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厨房の形而上学  作者: モーレツ!モーレス!!
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第三章:実践の対立――厨房の形而上学

厨房は、図書館の地下、長い石の階段を下りた先に、ひっそりと存在していた。そこは、これまでの荘厳な雰囲気とは打って変わって、生活の匂いが染みついた、人間的な空間であった。石造りの壁には、使い込まれた銅や鉄の調理器具が、整然と掛けられている。中央には、腰ほどの高さの、頑丈な木製の作業台が置かれ、その奥には、巨大な石造りのかまどが、黒い口を、洞窟のように開けていた。


幸いなことに、竈の脇には、薪が、乾燥した状態で、たっぷりと積まれていた。そして、作業台の隅には、あのマールスが、籠に、山盛りになっていた。まるで、二人の対決を、待ち構えていたかのように。


「さて」と、バシュラールは、満足げに手をこすり合わせた。「ここが、我々の、実験室であり、聖域です」


彼の目は、子供のように、きらきらと輝いていた。彼は、壁に掛かった銅鍋の中から、一つ、ずっしりと重い、深鍋を選び取った。そして、それを、作業台の上に、ことり、と置いた。その音は、これから始まる儀式の、開始を告げる鐘のようであった。


彼は、籠から、マールスを、一つ、両手で、慈しむように、取り上げた。そして、それを、光にかざし、うっとりと、眺めた。


「見なさい。この、完璧な形。これを、無造作に、切り刻むことなど、できましょうか。いや、できない。我々は、このマールスの、内なる構造に、敬意を払わねばならない」


彼は、小さなナイフを手に取ると、マールスの窪みに、そっと、刃を入れた。そして、中心にある、硬い芯を、避けるように、螺旋を描きながら、ゆっくりと、皮を剥き始めた。彼のナイフの動きは、彫刻家ののみのように、繊細で、確信に満ちていた。緋色の皮が、途切れることなく、一本の長いリボンのように、するすると剥けていく。現れた乳白色の果肉は、空気に触れて、恥じらうように、ほんのりと、薔薇色に染まった。


「皮を、捨てては、いけません」と、彼は言った。「皮には、太陽の記憶が、凝縮されている。これは、後で、香りのために、少しだけ、加えるのです」


彼は、皮を剥いたマールスを、四つに、きれいに切り分けた。そして、中心にある、星形の芯と、黒い種子を、丁寧に取り除いた。その手つきは、外科医のようでもあり、宝石職人のようでもあった。


一方、ダストンは、その詩的なパフォーマンスを、冷ややかな目で見つめていた。彼女は、バシュラールの隣の作業スペースを確保すると、自らの、全く異なる方法論に、着手した。


彼女はまず、籠から、無作為に、三つのマールスを選び出した。そして、持参した羊皮紙の上に、それらを、A、B、Cと、区別して置いた。彼女は、近くにあった、天秤と思しき道具を見つけ出し、それぞれの重量を、克明に記録した。


物体オブジェクトA: 187グラム

物体オブジェクトB: 192グラム

物体オブジェクトC: 185グラム


次に、彼女は、それぞれの硬度を、指で押し、爪を立てることで、比較検討し、その感触を、言葉で記述しようと試みた。「Aは、Bに比べて、わずかに弾力がある。Cは、最も硬い」。不正確な記述であることは、承知の上だ。しかし、これが、今、彼女にできる、最善の客観化であった。


そして、彼女は、ナイフを手に取った。彼女のナイフの使い方は、バシュラールとは、全く、対照的であった。彼女は、物体オブジェクトAを、まず、正確に、半分に切断した。そして、その半分を、さらに、1センチメートル角の、角切りにした。もう半分は、厚さ5ミリメートルの、薄切りにした。これは、調理法における、形状の差異が、結果に、どのような影響を与えるかを、比較検討するための、実験計画であった。


物体オブジェクトBは、皮を剥かずに、そのまま、角切りにした。皮の有無による、変化を見るためである。


物体オブジェクトCは、生のまま、比較対照コントロールとして、保存しておく。


バシュラールの厨房が、愛と夢想に満ちたアトリエであるとすれば、ダストンのそれは、厳格な規律に支配された、実験室であった。


やがて、二人は、同時に、竈へと向かった。バシュラールは、竈に、薪を巧みに組み、火打石で、火を熾した。パチ、パチ、という音と共に、小さな炎が生まれ、やがて、ごうごうと音を立てて、燃え盛る、本格的な炎へと、成長していった。彼は、その炎の色、その音、その熱を、全身で感じながら、恍惚とした表情を浮かべていた。


