記憶退行
あれから、俺は毎月美咲のご両親から美咲の経過を教えてもらった。
聞かされてはいたが、あまり良い状況では無かった、
美咲の脳腫瘍は肥大のスピードを増して行ったのだ。
美咲の担当医からは、これ以上は身体に影響が出て来ると言われていた。
どんなことになるのかは分からないが、小脳などの運動野に影響が出て身体の麻痺が始まる。
運動機能の障碍だ。
またそれは感覚器官に影響するかもしれないし、大脳への影響で記憶障害が起きることも考えられた。
いずれは代謝機能が冒されて美咲は死ぬのだ。
俺たちは症状を見守るしかなかった。
美咲はまだ普通に生活していたのだが、もう時間は短いことは分かっていた。
俺から会社には美咲の病気のことを伝え、美咲が出勤出来る間は勤めさせてもらうことを了承してもらった。
美咲も優秀な研究者だったのだ。
本人には言えないことだったので、美咲の研究部署ではそれとなく仕事を采配してもらった。
そしてついに決定的なことが起きた。
美咲が会社で倒れたのだ。
研究棟の廊下で突然意識を喪い、救急搬送された、
知らせを聞いて、俺も病院へ急いだ。
美咲の同僚の柏田さんという女性が救急車に一緒に乗り、先に来ていた。
美咲にも紹介されてよく知っている人だ。
美咲とは仲が良く、俺も何度か一緒に食事に行ったりしていた。
親切で温かな人柄だ。
俺の顔を見て、様子を教えてくれた。
俺のことを美咲の婚約者と柏田さんも知っている。
「兜坂部長」
「ああ、柏田さん、ありがとうございました」
柏田さんは白衣を着ていた。
着替える間もなく、慌てて一緒に来てくれたのだろう。
美咲の上司の他には病気のことは話しておらず、柏田さんも知らないはずだ。
柏田さんの話では、また美咲が感情を乱して暴れたようだ。
原因はほとんどなく、同僚の一人が自分を見ていた、ということだった、
ただ、美咲は感情を乱して怒鳴るだけではなく、その同僚に掴みかかったというのだ。
美咲はその最中に、唐突に意識を喪って倒れた。
「何度か怒っちゃうと止まらない人だとは思っていたんですが、暴力を振るうことは一度も。普段は明るくて真面目な人なんですけどね」
「はい、すいませんでした。相手の方にお怪我は?」
「大丈夫です。男性ですし、殴られたと言っても軽い力ですから」
「そうですか、あらためて謝罪に伺います」
柏田さんは俺を見ていた。
「あの、失礼ですが、佐伯さんは身体の具合が悪いのでは?」
「大したことはありません。今日は本当にご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、私なんて」
俺はタクシー代だと言って、柏田さんに1万円を渡した。
何度も断られたが、無理に受け取ってもらった。
美咲は眠ったまま意識が戻らず、俺と美咲の御両親は心配した。
だが、美咲が三日後に目を覚ました。
「タカちゃん?」
土曜日の昼間、美咲が目を覚ました。
美咲の御両親は用事があり、俺だけが病室にいた。
俺は美咲を抱き締めた。
「良かった、目を覚まして!」
「え? どうしたの?」
「良かったよ!」
「うん、タカちゃん、おはよう」
美咲が笑った。
美咲は何も覚えてはいなかった。
俺は会社で倒れたのだとだけ説明した。
「そうなんだ、ごめんね、タカちゃん」
「いいって。それより気分はどうだ?」
「うん、ちょっと頭が痛いかな。でも大丈夫だよ?」
「……」
目を覚ましたと連絡すると、すぐに美咲の両親が来た。
美咲の病気は分かっているので、既にMRIを撮影している。
良くは無い状態だった。
2週間前に撮影した時よりも、腫瘍は肥大していた。
最近の腫瘍の発達は更に速くなっている。
そのため、脳圧が上がって来ていた。
薬で下げるようにしたために、意識を取り戻したのだろう。
会社には俺から美咲が意識を取り戻したことについて話した。
美咲の上司は喜んではくれたが、これ以上は出勤することは無理だと言った。
倒れた際に美咲が暴れたことについてだ。
相手に怪我こそ無かったものの、繊細な研究開発をする部署では危険視されても仕方がない。
「もう少しのことになりますが、どうか最後まで美咲を出勤させてもらえないでしょうか。研究でなくとも結構ですので、事務か何かで……」
「兜坂部長、お気持ちは分かりますが」
「あの、仕事はさせなくても結構です。もちろん機密データには触れさせないで、何かそれとなく時間を過ごせるように」
「困ったな……」
「お願いします!」
会社での俺の実績を知る上司は、結果的に折れてくれた。
話がこじれて、俺を手放す危険性を上の人間と話し合ってくれたようだ。
美咲は退院して家に帰り、翌週の木曜日には出勤した。
俺がつききりで会社まで一緒に来て、美咲の研究棟まで送った。
研究室では柏田さんたちが美咲を優しく迎えてくれた。
「あれ、私の席ってどこだっけ?」
「え?」
美咲の言ったことを他の人間は一瞬理解出来なかった。
「ねえ、タカちゃん、ここどこ?」
「美咲?」
「私なんでここにいるの? はやくおうちに帰ろうよ」
「おい、美咲!」
「このひとたち、だれ? なんでわたしをみてるの?」
美咲は明らかに脅えていた。
そんな美咲を驚いて見ている同僚の顔が、更に美咲を脅えさせた。
「!」
俺は美咲を外に出し、俺の部屋まで連れて行った。
美咲は俺と一緒にいるときだけ不安がらなかった。
ニコニコと俺の手を握って一緒に歩く、
運動機能には問題がなさそうだ。
だが、記憶に変調を来している。
俺は美咲をソファに座らせ、美咲の母親に電話した。
すぐに連れ帰って欲しいと言われ、俺はそのままタクシーで美咲を送った。
美咲は俺と一緒にいるだけで嬉しそうだったが、俺はダメだった。
美咲を怖がらせてはならないと思いつつ、引き攣った顔で美咲に無理な笑みを見せるだけだった。
美咲はあまり気にしてはいないようだったが、そんな美咲に申し訳ないという思いで一杯だった。
もう美咲は長くない。
そのことが俺を深い穴の底へ埋めてしまった。
タクシーの外の景色を見る態で、俺の手を握る美咲に話し掛けることは出来なかった。
外を流れる景色が、まるで現実のものとは思えなかった。
でも、俺が崩れるわけには行かない。
美咲には、もう時間が残されていない美咲には俺しかいないのだ。
俺は必死に自分を立て直そうとした。




