第二章:歴史の不在――規範を求めて
バシュラールの予期せぬ強い抵抗に、ダストンは、一瞬、ナイフを引いた。彼女は、激情の人ではない。彼女の武器は、論理と証拠である。目の前の老人が、なぜこれほどまでに、加熱という行為に固執するのか。その精神の構造を、彼女は、冷静に分析しようと試みた。
彼の言葉の端々から伺えるのは、火に対する、ある種の神聖視であった。それは、古代ギリシャの自然哲学から、中世の錬金術に至るまで、西洋思想の深層に、太古から流れ続ける地下水脈のようなものである。火は、単なる酸化現象ではない。それは、浄化であり、変容であり、昇華である。この老人は、その前近代的な世界観に、いまだ囚われているのではないか。ダストンは、彼を、乗り越えられるべき過去の亡霊として、あるいは、興味深い研究対象として、見つめ始めていた。
「あなたのその、火への執着は」と、彼女は、努めて平静な口調で言った。「歴史的に見れば、理解できないことではありません。かつて、人々は、自然の中に、様々な意志や魂を見出し、火のような現象に、神秘的な力を見出していた。しかし、科学革命以降、我々は、そういったアニミズム的な世界観から、自然を解放し、それを、客観的な法則の下にある、物質的なシステムとして理解しようと努めてきたのです。あなたの主張は、その偉大な知的達成に対する、一種の逆行です」
「逆行、ですと?」バシュラールは、穏やかに、しかし、その瞳の奥に鋭い光を宿して、応じた。「私は、それを、回復と呼びたい。近代科学は、確かに、我々に多くのものを与えてくれた。しかし、その代償として、我々は、世界と親密に交わる能力を、失ってしまったのではないか。数字と数式に還元された世界は、安全で、予測可能かもしれないが、もはや、我々に語りかけてはこない。私は、その失われた対話を取り戻したいのです。そして、このマールスは、そのための、またとない機会を与えてくれている」
「対話、対話と、あなたは繰り返す」ダストンの声に、次第に、学問的な闘志が燃え始めていた。「しかし、その『対話』の正当性を、あなたはどうやって担保するのですか。あなたの言う『マールスの声』が、単なるあなたの願望や、主観的な思い込みの反響でないと、どうして言えるのですか。知の営みには、客観的な規範が必要です。その規範は、個人の内なる声などという、曖昧で、検証不可能なものではなく、共有された手続きや、歴史的な蓄積の中にこそ、見出されるべきものです」
そこで、ダストンは、はた、と気づいた。歴史的な蓄積。そうだ。もし、この世界に、我々と同じような知的生命体が存在し、彼らが、このマールスという果実と、長年にわたって関わってきたのなら、そこには、何らかの「伝統」や「規範」が、形成されているはずではないか。彼らは、このマールスを、生で食べてきたのか、それとも、加熱してきたのか。あるいは、全く別の、我々が想像もつかないような方法で、利用してきたのか。
「議論は、一旦、保留にしましょう」と、ダストンは提案した。「我々二人の間で、不毛な抽象論を戦わせるよりも、まずは、外部に証拠を求めるべきです。この図書館の書物を調べ、この世界における、この果実の歴史的文脈を探るのです。もし、過去の記録が見つかれば、それが、我々の判断の、客観的な指針となり得るでしょう」
それは、一見、極めて合理的な提案であった。歴史家である彼女にとって、それは、自らの専門分野に、戦いの舞台を引き込む、巧みな一手でもあった。
バシュラールも、その提案に、異を唱えはしなかった。彼もまた、書物を愛する人間であったからだ。それに、彼には、密かな確信があった。たとえ、どのような歴史的記述が見つかろうとも、それは、彼の「火の夢想」を、否定するものではなく、むしろ、豊かにするものでしかないだろう、と。なぜなら、人間の根源的な夢想は、時代や文化を超えて、普遍的な形をとるものだからだ。
こうして、二人の間の、最初の物理的な衝突は回避され、彼らの戦いは、新たな段階へと移行した。それは、書架の森を彷徨い、歴史という名の亡霊を探索する、静かなる闘争であった。
図書館は、想像を絶するほどに、広大であった。螺旋階段を上り、渡り廊下を渡り、いくつもの書庫を通り抜けても、その終わりは見えなかった。書架に並ぶ書物は、彼らが知る、いかなる言語で書かれたものでもなかった。奇妙な、鳥の足跡のような文字や、渦を巻く幾何学模様のような文字が、羊皮紙や、あるいは、薄く削いだ石の板のようなものの上に、びっしりと記されていた。
ダストンは、絶望的な気分になった。これでは、解読のしようがない。歴史的文脈を探るという、彼女の計画は、早くも、暗礁に乗り上げたかに見えた。
しかし、彼女は、諦めなかった。たとえ、文字が読めなくとも、図像は、何らかの情報を与えてくれるかもしれない。彼女は、方針を切り替え、書物の中に、植物や、調理風景を描いた絵を探し始めた。それは、まさに、大海で、一本の針を探すような作業であった。
一方、バシュラールは、ダストンとは、全く異なるやり方で、書庫を彷徨っていた。彼は、特定の情報を探していたわけではない。彼は、この図書館という「空間」そのものを、味わっていた。書架と書架の間の、薄暗い通路。それは、秘密の通路であり、夢への入り口だ。高い天井は、思索の飛翔を促す。古い書物の匂いは、過去の魂たちの、静かな息遣いだ。彼は、一冊の書物を、無作為に手に取り、その手触りを確かめ、頁をぱらぱらと捲った。読めぬ文字の連なりは、彼にとっては、意味の束縛から解放された、純粋な詩であった。
