001_天界と楽園の違いについて。
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瞬きをした時、私の目の前は真っ暗だった。
……夜の森中。震える自身の手を眺める。
赤黒く汚れていた。べったりと、感触の悪い泥がくっ付いている様な感じだったのを、私は今でも覚えている。
「──ッ、ひゅ〜〜!??……が、びゅ、っ。が、はっ。……ッ、ひぃーー〜っ、ひぃーッ」
あの憂いの都……地獄から、私は何とか逃れ、我らが天の国へと戻って来れたと思った矢先、この有様だ。それに、地獄から脱却した時からずっと、私は『生き恥』であった。
口を卑しく、自身の褐色肌とは似ても似つかぬ色で、べとべとに汚して。尚且つ、自身の自慢の白濁色の髪は、白髪に成りつつある。
髪色と同じ色の、翡翠の様に透き通る瞳だって──今や、霞んで朧気な記憶のみが。
私は、もう動けないと音を上げる身体を何とか動かして、近場の木に背中を寄せた。
口元はべとべとで、天使特権の私の翼は哀れにも、先程悪魔の奴らに貫かれ、血の霧が。
それに……。私は、頭へ手を添える。べったりと、何かがへばりついた。
霞んだ瞳でよく凝らして見ると、それは自身の血であった。地獄から脱却した時だ。その時、とても強く頭を地面に打ってしまったのだろう。
首元にも、”あの野郎”が焼き入れた烙印がある。
目線を上目にすると、目の前に、先程まで私を嘲笑っていた豚と髑髏の、地面へ突っ伏した姿が見えた。そして、其奴らに大鎌を刺す、一人の男の姿も……。
「おい、ファウ。メフィ、あまぅ、あまぅ。『けぇき』か『けーき』、食べたい。お口の中、ほろほろ。あまあまなのがいい〜」
男の胸元で、片手で抱かれる少女の姿が、黒外套……黒ローブの男へそう告げる。
肋骨を模した、ボンテージ風の服装が浮かび上がる、灰色のハイネックの服を彼女は着込み。その中でも特に特徴的なのは、胸から腹にかけてある、肋骨を模したリブゲージハーネスである。
少女の瞳孔に光は無い、髪色も煤を模した様な灰色で。奇抜なツインテールと、黒色のヘアアクセサリーが良く似合う。
少女は、謎の黒ローブの男へ、この惨状を見ても尚。自身が血塗れになろうとも。顔色一つ変えず。生意気な態度でそう呟いたのだ。
それを見て、黒ローブの男は深い溜息を。
「……メフィ〜、今日はそれで何個目だ?それに、俺の頼んだキャロットケーキやタルトやらには、一切手を付けていない様だが……」
「メフィ、にんじん嫌い。タルト、満足しない……。けぇき、けぇき!あたしゃ、けーきが食べたいのら。けぇーき、けぇーきっ!」
片手姫様抱っこの状態で、子供の様に暴れ回る少女を横に、黒ローブの男は困った様に、此方へ「少し待ってくれ」と一言。
そして、何処からともなく苺の乗ったケーキを取り出せば、少女へそれを与えるのである。
「は、むぅ。っ、ふ!ふぁふ、ふぁふぅ〜!うまし、ふぁふ、んっ。は、ははは、は!」
「メフィ……。ケーキを食べる時は、食べ屑を零すなと何度も……これじゃあ、最近買った服も台無しになるじゃないか。それに、お前の身体にもし、傷が付いたらどうする」
ケーキを貪る少女を横に、男は彼女の腹やら口元を、手に握る手拭いで荒々しく拭う。
だが、少女はお構い無し。そのまま、欲望に忠実に、貪って行くのだ。
ぐちゃぐちゃぐちゃ、荒れ狂う嵐の様な咀嚼音が、其方にまで響き渡って来る。
──私は、目を疑った。それは、謎の男が急に何処からともなくケーキを取り出したからではない。
……彼等に、天使の輪が無かったからだ。
天使の輪は、その者の技量や力で形が変化する。私の輪は二重になっており、東西南北の方向に、四角の図形があるのが特徴だ。
