005_白鯨と天使、そして紐。
「え、っ。……と、あの。大丈夫、ですか?」
髪色は橙色。首元の赤褐色のマフラーと、暖色のワンピース。耳元からはみ出た触覚と、後頭部に作られた、少し髪がぴょんと出ているお団子が、私の心を和ませるのだ。
髪ゴムには、珍しく紐?の様な物を使っている。
……そして、何より私が心の底から安堵したのが──彼女の頭上に、”天使の輪”があると言う事だ。
今までの常識を覆されたからか、今では彼女の天使の輪も、少し不可解に思えてしまうが……。安堵した事には変わりない。
それに何より、私へ誰一人近寄らなかったこの状況で、私に手を差し伸べてくれたんだ。このイカれた屋敷内での、唯一の常識人と見た。
「……別に、自分で起き上がれる……。だが、ありがとう。こんな奴らばっかに出会って来たからか、些かお前が”良い奴”に見えるよ」
その言葉を聞いて、彼女は少し目を見開けば……少し、視線を地面に移し、何かを考えている素振りを見せ。
数秒後、また妙に明るく、先程の言葉を「いえいえ」と、否定。
次に「当たり前の事です」と、ハキハキとした言葉で呟けば。嬉々とした表情で、少し愉しげに自己紹介を初め。
「私の名前は……。……デアトゥ。この屋敷唯一の執事なのです。……その、同じ”男”として、宜しく御願いします……へへ」
頬をポリポリと掻きながら、そう告げるデアトゥ。その言葉に私は驚きを隠せなかった。
執事……彼女?がまさか、私と同じ男だとは、思いもしていなかったからだ。
逆に、少し惚れそうにもなっていた……。
デアトゥ。この大きな屋敷を、一人で管理し、掃除や洗濯、身の回りの世話までも、全てを一人で熟す執事である。死神とルシフェルが話している間、話を聞いてみると……。
彼は数年前に、死神に拾われて、この屋敷の専属執事となったらしい。
彼自身、天使の位は普通の天使で、戦闘も苦手だった事から、彼なりの天職だったと言う。
天使、一番普通で、何処にでも居る在り来たりな位だ。そして、言い忘れていたが……天使にも、位と言うものが存在している。
見習い天使。生まれたての子鹿の様に、穢れの知らない無垢な天使の事を指す。天使園に居る生徒は、実力問わず見習いとなる。
天使。見習い天使が昇格したもの。大半の天使は、此処に留まり続ける事となる。彼も、この位の人物だ。
大天使。此処から選別が始まると言っても、過言では無い。様々な天使ではこなせなかった厄介事を片付ける役割を担う。
権天使。神の秩序を地上へ実現する為の役割を持つ。限られた者しか成れないのだ。
力天使。高潔や美徳を重んじて、英雄や勇者に勇気や奇跡を与えるとされる位。
主天使。神の力や威厳を知らしめる役割を担う天使。神の側近がこの位からであろう。
座天使。神の玉座を支える役割を担う。神たる者の戦車を運ぶ役割に属す。
智天使。楽園であるエデンを護る天使でもある。いつぞやの智天使は、今は堕落し、色欲の王となっているが……。
熾天使。天使の最高位。他の天使とは一線隠す存在。唯一、神の側近に経つことが許されているくらいである。此処に成り上がれる者は数える程で、その中でも飛び抜けて優秀な天使は、神の位に成り上がるとされている。
……と言う風に、天使にも、位と言うのが存在している。
──そして、追記として言っておくが、これは第一区、キリスト教の区域での話である。他の十区の区域(無宗教の十二区を除く)では、天使の名前は愚か、天使の見た目も違う所も屡々……。
喩えるならば、神道の区域である。彼処の区域では、位の名前や、天使の服装も、此方の区域とは全く違うんだとか……。
「むぅ。ファウ、メフィお腹、すいた……」
と、各々が会話を進めていた中……頬を膨らませ、死神の胸元で、メフィストフェレスが駄々を捏ね始めたのである。
「おいメフィ。教会へ行くついでに、散々ケーキを食べたろう?……まあ、お前が駄々を捏ねて、教会にはまた行けなかったがな」
「メフィ、教会、嫌い。祓魔師、シスターも嫌い。嫌や、あたしゃ嫌なのら。ファウスト、どうせメフィ、何とも思ってない。イチゴのジャム瓶に詰まった、ぶるぅべりぃのジャム。……中身が違うだけ、メフィはメフィ」
「……。…………あぁ。そうか。俺は何れ、お前がお前でなくなってしまうのが怖いんだ」
その言葉の意味は、私には分からなかった。
しかし、優雅に椅子へ腰掛ける、 ルシフェルは、一つ先を見ている様な視線で。茶菓子の入った紙袋を、大切そうにつまみながら。
「ほうら、書庫には、静寂が好ましい。故、私の目的も果たせた事だ。くわばらくわばら。──其方らには、もう御帰宅願おうか」
そう言うと、ルシフェルは指を交差させ、フィンガースナップを。
……すると、我々は一瞬にして、書庫の扉前へと瞬間移動。
驚く私を横に、デアトゥは『当たり前だ』と言わんばかりに、「掃除をして来ます」と一言。
そして、革靴の靴音を響かせながら、静かに曲がり角を曲がり、姿を晦ませる。
そんな彼らの背中を眺め、呆然としている私の姿を見て。死神は、メフィストフェレスと呼ばれる少女に、ケーキを与えてから。
「紹介が遅れたな。……まあ、この屋敷に居る奴らはお前と俺、それとメフィ。彼奴とあの執事の五人だけだ。……そして、ようこそ、俺の我が屋敷へ」
そう言って、死神は何処か嬉しそうに、屋敷の窓を全開に──。
次に、その窓に取り付けられたカーテンが風で大きく靡き、外の晴れ晴れとした空気が、屋敷の中へと入り込む。
窓から見える範囲でも、辺りは一面森の中。どうやらこの屋敷は、誰も来ない様な、辺境の奥地に建てられているらしい。
「俺の弟子に成ったからには、お前には血反吐を吐くほど鍛え上げて、俺に相応しい弟子になってもらう。俺の足に縋り付き、媚び諂おうとも、俺はそんなお前の顔面を、喜んで蹴り飛ばすだろう」
「メフィも、メフィもっ!奴隷、好きのら!はむっ、はぐっ。……ふまぅ、うまぅ……!」
……これはこれは、随分と面白い所へ、弟子入りをしてしまった様だ…………。
「再度聞こう。お前は、俺と共に来られるか」
「……あぁ、受けて立とうじゃねぇかっ!!」
私は、意気揚々とその言葉を述べた。……しかし、それが後悔の始まりとも知らず。
──再度言おう。これは、嫌われ者と腫れ者二人の物語。…………両者共々、双方の首輪を握り締め、鎖に縛られた共依存。
何か謎を抱えた不穏な死神と、嫌われ者の天使との、そんな、死で繋がれた物語──。
死神と、天使。