『むらさきの目の王子さま』
数か月ぶりに橋田先輩の声を聞いた。
橋田先輩は俺の電話に驚いてはいなかった。
逆に俺に自分がやったことを詫びていた。
あの自殺未遂以来、俺たちは一切会話することも無かった。
それを今、橋田先輩は詫びている。
ずっと心に中に埋まっていたのだろう。
もちろん明るくは無かったが、聞いていて橋田先輩の心が少し軽くなったのを感じた。
「兜坂君、本当にごめんなさい……」
「橋田先輩、それはもう……」
「ごめんね。驚かせちゃったよね」
「もうお身体は大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫。本当にごめん。自分でもバカなことをしたって思ってる。兜坂君のせいじゃないからね」
「そんな……」
言葉も無かった。
橋田先輩の声は弱弱しかったが、確固とした意志は感じられた。
俺が電話するなどとは、橋田先輩にとっては相当辛かったはずなのだ。
それでも僅かにではあるが、橋田先輩がホッとしているのを感じて俺も心が和らいだ。
ずっと胸の中に渦巻いて出せなかった思いを外に出せたためだ。
橋田先輩はきっと俺に謝りたかったのだろう。
それは辛いことではあっただろうが、心の中に仕舞っておくのは尚辛いことだ。
「自分でも分からないの。突然自分じゃなくなっちゃったみたい。こんなことを考える自分じゃなかったはずなのに」
「橋田先輩、無理はなさらずに。もう過ぎたことです」」
「ううん、もう平気。バカなことをしたけど、もう前を向いているよ」
「橋田先輩……」
「あのね、もう一つ謝らなければならないことがあるの」
「え?」
「佐伯さんのこと」
「はい?」
「佐伯さんの病気のこと、以前から私、知ってたの」
「なんですって!」
思わぬ話が出た。
美咲の病気のことは誰も知らないはずだった。
俺と美咲の両親だけだ。
美咲がああなって、初めて会社には一応橋田常務にだけは打ち明けていた。
今日お会いして、橋田常務が橋田先輩に話したことは分かっている。
でも、橋田先輩は「以前から」と言った。
それはどういうことだ?
「ごめんなさい! 以前に調べたことがあるの。佐伯さんは幼い頃から脳腫瘍があるって。兜坂君ももう知っているんでしょう?」
「橋田先輩……」
どういうことかまだ分からない。
そして俺は汚い邪推までしてしまった。
橋田先輩が俺への気持ちを抱きながらこれまで何もアプローチしてこなかったのは、それを知っていたためだったのではないか。
俺の中で醜いものが渦巻き始めた。
橋田先輩に対して初めて怒りを感じた。
「橋田先輩はいつからそれを?」
「会ってちゃんと話したいの。時間をもらえないかな?」
「分かりました」
俺は明日の午後に東京大学の近くの喫茶店で会う約束をした。
その夜。
美咲を寝かせる前に絵本を読んだ。
美咲に好きに選ばせ『むらさきの目の王子さま』というものにした。
《I.W.ヴァイオレット》という作者で、女の子が紫色の瞳の王子様を好きになるという話だ。
前書きを見ると、元々はアメリカで出版されたもののようだった。
美咲がこのタイトルに異常に興奮して喜んだ。
本屋の絵本コーナーの店員さんが勧めてくれたものばかりだが、この本は唯一俺が選んだものだった。
美咲が俺の瞳が紫色と言っていたのと同じ内容だったからだ。
絵本に詳しい店員さんは、少し対象年齢が上のものだと言った。
「でも、私も大好きなお話なんですよ」
「そうなんですか!」
「作者はアメリカ人の方のようです」
「え、じゃあ翻訳されたものなんですか?」
「ええ、この出版社は絵本専門の所で、いろいろと海外の作品も翻訳して出しているんですよ?」
「そうなんですか」
「私も出版社の方と親しくて話を聞いてます。I.W.ヴァイオレットはこの1冊しか書いてないんだそうです」
「ほう」
「また書いてくれるといいんですけどね。出版社の人もそう言ってました」
「そうですか」
売り場で少し『むらさきの目の王子さま』を読んでみた。
俺も気に入ってそれも加えて購入した。
俺も不思議な偶然もあるものだと思った。
紫色の瞳の王子さまと出会った女の子の話だった。
美咲も幼い頃から俺の瞳が紫色だと言っていた。
絵本の表紙に紫色の瞳の王子さまと主人公の女の子が描かれている。
美咲が俺の身体にしがみついていた。
俺は笑って絵本を読み始めた。
女の子ナッチャンが森で不思議な紫色の瞳の男の子と出会う。
ナッチャンはすぐに男の子を好きになるが、男の子は実は王子さまだった。
王子さまは父親の王様と一緒に狩に出掛けたが、森の中で迷ってしまったようだ。
ナッチャンは王子さまと一緒にお城に向かうことにして広い森を歩いて行く。
森は大変に危険で、険しい道を歩いたり、オオカミが出てコワイし、食べ物がなくて困ったりする。
ナッチャンは王子さまを励まし、オオカミの群を自分で引き付けてなんとか逃げ、木の実や果実を見つけて王子さまに食べさせる。
夜は寒く、大きな木のうろで枯葉を敷き詰め、身体を寄せ合って眠った。
「ぼくはね、大きくなったら隣の国の王女さまと結婚するんだ」
「え、そうなの?」
ナッチャンは王子さまが大好きになっていたので悲しんだ。
でもナッチャンは王子さまと一緒に危険な冒険を続けて行く。
最初は興奮していた美咲が大人しい。
顔を見るともう眠っていた。
俺は笑って『むらさきの目の王子さま』をそっと閉じて枕元に置いた。
「美咲、おやすみ」
額の髪の毛を手でそっと撫で上げ、優しくキスをした。
美咲が僅かに微笑んでいた。
俺も眠った。
美咲の体温が心地よかった。