と、そんな風に、天使の輪はその物の自己紹介の様な役割を持つ。
故、天使の輪は自身を写し出す鏡なのだ。……だから、彼等の様に、天使の輪が無い何て、到底有り得ない。
黒ローブの方はまだしも、謎の少女の方も、何故か天使の輪が見当たらない。目を疑った。天使の輪の無い天使等、見た事がなかったからである。
それに、豚や髑髏の血が身体中に付いているのにも関わらず、平然としているその様は、幼いながらも随分と肝っ玉が据わっているのが見て取れる。
そして、そんな少女を抱く、謎の男も同類だ。
「……ッ、がひゅ、っ。……し、の輪……っ。天使の輪──がっ。……な、っひ、ゅ。無ぃ」
私は、潰れた喉奥から掠れた声を出した。
その声を聞いた黒ローブの男は、やっと此方に視線を向けて。微笑んだのかもしれない。
「……っと、自己紹介が遅れたな。──俺の名前は、ファウスト。第一区のセフィラ、ケテルに着く、思考と創造を司る神であり。……巷では、死神と呼ばれる端くれ者さ」
「メフィは、メフィ。メフィストフェレス。ファウは、メフィの下僕なのら〜」
セフィラ、セフィロト。この膨大な区域を支配する、言わば管理人の様な、代表者である神の事を指す言葉。
神。我々天使等には、手も足も及ばぬ領域に居座る、天界を司る者達。神はそれぞれ、与えられた役割があり。死神の彼に与えられたその役割は、この天界全域の『魂の管理』。
──この天界は愚か、地獄ですら名の通っている。
聖なる天界に、死を司る神等と、陰口やら悪い噂が耐えぬ存在だ。私が聞いた話だと、天使を夜な夜な食べているだとか、神に背く準備をしているだとか……。
専ら、噂話の耐えぬ神である事は確か。
だが、奴は強い。それは確かな真実だった。
驚いている私を横に、死神は徐に、背中に収めた大鎌を手に握れば。──ゆっくりと、私の首へ、その刃を向けたのである。
「……お前からは、暴食の烙印の臭いがする。そしてお前、天使を喰ったろう?──はっ、下品な奴だな。口と手を汚しながらそのザマか?実に滑稽で……天界には、不必要だ」
暴食の烙印……ああ、”あの野郎”が、地獄に居た私に押した物だ。そして、私の胃袋の中に、証拠は全て残されている。
実に不潔な存在だ。天界に居る、人生を全うした魂にも何をしでかすか分かるまい。
故の、処分なのだろう。実に、滑稽だ。
「……やるなら、好きにしろ──ッ。……が、ふっ。もぅ、生きるのも辛ぃ゛。生き恥だ」
だって……私は、天使を──……この手で。
だが、目を瞑り死を待つ私を見て、死神は「はっ」と鼻で笑えば。「話はまだ終わって無い」と呟くのだ。……私は、重い瞼を上げた。
「確かに、お前は”天界には”不必要だろう。──”天界には”な。だが、俺達には必要だ。……さあ、再度聞くぞ、天使喰らいのバアル・ゼブブよ」
私の褐色肌に、死神の刃が少し食い込んで。ツー……と、真っ赤な血が垂れた。
「そのまま、天使喰らいの称号を胸に抱きながら死ぬか。……それとも、俺の弟子になるか」
その言葉には、私自身驚きを隠せなかった。
死神の弟子……。しかも、天使園を追放されて間も無い、身寄り無しの端くれ見習い天使がだ。実に、これこそ荒唐無稽な夢の様な話だった。
「実の所、俺自身。妙な噂のお陰かそのせいか、弟子が全く寄り付かなくてね。……良い機会だ、このまま死ぬよりはマシだろう?それに、お前は”崇高な目的”に利用出来る」
「あと、メフィ、奴隷、いっぱい困らせる。皆、メフィを置いて、どっか行く、のら〜」
むふっ、と、謎の少女は頬を膨らませ。口の周りには、ケーキの屑が着いており。私はそれを見て、少し顔を顰めると。
──皺に支配された、細い死神の手を取った。