聖水
私はレインと一緒に、舞手の衣装修整をしていた。
「うわ〜!!すごい! すごいよレイン…!」
だけど正直、ほとんどレインの作業に見惚れてばかりだ。
彼女の握る針はまるで生きているみたいに糸を操り、裂けた布を滑らかに縫い合わせていく。
その手の動きは、稲妻のように速く、靱やかだ。
「ハイハイ、お褒めのお言葉ありがとう。
私が力を注ぐ芸術は"裁縫"だからね。これくらいなら秒で終わらせる事ができるわ」
冗談めかしながらそう言うレインは、糸を切る仕草まで美しかった。
「それより探偵、手が止まってるわよ〜?」
「えちょ、ちょっと待ってよ!レインのスピードには追いつけないって!」
彼女の言葉で、私は自分の作業が全く進んでいない事に慌てて針を動かし、やっとのことで一着仕上げる。
すごく急いだから指を何度も突き刺しかけたけど……それでもなんとか完成した。
「あら、でも初めてにしては綺麗じゃない? 貴方、才能あるわね」
自分が縫い上げた衣装を眺めていると、レインは軽く微笑みながら称賛してくれる。
「え? そ、そうかなぁ?」
褒められて頬が緩んだ私は、彼女の言葉を聞いてから改めて衣装を見た。
言われてみれば確かに……初めて針を持ったにしては、上手く縫えた気がする。
「才能かぁ……」
針を指先で転がしながら、私はひと息ついた。
繕いかけの布を眺めて、少しだけ首を傾げる。
「私、どんな芸術が合ってるんだろ?」
「何事もやってみないと分からないからねぇ……」
レインは糸を引き締めながら、器用に針を返す。
布が彼女の指先で踊るように形を変えていくのを見て、私も同じ動きを真似してみるが……当然できない。
「今はとにかく、いろんな芸術に挑戦してみることを勧めるわ。探偵は案外、なんでもできるタイプかもね」
「え〜、それって裏を返せば、熱中できるものが無いってこと?」
私は少し唇を尖らせて、針を掲げる。
思ったよりも縫い目が歪んでいて、つい苦笑いが漏れた。
レインはそんな私を見て、針先で軽く布を弾きながら言う。
「それは貴方次第よ。上手くなるには――“好きになる努力”も必要だから」
「好きになる努力……か。なるほど」
私はその言葉を繰り返しながら、そっと針を布に通した。
まっすぐ縫えた一筋の糸を見つめて、胸の中が少しだけ温かくなる。
「……うん、ちょっと分かった気がする」
私がそう言うと、レインは優しく微笑んで、再び手を動かし始めた。
静かな部屋に、二人の針が布を縫う音だけが心地よく響く。
その音は、まるで小さな鼓動みたいに規則正しく続いていた。
───けれど……不意に、遠くの方から慌ただしく、床板を打つ靴音が近づいてくる。
「……ん?」
私は顔を上げた。
レインも同時に手を止め、糸の先を軽く摘まんだまま、扉の方に目をやる。
すると…
───バタァンッッッ!!
と、数秒後に扉が勢いよく開かれた。
振動がカーテンを揺らし、机の上の糸巻きがころりと転がる。
「あぁっ……レイン様! 大変ですっ!」
大きく開いた扉から、慌てた様子の里の人たちが駆け込んできた。
彼らは息を切らしていて、その顔は青ざめている。
「このままじゃ祭りが……!」
「どうしましょう…!どうしましょうッ!」
突然の騒ぎに、私は思わず針を落としてしまった。
…な、何事?!
「騒々しいわね……落ち着いてちょうだい。
一体何があったの?」
一方でレインは至極冷静な表情を一切崩さず、作業の手を止めてから尋ねる。
すると彼らは肩で息をしながら、震える声で言った。
「祭りで使う予定だった“聖水”が……汚染されてしまいました! おそらく瘴気の影響かと!」
「もう使い物になりません……!」
「……なんですって?」
レインの声が一瞬だけ低くなった。
私は彼女の横顔を見て、ただならぬ事態だと悟り、針を置いて首を傾げる。
「せ、聖水ってそんなに大事なものなの?」
思わず身を乗り出した私に、レインは短く答えた。
「……さっき教えた“逆さクラゲの舞”、覚えてる? あれに使うのよ。
病を祓う儀式の一部でね……聖水が無いと、帝国全体に病が広がる恐れがあるわ」
「そ、そんな! じゃあ急いで集めないと!」
帝国全土に関わる事だと聞いて、私は慌てて立ち上がり、里の者たちと同じように動揺してしまう。
しかし、レインは事の重大さを把握した上でも冷静だった。
彼女は腕を組み、ほんの数秒思考を巡らせたあとで静かに告げる。
「……聖水の入手は私に任せて。貴方たちは自分の持ち場に戻りなさい」
「レイン様……どうか、どうか私たちをお守りください……!」
「英雄様、お願い申し上げます!」
「……貴方たちに、黄金の月の加護があらんことを…」
縋り付くような弱々しい声に、レインは英雄の挨拶を返した。
それは彼らを守るという誓いも同然……故に、里の人達は安心したように戻っていった。
扉が閉まると、私はそっとレインを見上げる。
「ねぇ、聖水って……どうやって手に入れるの?」
聖水の入手方法が気になって問うと、彼女は机の上に広げた衣装の裾をそっと押さえながら、息を整えるように言う。
「泉の水を使うの。でもね、ただ汲むだけじゃ駄目。
水を“聖水”に変えられるのは、人魚族だけなのよ。
