序章:邂逅
意識というものは、まことに奇妙な具合に、ふと、戻ってくるものである。それは水底から浮上する泡のように、予告なく、しかし必然の理を秘めて、ぱちりと弾ける。ガストン・バシュラールが自分の存在を再び認識したとき、彼の頬を撫でていたのは、書庫特有の、乾いてひんやりとした空気であった。古い羊皮紙の匂いと、蜜蝋の微かな甘さが混じり合っている。見慣れぬ、しかしどこか懐かしい匂いであった。
ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは、天井まで届く巨大な書架の列であった。飴色に使い込まれた木肌は、長い年月の重みを吸って、静かに光を放っている。差し込む光は、高い位置にある窓から射しているらしかった。細長い窓ガラスには、奇妙な幾何学模様が描かれており、そこを透過した光は、床に淡い虹色の斑点を落としていた。空気中を舞う塵の一粒一粒が、その光の筋の中で、きらきらと惑星のように浮遊している。ここはどこだ、と問う前に、彼は自分の身体が、豪奢な彫刻の施された長椅子の上に横たわっていることに気づいた。着ているものも、いつものくたびれたツイードのジャケットではない。ごわごわとした、しかし上質な麻でできた、簡素な衣服であった。
身体を起こすと、関節がきしむような音がした。だが、それは老いによるそれとは違う、もっと根本的な、存在の蝶番が軋むような感覚であった。彼は自らの手を見下ろした。節くれだった、しかし見覚えのある学者の手だ。この手で、どれだけの頁をめくり、どれだけの言葉をペンで紡いできたことか。その手の確かさに、彼はひとまず安堵した。
そのとき、書架の向こう側から、もう一つの気配がした。静かだが、揺るぎない存在感。それは、この図書館の静寂とは異質な、知的な緊張を孕んだ気配であった。バシュラールは立ち上がり、音を立てぬよう、書架の間の通路をゆっくりと進んだ。
円形の広間のような場所に出た。中央には、黒曜石かと思うほどに磨き上げられた円卓が置かれ、その上に、ぽつりと一つ、奇妙な果実が載せられていた。そして、その果実を、一人の女が、身じろぎもせずに見つめていた。
女は、バシュラールと同じような麻の衣服を身に着けていたが、その立ち姿には、少しの隙もなかった。背筋は真っ直ぐに伸び、その視線は、まるで解剖刀のように鋭く、卓上の果実に突き刺さっている。年の頃は、バシュラールよりもずっと若いように見えたが、その横顔に浮かぶ理知の光と、微かに寄せられた眉間の皺には、長年にわたる思索の跡が深く刻まれていた。
「……それは、」
バシュラールの声は、自分でも驚くほど、掠れていた。女は、その声にびくりともせず、視線を果実から動かさないまま、静かに応じた。
「ええ。見ています」
その声は、澄んでいて、硬質であった。まるで、磨かれた水晶を指で弾いたような響きがした。ロレイン・ダストンは、目の前の物体を、ただひたすらに観察していた。意識が戻ったときから、彼女の全神経は、この物体――仮に「果実」と呼ぶが――に集中していた。
その形状は、かつて彼女が知っていた「りんご」という果実に、驚くほどよく似ていた。しかし、似ている、ということと、同じである、ということは、全く別の事柄である。彼女の思考は、常にその峻別に貫かれている。皮の色は、均一な赤ではない。緋色を基調としながら、そこに黄色の斑点が、まるで星図のように散らばっている。そして、ところどころに、藍色とも紫色ともつかぬ、滲んだような染みが見えるのだ。表面の質感は、蝋を引いたように滑らかだが、光の角度を変えると、微細な凹凸が網の目のように走っているのが見て取れた。何よりも奇妙なのは、その香りであった。甘い果実の匂いに混じって、雨上がりの土のような、あるいは、冷たい金属のような、そんな無機質な香りが、微かに鼻をつくのである。
