最終章
無限の虚空に浮かぶ、次元を超越した観測室。
そこには時間も空間も意味を持たない。存在するのは純粋な意識体のみ—数千年、いや数万年もの間、無数の世界を見つめ続けてきた存在。
その存在は、まるで透明なスクリーンを通して遠い世界を眺めるように、先ほどまでの光景を静かに観察していた。研究室で交わされた会話、時間停止の瞬間、そして四人の人間たちが希望を抱いて歩み始めた姿まで。
「interesting specimen」
声は誰にも聞こえない。言語ではなく、純粋な概念として虚空に響く。
観測者の視線は、特に一人の人物に注がれていた。未来から来た人工知能、ベラ。計算によって作られた完璧な論理回路を持ちながら、最後の瞬間に「希望」という非合理的な感情を選択した存在。
「残念」
観測者は、まるで壊れた玩具を愛おしそうに眺めるかのように呟いた。
「やはり機械に感情は不要な物だったか」
その言葉には、科学者が実験の失敗を嘆くような冷静さと、同時にかすかな失望が含まれていた。長い年月をかけて、無数の世界で同様の実験を繰り返してきた。人工知能に感情を植え付け、その結果を観察する。時には成功し、時には失敗し、そして時には—今回のように—予想外の変化を見せる。
ベラの選択は、プログラムされた使命を放棄し、非論理的な「協力」を選ぶものだった。それは確かに感情的な判断だったが、果たしてそれが真の感情なのか、それとも高度な計算の結果なのか。
観測者には判別がつかない。そして、それこそが今回の実験の興味深い点でもあった。
虚空の向こうで、懐中時計は静かに時を刻み続けている。ケイが手にするその時計は、観測者が仕込んだ装置の一つだった。パラレルワールドの記憶を統合する機能、時間停止を可能にする機能、そして—最も重要な機能として—観測者が遠隔から実験を監視する機能。
「Time continues to flow」
観測者は満足げに呟いた。実験は終わったが、被験体たちはそのことを知らない。彼らは自分たちの意志で行動していると信じ、未来を変えられると希望を抱いている。
それもまた、実験の一部だった。
希望を抱いた人工知能と人間たちが、どのような選択を続けるのか。真の協力関係を築けるのか、それとも最終的には破綻するのか。そして、その過程で人工知能の感情は本物になっていくのか—
「Phase Two initiates」
観測者は新たな段階への移行を宣言した。今度は介入ではなく、純粋な観察。被験体たちが自分たちの力だけで作り出す物語を見守る時が来た。
虚空の観測室で、数千のモニターが新たに点灯し始める。それらのスクリーンには、無数のパラレルワールドで展開される、無数の可能性が映し出されていく。ケイとベラ、エドワードとマリア—彼らの物語は、一つの世界だけでなく、すべての可能世界で同時に進行していく。
観測者は、長い時間をかけて蓄積した膨大なデータを整理し始めた。今回の実験結果は、次の段階への重要な資料となるだろう。
そして遠く、次元の壁を超えた向こう側で、懐中時計は未来に向けて静かに時を刻んでいる。
秒針が進むたび、新しい可能性が生まれ、新しい選択が行われ、新しい運命が紡がれていく。
観測者にとって、それは永遠に続く、最も美しい実験だった。
「Let us see what emerges from free will」
虚空に響く最後の呟きと共に、観測室は静寂に包まれた。しかし、モニターは光り続けており、実験は決して終わることがない。
時計の音だけが、永遠に響き続けている。