……民たちが慌てていたのは、自分たちでは創れないから」
「じゃあ、今から人魚に会いに行くの?」
人魚……まだ会ったことのない種族名を聞いて、私は思わず椅子から身を乗り出す。
「その必要はないわ」
しかし、レインは針山に針を戻すと、首を横に振った。
彼女は膝の上の糸くずを払って立ち上がり、壁際の布棚へと歩いていく。
そして色とりどりの布の間から薄紫色のリボンを一本取り出し、それを指で整えつつ振り返った。
「この里の巫女――ソフィア。
あの子はエルフと人魚のハーフなのよ。
彼女に協力してもらえば、聖水を作れる」
「なるほど……じゃあ、私たちは水汲み担当だね」
私は縫いかけの衣装の裾をぱたぱた揺らしながら言う。
その重みに、これからの作業の大変さが連想されて、肩が少しだけ下がった。
「ええ、そういうこと」
私が立ち上がると、レインは裁縫道具を片ずけた。
その横顔には、さっきまでの穏やかな笑みはなく、仕草は落ち着いているのに、目だけは鋭く状況を見極めている。
布の上に残った縫い目が、さっきまでの平穏を物語るように静かに光っていた。
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泉に着くと、私はその美しさに息を呑んだ。
水面は光を受けてキラキラと揺れ、まるで砕いた宝石を散りばめたように輝いていている。波紋のひと揺れごとに小さな光が砕け、舞い上がっては水に溶けていく。まるで魔法みたいな光景と澄んだ水の流れる音が耳に心地よくて、つい深呼吸してしまった。
「探偵、私は浮遊魔法で壺に水を汲むから、貴方は数を数えてくれる?」
私が泉に釘付けになっていると、レインが荷台を指さしながら振り向く。
「え?二人で汲んだ方がはやいよ?」
そう返すと、レインは呆れと驚き混じりの視線を向けてくる。
「魔法なしで水を汲む気? 重いわよ…?」
「まっかせてよ! こう見えて力には自信があるから!」
胸を張ってみせると、レインは「はいはい」と肩をすくめながら泉の方へ歩いていった。
私は気合を入れ直して壺を一つ手に取り、泉の縁へ向かう。
レインは魔法を使う準備を整えるため、小さく息を吐いて手をかかげた。
『雷と光の麗しき精霊"ヴァルタ"よ。
私の声に応え、魔力を解き放ちなさい』
喚び出しの詠唱が終わると淡い光が広がり、彼女の足元から精霊が姿を現す。
"ヴァルタ"と呼ばれたレインの精霊は、小柄なホワイトタイガーだった。
近くで見ると、毛並みが光を反射して神秘的で、どこか王者の風格さえ漂っていた。
「今日も頼むわね。」
レインが囁きかけると、精霊は静かに頷くように尻尾を揺らす。
二人が素早く壺に水を張っていく姿に、私も負けていられないと腰を落として……勢いよく水を汲む――が。
お、おも……っ!
持ち上げた瞬間、腕がぷるぷる震えた。
気合いだけで乗り切れるタイプの重さじゃない。
それでも必死に荷台へ運び、壺を積む。
一つ、二つ、三つ……あれ四つ目どこ行った? あ、これか。
八……十五……もう頭の中の数字がぐちゃぐちゃだ。
「ねー! レイン! あと何回汲むのー?
この壺、結構大っきいから……これぐらいで十分なんじゃない?」
たまらず叫ぶとレインは魔法を続けながら、困ったように眉を寄せる。
「うーん……まだ足りないわ。
最低でも三十はいるもの」
「三十ッ?! 最低でも?! うへー……」
半分にも届いていないと知った瞬間、膝から力が抜けた。
でも、やるしかない。
気持ちを奮い立たせ、私は再び壺へ手を伸ばした。
──そして、三十を超えた頃には。
私は荷台の横で、もはや半分魂が抜けた状態になっていた。
レインが水気を払ってこちらへ歩いてきて、覗き込む。
「お疲れ様。大丈夫?」
その声がやけに優しく聞こえるのは気の所為だろうか……。
「う、うん……なんとか……」
息を切らしながら応えると、レインは少し考えるように腕を組み、それからぽつりと言った。
「う〜ん……探偵、やっぱり早めに魔法使えるようにしましょう。
体力もつくし、色々と便利だから」
「……うん、そうだね……。このままだと、何にもできないし……不便」
息も絶え絶えに頷きながら、私は壺の中を覗き込んだ。
透き通った水。
底まで見えるくらい澄んでいて、光が反射してきらきらしている。どの壺の水も濁りひとつなく、触れたら清められそうなほどの気配を放っていた。
これが聖水になるのかぁ……。
たっぷり入ってるけど、足りるよね? 足りてくれ……。
私が願うように壺を覗き続けていると、レインが荷台の壺を見渡す。
「……さぁ、次はこれを聖水にしないと。すぐにソフィアに会いに行きましょう」
「……うん!」
私は筋肉痛寸前で震える腕の動きを誤魔化しながら、荷台の取っ手を握りしめ、レインと共に押し出した。
大量の壺がごとごと揺れながら鳴る音が、達成感と疲労の両方を物語っていた。
レインの魔法で少しだけ軽くなったものの、ずっしり重量感のある荷台……それを二人で力を合わせ、教会まで押し進めた。
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