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厨房の形而上学  作者: モーレツ!モーレス!!
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第一章:最初の火花――生食か、加熱か

対立の構図は、初めから明らかであった。それは、二つの異なる知のあり方の、根源的な断絶から生じていた。ダストンにとって、目の前の「マールス」は、まずもって一個の「事物(thing)」であった。知られていない性質に満ちた、探求されるべき客体である。彼女の思考は、その事物を前にして、極めて系統的、かつ冷静に働き始めた。彼女は、この図書館のどこかにあるであろう厨房を探す前に、まず、この場で為すべきことがある、と考えた。それは、記録である。


幸いなことに、円卓の近くの書見台には、インク壺と数本の羽ペン、そして、未使用の羊皮紙の束が置かれていた。まるで、この出会いのために用意されていたかのようであった。ダストンは、ためらうことなくその一つを取り、羽ペンの先をインクに浸した。


「何をなさるおつもりか」


バシュラールの声には、純粋な好奇の色が浮かんでいた。


「記載です」と、ダストンは短く答え、羊皮紙に最初の文字を書き始めた。「我々がこの対象について何かを語るためには、まず、共有可能な記述が必要です。それは、観察された事実に基づかねばなりません」


彼女の手つきは、慣れたものであった。まるで、長年、古文書の筆写を行ってきた写字生のように、淀みがない。


対象: 未知の果実(仮称:マールス)

観察日時: 意識回復直後

観察場所: 不明(石造りの図書館風建造物内)


形態学的特徴:


形状: 不完全な球形。長径およそ8.5センチメートル、短径およそ8.2センチメートル(目測)。頂部(おそらく花弁側)と底部(おそらく枝側)に窪みを有する。


色調: 基調色は緋色カーマイン。ただし、表面に直径1ミリメートルから3ミリメートルの黄色の斑点が不規則に散在する。また、表面積のおよそ15パーセントにわたり、藍色インディゴの滲みが認められる。この滲みは、明確な輪郭を持たない。


表面: 光沢あり。触覚的には滑らかだが、斜光下では微細な網目状の隆起が確認できる。蝋様物質の存在が示唆される。


香り: 複合的。第一印象として、リンゴ酸を思わせる甘酸っぱい香り。しかし、それに加えて、湿った腐葉土の匂い(ゲオスミンか?)、および、微かな鉄の匂いが混在する。


ダストンは、ペンを置き、自らの記述を読み返した。不十分だ。あまりに不十分だ。本来であれば、ノギスで正確な寸法を測り、色彩計で色を数値化し、ガスクロマトグラフィーで香り成分を分析すべきところだ。しかし、今は、この五感という、あまりに頼りなく、主観に汚染されやすい道具しか持ち合わせていない。それでも、何もしないよりはましであった。これは、未来の、より精密な研究のための、最初の粗描スケッチなのだ。


「なるほど」と、バシュラールは、彼女の肩越しに羊皮紙を覗き込みながら言った。「あなたは、このマールスを、言葉の網で捕らえようとしておられる。だが、網の目から、最も大切なものが、こぼれ落ちてしまっていることにお気づきか」


「最も大切なもの、とは?」ダストンは、振り返りもせずに問い返した。


「その、内なる声です」と、バシュラールは静かに言った。「このマールスは、ただの物質ではない。それは、一つの『誘い』なのです。この緋色は、ただの緋色ではない。それは、火への憧れの色です。この甘い香りは、ただの香りではない。それは、変容への期待の吐息なのです。あなたは、このマールスの外面を、その死んだ姿を記述しているに過ぎない。その生きた魂、その夢見る力については、一言も触れていない」


「魂、ですとか、夢見る力、ですとか」ダストンの声に、苛立ちが滲んだ。「そういった詩的な表現は、心地よいかもしれませんが、知的な怠惰の別名です。それは、説明ではなく、感情の投射に過ぎない。我々が今、直面しているのは、未知の自然物です。その性質を明らかにするためには、感傷を排し、客観的な手続きを踏まねばなりません。そして、その第一歩が、ありのままの姿、すなわち『生』の状態での試食であると、私は考えます。それによってのみ、我々は、基準となる味覚データを得ることができるのです」


彼女はそう言うと、円卓の引き出しから、小さなナイフを取り出した。これもまた、都合よくそこに収まっていたものだ。銀の柄には、簡素ながらも品の良い装飾が施されている。


「お待ちください」バシュラールは、彼女の手を制するように、静かに、しかし強い口調で言った。「ナイフを入れる、ということは、この閉じた宇宙を、その完璧な夢を、破壊するということです。そして、生で食す、ということは、その冷たい、まだ目覚めていない物質を、ただ胃の腑に収めるという、あまりに無粋な行為だ。それは、冒涜ですらある」


「冒涜?」ダストンは、呆れて言葉を失った。この老人は、一体何を言っているのか。神秘主義も、ここまでくると滑稽ですらある。「では、あなたなら、どうするというのですか。このまま、永遠に眺めているとでも?」


