた。
橋田先輩も必死に研究を進めてくれていたので、非常に有難かった。
次第に忙しい俺たちは、打ち合わせも兼ねて一緒に食事をすることも多くなった。
「佐伯さんの具合はどう?」
「段々眠っていることが多くなりました」
「そう、それは心配ね」
「ええ。俺が家に帰っても眠ったままのことがあります」
「そう……」
橋田先輩は本当に心配してくれていた。
その橋田先輩は化粧で誤魔化してはいるが顔色が悪く、目の下の隈もあった。
俺が何度も橋田先輩に無理をしないようにと頼むほどだった。
美咲のために一生懸命になって下さるのはありがたいのだが。
「美咲がね、寝る前によく絵本を読んで欲しいというんですよ」
「あら、可愛らしいわね」
橋田先輩も微笑んでそう言った。
悪意はない、橋田先輩も美咲のことは可愛がってくれて来たのだ。
「お気に入りがですね、『むらさきいろの目の王子様』っていうものなんです。他のものはほとんど選ばないで、毎回それを……」
「え! あの絵本なの!」
橋田先輩が驚いていた。
「あれ、先輩はご存じなんですか?」
「I.W.ヴァイオレットという作者かしら?」
「ええそうです! やっぱり御存知なんですね!」
橋田先輩がちょっと困った顔をしていた。
俺が問うと「何でもない」とおっしゃった。
「凄い偶然ですね! 橋田先輩があの絵本を知ってたとは!」
「お願い、聞かないで」
「え、どういうことです?」
「いいから、お願い。ここまでにして」
「はぁ……」
どうも橋田先輩の反応がおかしく、居心地が悪い。
でも研究に関係の無い話題だったので、それ以上は問い質さなかった。
このことは偶然に橋田常務から伺うことになった。
橋田常務も「5A169」構造体の研究に注目しており、もしかしたら途轍もない利益を生むものになると期待していた。
何しろがん細胞を駆逐するナノマシンなのだ。
それはアストラール社に一体どれほどの利益をもたらすことか。
それ以上に、アストラール社の世界的な快挙になる可能性が高いのだ。
そのことは、俺にナノマシンの研究室を与えた橋田常務の実績も相当なものとなる。
ナノマシンはまだまだ開発途上のものだったためだ。
橋田常務の先見の明は讃えられることだろう。
橋田常務は俺に研究の進捗を聞くために何度か食事に誘ってくれた。
本来は研究棟の統括部長に報告は上がっているのでそこから聞けば良いのだが、研究部門ではない橋田常務には公開されない情報も多いはずだ。
橋田常務も具体的な内容を知りたいわけではなく、単に楽しみで知りたいだけだっただろう。
しかも、開発の中心に自分の娘までいるのだ。
それに俺を労わりたいという気持ちも持って下さっている。
差し障りの無い会話の中で、俺は先日橋田先輩がおかしな反応をしていた絵本の話をしてみた。
橋田常務は笑って教えてくれた。
「ああ、あれか! あの絵本はね、奈保美がアメリカに留学していた時に書いたものなんだよ」
「なんですってぇ!」
驚いたなんてものじゃなかった。
「日本を離れて研究も大変だったようだね。だから気晴らしに趣味を兼ねて書いてみたらしいよ」
「そうだったんですか!」
「向こうで何かのコンテストがあったらしくてね。何の気なしに応募したらとんとん拍子に絵本になってしまった。娘も驚いていたよ」
「凄いですね! さすがは橋田先輩です!」
「いや、ありがとう。でも私もちょっと嬉しかったよ。研究ばかりで凝り固まっていた奈保美が嬉しそうに、本当に興奮して電話をして来た。あんな娘は初めてだ」
「そうなんですねぇ」
ああ、俺の前では恥ずかしかったのか。
優しい物語で、知ってみれば橋田先輩の優しい感じが随所にあったことを思い出す。
「紫色の瞳はね、娘が兜坂君がそうだと言っていたものだよね?」
「ああ、前に伺いましたよね」
「だからあの絵本は奈保美の夢なんだ」
「!」
「紫色の瞳の王子様と結ばれたい」
「……」
藪を突いてしまったようだ。
橋田常務は機会を逃さない人だった。
そういう所は尊敬もするが、自分に向かえば恐ろしい。
「ああ、日本で絵本の出版社があれを見つけてね。是非翻訳して出版したいと頼んで来たわけだ」
「ええ、だから日本語のものもあるんですよね」
「娘は再三断っていたんだがね。あまりにも熱心に頼まれて承諾したということだよ」
「なるほど」
橋田常務は少し上機嫌だった。
「向こうでの筆名I.W.ヴァイオレットというのはね、《I Wish Vioret.》つまり「紫だったら」という奈保美の願望なんだ」
「……」
橋田先輩が俺の瞳を紫色に見えたことがあると橋田常務から聞いた。
それは多分一瞬の事だったのだろう。
だけど、その体験から俺に向ける思いが募ってしまったのだ。
それがI.W.ヴァイオレットという名前に込められていたとは……
橋田先輩は自分が見た俺の瞳の色を、本当に見たのだと自分に言い聞かせたかったのだろうか。
いや、確かに見たという確信があるからこそ、それを求め続けているのではないだろうか。
紫を見た自分だったら、という希望。
その心は俺には分からない。
この時の俺は、まだ事の重大さに全く気付いていなかった。
俺はもっとこのことを深く考えるべきだったのだ。
俺は後に激しく後悔することになる。




