美しい人
私が書類を書き終えた後、キーマとウォーカー君は資料をレインの元まで届けに行ってくれた。
自分で届けると言っても、重要な選択をして頭を使っただろうから甘い物でも食べて休んでいろと言われてしまって……。
結局彼らの圧に負けて一人寂しくお茶会していた。
……あ、このお菓子も美味しい。
寂しいと言いつつ結構楽しんでいたのは内緒だ。
そうして、私がほっと一息ついていた時――
──────カチリ。
待合室の扉の金具が、控えめに……
それでいて、妙に響く音を立てて開いた。
「あら? あらあら〜!
今日はお客さんがいるのね〜♪」
「……え?」
ふわり、と潮の香りすら漂わせながら、部屋に入ってきたのは……魚の鰭のような耳をもち、雪の細糸のような純白の髪を揺らす、美しい人物だった。
硝子より透明な瞳が、
やわらかな微笑みと共にこちらを向く。
こ、声は低いのに口調は柔らかい……?
顔立ちも中性的で……男の人?女の人?
…いや、性別って概念から外れてる感じ……?
まるで、この世のものじゃない何かを見ている気がして……私は一瞬、思考が追いつかなかった。
私が混乱している間に、その人物は音もなく扉を閉めた。
気付けば……
部屋には本当に私とその“美しい人”だけ。
「小さくて可愛らしいお客さま、はじめまして♪
私は、皇帝候補者ルネッタ・ルイターナー。
どうぞよろしくね♪」
声まで“美しい”その人……"ルネッタ"さんは、私の戸惑いなんて気にも止めず、流麗にお辞儀をした。
ルネッタさんの声は、響きそのものが耳の奥に、心に――すっと入り込んできて、優しく残る。ような…。
「は、はい…よろしくお願いします、探偵です…」
「あら、驚かせてしまったかしら?うふふ♪
ノックもせず入ってしまって、ごめんなさいね?
そう……探偵さん、ね。素敵なお名前だわぁ♪」
軽やかな言葉のひとつひとつが、
まるで潮騒のように胸に寄せては…返す。
──────バタンッ。
「お?ルネッタじゃないか!」
「あ…こんにちは、ルネッタさん」
私がルネッタさんに自己紹介…と言うより名前を伝え終えると、書類をレインへ渡しに行ってくれていたキーマとウォーカー君が戻ってきた。
扉が開く音を聞いて、私の視線はそちらへ向く。
「そのお嬢ちゃんは探偵って言うんだぜ!
……って、あぁ、悪い。
お前さんもコンドから聞いたよな」
「コンド様から?……ええ、もちろんよ〜♪」
キーマから話しかけられると、
ルネッタさんは微笑み、瞳をすっと細めた。
「確か……探偵さんは、カッドレグルントで大活躍したのでしょう?それに、カテドールフェアリーでも……。ふふっ♪そんな素敵な方に出会えて、私はとても嬉しいわ♪」
「え、あ……ありがとうございます…!」
私はまた顔が熱くなる。
どうして美人相手だとこうも弱いのだろう。
いや違う!弱くなんかッ……!
べ、別に…“普通に”緊張してるだけ。
皇帝候補者なんだから、当然……そう、当然…。
だから動揺なんてしてなくて……いやしてて……
あれ?緊張ってなんだっけ?ドキドキ?
何故だろう…考える事は得意なはずなのに……
今はいつもより思考が支離滅裂だ。
「あ…あの、ルネッタさん」
収拾がつかないほど頭がぐるぐるしてきたので、
私は逃げるように質問を投げる。
「ルネッタさんは……どうして、皇帝候補者に?」
「ふふ、知りたいのね? いいわぁ、教えてあげる♪」
ルネッタさんは指先で髪を払う仕草すら、
舞のように美しい……。
「私は十年前の大戦争が起こる前までは、とある王国の王だったの。…だけれどね、その国の大半は瘴気に呑まれてしまって……残った土地は帝国と合併したのよ。
だから私は“元海中王国フォンリーマリー"……いえ、今は"海中都市の長"として帝国に仕えているの♪その地の王だった私は、そのまま皇帝候補者に選ばれたのよ♪」
説明を終えたルネッタさんは、
透明な瞳をきらりと光らせて私へ一歩近づいた。
「ねぇ、探偵さん? 私のことを知りたがってくれるのも嬉しい……けれどね、私、あなたのことがもっと知りたいわ〜♪
いつかぜひ、フォンリーマリーに遊びに来てね?
私の自慢の弟妹達も紹介したいの♪」
そして、そのまま私の手をそっと取った。
ひやりとした海水のような温度…。
大きく、骨張った手。
そこでやっと理解する。
あれ、ルネッタさん…男性、なんだ……。
でも、それを考える間もなく――
"彼"の瞳がこちらを覗きこむ。
まっすぐ……深い海の底みたいに。
その目が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ……
色のない光を帯びたように見えた。
あぁ…なんて、きれい……なんだろう。
胸の中に、なぜか「嫌われたくない」…とか、
自分でもよく分からない感情が流れ込んでくる。
おかしい。初対面なのに。
こんな感情…持つ理由なんて――
「……来てくれるわよね?」
囁くような声。
「……はい…」
気づけば、頷いていた。
それは、自分の意思というより……反射のように。
するとルネッタさんは満足そうに微笑み、
そっと……私の手を離した。
その笑みはあまりに優しいのに――
どこか、底が視えないような…そんな妙な感覚が残った。
「……。」
?…今の、何だろう?
……ま、いっか。綺麗、だったし……。
自分でも驚くほど、考える気力が霧散していた。
ルネッタさんの美しさが、
脳のどこかをぼんやりさせているようで……。
胸の奥で、じわじわと温かな波が広がり――
それがそのまま“好意”へ変わりそうになった瞬間。
──────ふわっ……。
部屋の空気が、揺れた。
扉も窓も閉まっているのに、
私の頬だけが、そっと撫でられたように揺れた。
「……ん?」
耳元でなにかが散るような気配…。
その一瞬の風が、胸に生まれていた“妙な感情”を
ひゅっと持っていってしまったように――
頭の中が急に、すっと冴えていく。
さっきまでの感覚が、
夢の残り香みたいに曖昧になった。
…あれ、私……何考えてたんだっけ?
ルネッタさん、綺麗だなって……それくらい?
自分でもよくわからなくて、首を傾げたその瞬間――
「……ふふっ」
ルネッタさんがこちらを見つめたまま、
ほんのわずかに…目を細めた。
「楽しみにしているわね、探偵さん♪」
彼はそう言って、なめらかに微笑む。
────けれど、なぜか……。
その笑顔は、さっきまで感じていた“息の詰まるような美しさ”とは違って見えた。
まるで何かが一枚…静かに剥がれ落ちたような……
そんな違和感。
私が首を傾げると、
ルネッタさんは、なおも微笑んだままこちらを見る。
けれどその瞳の奥――
ひどく遠くから、ゆらりとした“恐れ”が消えきっていなかった。
「……また会いましょう♪」
やっぱりその声は美しく、優しい。
けれど……ついさっきまで私の心を包みかけていた“なにか”は、もう影も形もなくなっていた。




