プロローグ ‐始まりの日‐
全力で……
逃げて、逃げて……とにかく力の限り走った。死にたくなかった。一瞬でも躊躇えば、命を落とす予感があったから。膝は軋み、太ももは今にもはち切れそうなほどパンパンで。緊張感は、自分の呼吸を普段以上に荒々しくさせた。脇目も振らずに走り続け、たどり着いたその先は……
「終わりだなぁ。」
銀色の髪を携えたナイフの男が、にやにやと笑いながら近づいてくる。浮浪者のようなぼろぼろの身なりに反して、体幹は驚くほどにしっかりしていた。袋小路……もうどこにも、逃げ場などありはしなかった。
「どうして……なんでこんなことを!」
「なんでって、見ちまったんだからそりゃ消すしかねえよな。」
「そんな無茶苦茶な……!」
「気の毒とは思うが、恨むなら自分の運のなさだな。俺を恨むのはお門違いってやつだ。」
この会話で、一体どれくらい時間が稼げるだろう。少しでも話を引き延ばせれば、もしかしたら誰かが通りすがるかもしれない。その通りすがった人がまた誰かに、警察に知らせてくれるかもしれない。ほんの少しでいいんだ、少しだけでも、時間を……逃げ場を失った自分にとっては、そんないつくるとも分からない誰かだけが、唯一の心の支えだった。
「お前、一体何者なんだ?」
「それをお前に教えてやる義理はあるか。」
「どうせ死ぬかもしれないんだ。だったら最後に、それくらい教えてくれたっていいんじゃないか……?」
恐怖を気取られぬよう、精一杯余裕そうなふりをする。だが、自分でも少し声が上擦るのを感じる。
「確かに、一理ある。だが同時に、死ぬやつがそんなことを知ってどうする。」
「それは……!」
「?」
「……俺が満足する。」
「なるほど……ふっ、ふはは……ふははははははは!面白いやつだ、ここで殺すのは惜しい。分かった、冥土の土産ってやつだ。その度胸に免じて、俺たちの素性くらいは話してやらんでもない。」
よし、流れをつかんだ!あとは正体から目的に探りを入れれば、数分くらいの時間は……!
「なんてな。」
「え……?」
気がつくと、黒光りするブーツの影が眼前に迫っていた。それは真っ直ぐに、自分の身体をめがけ向ってきて。
「っ……!」
次の瞬間、重い一撃で体は吹き飛び、コンクリートの壁にその身を打ち付けた。
「あああああああ……うっ……!!」
「残念だったな。そうやって隙を見せて、仕事を完遂できなかった人間をごまんと見てきた。あの現場を見られたのは俺のミスだ、その尻拭いは自分できちんとしないとな。」
意識が遠のく、あまりの痛みに呼吸が困難になる。のたうちまわる自分に奴が近づいてくるのがわかるが、何かをしようという頭さえ回らない。ただはっきりとわかるのは、自分に迫りくる死の感覚だけで。
「さて、こいつで終いだ。」
自分の頭上で、奴がナイフを構えるのが目の端にうつる。
「……。」
ああ、これで終わるんだ……おれ……そうか…………
やだなあ……こんなとこで、終わりたくないなあ…………
俺は……まだ……
空を切る音と共に、迫りくるナイフ。怪しく光るその刃に向けて、気づくと自分は右手を差し出していた……と、刹那。
ガキンッッッ!!!!
「っ……!?」
「……?」
その空間には、何かが破裂したような硬質な金属音が響き渡る。我に返り、自分の身を確認する。
「生き……てる……?」
「まさか……そんなばかな……。」
男は額に汗をにじませ、自分から距離を取る。今、何が起きた。殺すのをやめた、のか。それにあの男、今……
ふと、右手に何かの質量を感じた。何の気なしに、その右手に目をやる。すると。
「なんだ……これ。」
自分の右手には、青く光り輝く……光の粉を撒き散らし、幻のように存在する剣のようなものが、確かに握られていた。