数時間が経過しただろうか。あるいは、数日だったかもしれない。この図書館には、時間の流れを告げる時計も、太陽の運行を示す窓も、ほとんどなかった。
「見つけました」
ダストンの、緊張と興奮の入り混じった声が、静寂を破った。彼女は、巨大な書物を見開いて、床に座り込んでいた。バシュラールが、その隣に膝をつくと、彼女は、震える指で、頁の一画を指し示した。
そこには、まさしく、あのマールスが、極めて写実的なタッチで描かれていた。緋色に黄色の斑点、そして、藍色の滲み。間違いようがなかった。そして、その隣には、この果実を、手にした人物像が、いくつか描かれている。彼らは、奇妙な、儀式的な衣装を身に着けていた。
しかし、肝心の、調理法に関する記述は、どうだろうか。ダストンは、唾を飲み込み、次の頁を、慎重にめくった。
そこに描かれていた光景に、彼女は、息を飲んだ。そして、深い、深い失望のため息をついた。
絵の中では、マールスは、祭壇のようなものの上に、山と積まれていた。そして、人々は、それを、食べようとはしていなかった。彼らは、その前で、ひれ伏し、祈りを捧げているように見えた。別の絵では、マールスは、粉々に砕かれ、水と混ぜ合わされ、人々の顔や身体に、塗料のように塗りたくられていた。
食されていない。少なくとも、日常的な食料として、扱われている様子は、どこにもなかった。それは、神聖な、儀式のための供物か、あるいは、呪術的な媒体として、用いられているらしかった。
「……これでは」と、ダストンは、力なく呟いた。「規範には、なり得ません。彼らにとって、この果実は、我々が考えるような『食物』というカテゴリーに、属していないようです」
彼女の計画は、完全に、頓挫した。歴史は、沈黙していた。あるいは、彼女が理解できるような言葉では、語ってくれなかった。この異世界において、マールスの調理法に関する、客観的な指針となるべき「伝統」は、存在しないか、あるいは、全く異なる文脈の中に、埋もれてしまっていたのだ。規範の不在。それは、知の拠り所を失うことであり、無限の可能性という名の、眩暈のするような不安を、意味していた。
そのとき、隣で、静かに絵を眺めていたバシュラールが、穏やかに、しかし、確信に満ちた声で、言った。
「いや。これは、沈黙ではありません。これは、雄弁な、肯定です」
「肯定?一体、何を、肯定しているというのですか」
「私の、やり方を、です」と、バシュラールは、にこりと笑った。「ご覧なさい。彼らは、このマールスを、日常的な、ありふれた存在とは、見なしていない。彼らは、この果実に、特別な、聖なる価値を、見出している。彼らは、このマールスと、ある種の、精神的な交わりを、行っているのです。それは、私の言う『対話』と、本質的に、同じことだ。彼らは、この物質の内に、単なる栄養以上の、何かを、感じ取っているのです」
彼は、祭壇の絵を指さした。
「この、山と積まれたマールス。これは、豊穣の夢の、具体的な現れです。そして、こちら」と、彼は、身体に塗料を塗る絵を指す。「これは、物質との、最も根源的な一体化への、憧れではないですか。自らの身体を、マールスの物質性で染め上げることで、彼らは、その力を、自らの内に、取り込もうとしている。これは、極めて詩的な、そして、極めて根源的な、物質的想像力の、発露です」
ダストンは、反論の言葉を、見つけることができなかった。確かに、そう解釈することも、可能かもしれない。しかし、それは、あまりに、恣意的な解釈ではないか。
「彼らが、加熱していない、という事実は、どう説明するのですか」と、彼女は、かろうじて、反論を試みた。
「それは、問題ではありません」と、バシュラールは、こともなげに言った。「彼らは、彼らなりの方法で、マールスの夢想に参加している。火を使うか、砕くか、祈るか、その方法は、違えども、根底にある、物質への畏敬と、その力を引き出そうとする意志は、共通している。歴史や伝統が、我々に、一つの決まった答えを与えてくれるなどと、期待すること自体が、間違いなのです。歴史とは、乗り越えられるべき、認識論的障害の一つに過ぎないこともある。我々は、幸運にも、その障害から、自由だ。我々は、今、ここで、我々自身の、マールスとの、純粋な関係を、創造することができるのです。さあ、厨房へ、行きましょう。私の正しさを、そして、このマールスの、真の運命を、お見せしますよ」
彼は、そう言って、軽やかに立ち上がった。その足取りには、何の迷いもなかった。歴史の不在は、彼にとって、重荷ではなく、翼であった。
ダストンは、その場に、座り込んだまま、大きく、開かれた書物を、見つめていた。彼女の信じた、客観的な知の拠り所は、崩れ去った。彼女は今、羅針盤も、海図も持たずに、未知の大海へと、一人、漕ぎ出さねばならないのだ。彼女の目の前には、二つの道が、横たわっていた。一つは、目の前の老人の、あの、詩的で、危険なほどに甘美な、火の夢想に、身を委ねてしまう道。もう一つは、規範なき荒野の中で、それでもなお、自らの信じる、客観性と実証性という、ささやかな、しかし、唯一の武器を手に、孤独な戦いを、続ける道。
彼女は、ゆっくりと、書物を閉じた。その重い表紙が、ごとり、と音を立てた。それは、一つの時代の、終わりを告げる音のようにも、聞こえた。