これは、記載されねばならない。分類されねばならない。その客観的性質が、あらゆる主観的判断に先立って、確定されねばならない。それが、知の第一歩である。ダストンの思考は、既に博物学者のそれであった。
「美しい、とは思いませんか」
バシュラールの声が、再び静寂を破った。ダストンは、その言葉に含まれる、ある種の甘さを感じ取り、わずかに眉をひそめた。美しい、という判断は、あまりに性急で、主観に過ぎる。
「判断するには、情報が不足しています」と、彼女は答えた。「まずは、その物理的特性を、可能な限り正確に記述すべきです。硬度、比重、糖度、酸度、含有成分……」
「おや」と、バシュラールは柔らかな笑みを浮かべた。「あなたは、この果実を、詩ではなく、論文としてお読みになるようだ」
彼は円卓に近づき、ダストンの向かい側に立った。そして、彼もまた、その果実――ダストンが「物体」と呼んだもの――に視線を落とした。彼の目には、それは、単なる物質の塊としては映らなかった。
この完璧な球形に、わずかな歪みを加えた形。それは、閉じた宇宙だ。内に、どれほどの甘美な夢を秘めていることか。この緋色は、夕暮れの空の色であり、燃え盛る暖炉の炎の色だ。この藍の染みは、夜の深淵からの呼び声に違いない。そして、この香り。これは、物質が我々に語りかける、秘密の言葉なのだ。土と金属の香り。それは、この果実が、大地の子でありながら、天上の星々の冷たさをも記憶している証左なのだ。
「この果実が我々に求めているのは、分析ではありません」と、バシュラールは、ほとんど夢見るような口調で言った。「対話です。そして、その最も深遠な対話は、火を通してこそ、可能になる」
「火、ですって?」ダストンの声に、鋭い響きが混じった。「なぜ、そう断定できるのですか。加熱という行為は、対象の本来の性質を不可逆的に変質させる、最も暴力的な介入の一つです。我々がまず知るべきは、この自然物が、介入なしに、ありのままで、どのような存在であるか、ということでしょう。そのためには、生で食すのが、最も合理的かつ穏当な方法です」
「合理的!」バシュラールは、その言葉を面白がるように繰り返した。「合理性とは、しばしば、我々の認識を貧しくする、認識論的な障害なのですよ、奥さん。生の果実は、まだ眠っている。それは、可能性の塊ではあるが、現実の詩ではない。火とは、物質を目覚めさせ、その魂を解放する、錬金術的な媒介者なのです。この果実を火にかけるとき、我々は、単に調理をするのではない。我々は、一つの夢を、現実へと昇華させるのです。立ち上る湯気、鍋の縁で沸き立つ泡、そして、部屋に満ちる、変容した香り……。それこそが、この果実との真の対話だ」
ダストンは、目の前の老人を、信じられないという目で見つめた。その言葉は、詩的ではあるかもしれないが、知的な誠実さを著しく欠いていた。それは、科学以前の、アニミズムや神秘主義の残滓であった。
「あなたの仰ることは、検証不可能な主観の表明に過ぎません」と、彼女は、言葉を選ぶように、しかし、きっぱりと言った。「『魂の解放』や『夢の昇華』といった比喩は、この果実の客観的理解には、何ら寄与しない。むしろ、それを妨げるものです。我々が確立すべきは、誰が、いつ、どこで試みても、同じ結果が得られる、客観的な知見です。そのためには、まず、この果実の『生の』状態を基準点として設定することが、論理的な第一歩であると、私は主張します」
二人の視線が、円卓の上で、火花を散らした。一方は、果実の内に詩と夢想を見つめ、火による変容のドラマを夢見る哲学者。もう一方は、果実を客観的な事実の集合体として捉え、ありのままの自然を記述しようとする科学史家。
異世界の、静かなる図書館で、二人の転生者は、こうして出会った。そして、目の前の、名もなき一つの果実――後に、この世界で「マールス」と呼ばれることになるそれ――の調理法を巡る、長く、そして極めて激しい知の闘争の火蓋は、静かに切って落とされたのであった。