003_全てを識る者は、白痴へ声を掛ける。
001
我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり
義は含きわが造り主を動かし、聖なる威力が、比類なき智慧、第一の愛我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等 こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
─── ダンテ『神曲』 ───
── 第三曲・地獄の門、圏外の獄 ──
─ 怯者 アケロンテの川 ─
「ねぇ、地獄ってさ、どんなの何だろう」
天界の、天使園。今や懐かしさすら感じる微風が、私達の髪の傍を通り過ぎる。
彼女はその話題の後に、髪を耳へくいっと掛けた。そして、私の胸が少し、ぎゅんと締め付けられた様な気がしたのを、覚えている。
「正典では、悪い所だと聞いた。人間の欲望……七つの大罪に別れた層があって、堕ちた欲望に別れて罰を受ける。そんな所だ」
「けど、それは此処、第一区の想像でしょ?何処かの区域では、地獄に行くには、渡人のカロンじゃない人が漕ぐ船で、三途の川って所を、渡るって。……不思議だよね、地獄も、私達の崇める御方も、皆が皆違うんだもの」
そう言い、彼女は芝生に寝っ転がった。
「しっ、近くに大天使……先生達が居るぞ。お前がそんな事を話してたってバレたら、説教ならまだしも、朝飯のパンも無くなるぞ」
この言葉は多分、十戒(守るべき十個の戒め)の中にある、『不妄語』に反するだろう。
それがバレてしまえば、少ない朝飯の白パンや一切れのバターすら、抜きにされてしまう。
成長が盛んな我々見習い天使には、とてもじゃないが問題だ。説教ならまだしも、昔の私は、朝食抜きだけは何とか避けたかった。
剰え、十戒を破ると、鞭打ちの刑罰まである。
「大丈夫よ、だって、私は何も変な事は言ってないもの。それに、私から言わせて貰うと、アインの方が余っ程変!鞭打ちや説教よりも、朝食の白パンの方が大切だなんて!」
「鞭打ちや、正典の二時間朗読は俺も嫌だが……朝食を抜かれる方が、もっと嫌だ。食べ盛りの俺からすると、あんなにも少ない朝食を、もっと減らされるなんて馬鹿げてる」
私はそう言って、喧嘩をして傷を負った部分を少し隠しながら、彼女からそっぽ向く。
「確かに、朝食の気持ち程度のバターと白パンだけってのは、私も些か少ないとは思うけど……。うぅ、お腹が空いてきた……っ」
「今日の昼食は確か、ひよこ豆のスープと、半分の林檎。それと、ライ麦パンだった筈だ」
ライ麦パン……通称、黒パンと呼ばれるパンだ。黒褐色で、少し酸味があるのが特徴。
しかし、それは天使園の中では、一、二を争う程の不人気メニューである。理由は……。
「えっ、ライ麦パン?……私、あれ嫌いなのよね。硬くて、歯が折れそうになるし。スープに沈めてふやかしたって、全然美味しくないじゃない。……と言うか、それを覚えられるんだったら、普通に聖書の一句でも覚えなよ!」
そう言って、彼女は私の脇腹を優しく蹴った。それと同時に、天使園の鐘が鳴る。
自由時間の終わり。今からあと少しで授業が始まり、聖句を読む授業が始まる合図。
私は、蹴られた脇腹を抑えながら。
「授業が始まる、行こう」
彼女へ向かって、手を差し伸べた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「──……っん。──ぁ。此処は何処だ?!」
懐かしい夢から覚めた私は、驚きが隠せず、勢いのまま目を覚ます。……記憶が曖昧だ。
自分のやった事では無いような感じがする。確か昨日は、殺されそうになって、不思議な死神と少女と出会い。
それから、セフィラのケテルとお遊びの対戦後、気を失って……。
私が思考を巡らせる中、隣から、何やら良い匂いが漂って来たでは無いか。白いシーツの張られたベッドの上で、私は隣を見ると。
隣には、腰掛けに座る、不思議な女が居た。
瞳や髪は、光も通さない黒色で。髪は長く、結んではいる物の、尾骶骨まで届く程に。そして耳元には、ひし形の白宝石が付いている。
口元の黒子を吊り上げて、紅茶のカップ片手に、不敵に笑う彼女の姿は、どうも悪魔だと言われ様とも、納得してしまいそうだ。
そして、彼女も彼等と同様に……
”在る筈の天使の輪が無かった”。