「火だ」と、彼は、囁いた。「原初の力。全ての変容の、母だ」


彼は、銅鍋に、切り分けたマールスと、井戸から汲んできたらしい、少量の水を入れ、竈の上に、慎重に置いた。そして、剥いた皮の、リボンを、そっと、その上に、浮かべた。


ダストンは、バシュラールが熾した火を、いわば、借りる形で、自らの、三つの小さな鉄鍋を、竈に掛けた。鍋Aには、角切りと薄切りにしたマールスを。鍋Bには、皮付きのマールスを。そして、それぞれの鍋に、計量した、同量の水を、注いだ。彼女は、砂時計を、作業台に置き、加熱時間の、正確な管理を、開始した。


厨房は、二つの、全く異なる世界に、分かたれた。


片や、バシュラールの世界。彼は、鍋の前に、椅子を持ち出し、座り込むと、ただ、じっと、鍋の中の変化を、見守っていた。彼は、時折、木の匙で、鍋の底を、ゆっくりと、撫でるように、かき混ぜる。その動きは、せわしなくなく、まるで、眠っている赤子を、あやすかのようだ。彼は、鍋から立ち上る湯気の、匂いを嗅ぎ、その香りの、微妙な変化に、耳を澄ませている。


「おお、聞こえる、聞こえるぞ」と、彼は、時折、満足げに、呟いた。「最初は、若々しい、酸味の主張があった。だが、今や、それは、円熟した、深い甘みへと、その座を、譲りつつある。マールスが、その内なる、本当の自分を、語り始めたのだ」


彼の顔は、竈の炎に赤く照らされ、その表情は、神秘的な法悦に、満たされていた。


片や、ダストンの世界。彼女は、砂時計を、睨みつけながら、羊皮紙に、克明な記録を、取り続けていた。


加熱開始後、5分経過:


鍋A:薄切りにしたマールスから、形状の崩壊が始まる。角切りは、まだ、原形を保つ。


鍋B:皮の色が、緋色から、くすんだ茶褐色に変化。果肉に、目立った変化なし。


両鍋から、強い酸味を伴う、水蒸気が発生。


加熱開始後、15分経過:


鍋A:薄切りは、ほぼ、液体状に溶解。角切りも、角が取れ、柔らかくなる。全体が、淡いピンク色の、ペースト状になりつつある。


鍋B:皮が破れ、果肉が、外部に露出し始める。鍋Aに比べ、果肉の崩壊速度は、遅い。


香り:酸味が和らぎ、明確な甘い香りが、優勢になる。


彼女は、時折、それぞれの鍋から、スプーンで、少量を取り出し、その粘度や、色を、比較した。彼女の関心は、現象の、詩的な意味ではなく、再現可能な、法則性にあった。皮は、加熱時間を、遅延させる効果があるのか。形状は、テクスチャーに、いかなる影響を、及ぼすのか。彼女の頭の中では、無数の、仮説と検証が、高速で、回転していた。


やがて、バシュラールの鍋から、ぐつ、ぐつ、という、粘り気のある音が、聞こえ始めた。水分が飛び、マールスは、その身を、濃縮させ、輝くような、琥珀色の、ジャム状になっていた。彼は、最後に、ほんの少しだけ、近くにあった、岩塩の塊を削り、ぱらぱらと、振り入れた。


「甘さの、夢を、完成させるのは」と、彼は言った。「ほんの、一粒の、現実の、塩なのだ」


彼は、鍋を、火から下ろし、その出来栄えに、深く、満足したように、頷いた。


ほぼ、同時に、ダストンも、自らの鍋を、火から下ろした。彼女の二つの鍋の中身は、バシュラールのものとは、全く、様相が、異なっていた。鍋Aは、滑らかな、ピンク色のソース。鍋Bは、皮の残骸が混じった、不均一な、塊状の煮物。それらは、芸術作品ではなく、実験の結果物であった。


こうして、二つの、全く異なる「調理されたマールス」が、作業台の上に、並べられた。


一つは、火との、詩的な対話の末に生まれた、魂の凝縮物。

もう一つは、厳密な、比較実験の末に得られた、客観的なデータサンプル。


厨房に満ちる、甘く、複雑な香りの、その中で、二人の哲学者は、それぞれの、創造物を前に、静かに、立っていた。これから、始まるのは、言葉による、最後の、そして、最も、熾烈な、戦いであった。

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