「いいえ」バシュラールは、ゆっくりと首を振った。「私は、このマールスを、その運命の相手と引き合わせるのです。火、です。火こそが、このマールスの内に秘められたポテンシャルを、現実へと開花させる唯一の力なのです」


彼の目は、遠くを見るように、細められた。彼の脳裏には、既に、一つの光景が浮かんでいた。


厚手の銅鍋の中で、くし形に切られたマールスが、少量の水と共に、静かに熱せられていく。最初は、ことこと、と控えめな音を立てるだけだ。しかし、熱が内部に浸透するにつれて、マールスは、その硬い肉体を、ゆっくりと解きほぐし始める。皮の色は、鮮やかな緋色から、深い、落ち着いた茜色へと変わっていく。果肉は、半透明の輝きを帯び、その輪郭は、甘い液体の中へと、優しく溶け出していく。


やがて、鍋の縁からは、小さな泡が、ぷつ、ぷつ、と生まれ始める。それは、物質が、新たな存在へと生まれ変わる、産声なのだ。立ち上る湯気は、もはや単なる水蒸気ではない。それは、マールスの魂が、その最も純粋なエッセンスが、気体となって立ち上る、聖なる香りなのだ。生の時には、奥に隠れていた、蜜のような、焦がした砂糖のような、芳醇な甘さが、部屋中に満ち満ちていく。


この過程こそが、重要なのだ。結果として得られるジャムやコンポートの味ではない。この、火との対話を通じて、物質がその閉じた自己を捨て、より高次の、流動的で、甘美な存在へと変容していく、このドラマ。この現象学的経験こそが、マールスという存在の真理を、我々に啓示してくれるのだ。


「生で食べるなど」と、バシュラールは、ほとんど呻くように言った。「それは、まだ書かれていない詩の、原稿を破り捨てるようなものです。それは、交響曲の、最初の和音だけで、全てを判断しようとする愚行です。このマールスは、加熱されることを、夢見ている。その夢を、我々が叶えてやらねば、一体、誰が叶えてやれるというのですか」


ダストンは、バシュラールのその熱に浮かされたような語りを、冷徹な沈黙で聞いていた。彼女の思考は、全く別の軌道を辿っていた。


加熱。それは、制御不能な変数の導入を意味する。温度、時間、熱媒体(水か、油か、あるいは乾熱か)、使用する鍋の材質。これらの変数が、結果物プロダクトに、どのような影響を与えるか、我々には、まだ何のデータもない。比較対象となるべき基準、すなわち「生」の状態を知らずして、加熱による変化を、どうやって正確に評価できるというのか。


彼の言う「魂の解放」とは、結局のところ、セルロース繊維の破壊と、ペクチンのゲル化、そして糖のカラメル化という、一連の化学反応に過ぎないではないか。それを「夢」だの「詩」だのという言葉で覆い隠すのは、知的な欺瞞だ。


「あなたの言う『夢』とやらは」と、ダストンは、ナイフの切っ先を、マールスに、すれすれのところで向けながら言った。「極めて個人的で、再現性のない現象です。私がこのマールスを生で食べ、その味を『酸味レベル4、甘味レベル6、食感は硬く、繊維質』と記述すれば、それは、別の人間が検証可能な、客観的データとなり得ます。しかし、あなたがそれを煮詰めて、『幼年期の午後の光の味がした』と語ったところで、それは、誰とも共有不可能な、ただの独白ソリロクイです。科学とは、共有可能な知の体系です。あなたのやり方は、その対極にある」


「科学、科学か」バシュラールは、悲しげに微笑んだ。「科学は、世界を切り刻み、分類し、法則を見出す。それは、それで、一つの偉大な営みでしょう。しかし、その過程で、世界が持っている豊かさ、その響き合い、その詩情を、殺してしまうことがある。私は、殺したくないのです。このマールスを。私は、このマールスと、共に夢を見たい」


「私は、夢ではなく、事実が知りたいのです」


ダストンの言葉は、刃のように鋭かった。彼女は、もはや、この不毛な議論を続ける気はなかった。彼女は、自らの信じる知の方法論に従って、行動するだけだ。


彼女は、ナイフに、静かに力を込めた。マールスの滑らかな皮に、ナイフの先端が、くい、と食い込む。


その瞬間、バシュラールは、思わず、といった風に、手を伸ばした。


「やめなさい!」


その声は、もはや静かな哲学者のそれではなく、自らの聖域を侵されようとしている者の、必死の叫びであった。


二人の間に、張り詰めた空気が流れる。一方は、客観的知見のために、果実に刃を入れようとし、もう一方は、物質の夢を守るために、それを阻止しようとする。


生食か、加熱か。


それは、単なる調理法の選択ではなかった。それは、世界と、どう向き合うかという、二つの根本的に異なる態度の、最初の、そして、決定的な衝突であった。図書館の静寂の中、マールスは、その奇妙な色彩を放ちながら、二人の知性の激突を、ただ黙って見つめていた。

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