表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/18

4. 異変

 次の日。


 今日も出勤日だったが、曇り続きだった空が久々に晴れ渡り、清々しい気分で勤務に臨めた。それもあってか、仕事も定時までに終わり、いつもより少し早めに出社できた。


 今夜は気分もいいし、久々に外食でもしようかな。でも、うみが家で待っている。せっかくだし、うみとの時間を大切にしよう。ちょうど撮り貯めていたドラマがあったっけ。


 熟考の結果、うみとの時間を選んだ僕は、真っ直ぐ家に向かう。バスを降りて、昨日警察が取り調べを行っていた住宅街の駐車場を通り過ぎ、道路沿いの歩道を直進する。そういえば、捜査の方はどうなったんだろう。頭の片隅で、ふとそんなことを考えた。


 横断歩道を渡り、道路沿いの歩道を道なりに進むこと、およそ三分。ようやく自分の住まいがある地帯に入る。もう少しで自宅に着く。無意識に速くなる歩速。


 その先、電信柱の陰から、小さな人影が現れる。


 突然の出現に立ち止まる僕。この光景に、既視感を覚えた。


「何で……話しちゃったんですか」


 震える声で、その人は言った。


「なるべく話が広まらないうちに穏便に事を済ませたかった。なのに、他の人に──しかも警察に話してしまうなんて……何を考えているんですか、あなたは」


 内なる怒りを露わにして、同時に焦りを抑え込むようにして、言葉を続けた。

 見覚えのある容姿。聞き覚えのある声色。間違いない、あの日遭遇した女の子だ。


 何という偶然。奇跡。ちょうど訊きたいことが山ほどあった。あの日話していた話の詳細。そもそも何故、警察に情報を伝えたことを知っているのかどうか。でも、焦りは禁物だ。下手に質問を投げれば、情報が入り乱れて何も得られない結末になる。ここは一旦落ち着いて、彼女の質問に答えよう。


「……知らなかったんだ。君が話していたことを口外しちゃいけなかったということを」


 感情の昂ぶりをなんとか制御して、できるだけ冷静になるよう努力する。


「話しちゃったことは謝るよ。でも、だからこそ詳しく知りたいんだ。あんな曖昧な説明をされても、わかるわけがないじゃないか」


「……謝る? そんな軽い問題じゃないんですよ?」


 キッと睨んで、少女は言った。


「そもそも、不確定な情報を他人に話すこと自体が間違っているんですよ。余計に事態を混乱させるとは思わなかったんですか?」


「そ、それは……」


 ぐうの音も出なかった。これに関しては、僕に非がある。


「それに、曖昧な説明にしたのはわざとなんです。下手に全容を明かして、ある程度の均衡を保っていたあなたとシャパリュの関係性に、揺らぎを与えたくなかったから。少しでもあなたが態度に出したら、あの子を刺激しかねないし」


 シャパリュ……またこの言葉が出てきた。

 それに、僕とシャパリュの関係性とか言っていた。もしかして……。


「それに、全体を通してでは曖昧でも、伝えるべきことはちゃんと伝えたはずです。絶対に家から出さないで、と。それだけ守っていれば良かったことなのに……」


 そう言って、彼女は俯く。街頭に照らされて見えたその表情は、後悔と悲しみの感情が垣間見えた。


「……ねぇ」


 そんな状態で、彼女にこのことを問うのに抵抗があった。


 いや……これは言い訳に過ぎない。本当は怖かった。自分が今まで過ごしてきた日常がこの質問を機に一瞬で崩れ去ってしまいそうだったから。でも、知っておかないと前に進めない。もし事件と関わりがあるのなら、解決の糸口へと繋がるかもしれない。ならば、いつまでも現実を逃避している場合じゃないだろう。


 思わず詰まってしまった言葉を、強引に吐き出した。


「君の言っているシャパリュって……もしかしてうみのこと?」


「……うみ、というのは、あの子──スコティッシュフォールドの猫のことで間違いないですね?」


 僕は大きく頷く。

 すると少女は、少し戸惑う様子を見せて、やがて覚悟を決めたように口を開いた。


「……そうです。あなたの言っている『うみ』こそ、シャパリュです。ついでに打ち明けておくと、最近この辺りで発生している連続殺人事件は全て、あの子が引き起こしたものなんです」


 非常に残念なことですが、と苦しそうに彼女は付け加えた。


 ……今になって、訊かなければよかったと都合よく悔やんだ。


 いつまでも現実逃避するわけにはいかないと、調子に乗った過去の自分を心の底から恨んだ。同時に、真実を知った今でさえ、現実を受け入れられなかった。


 あのおとなしくて温厚なうみが、人を殺した? それも一人だけに留まらず、何人も殺したというのか。信じられない。そもそも、一回会っただけの少女の言葉だけで、うみの正体を疑えというのか? よく考えたら馬鹿馬鹿しい話だ。


 だけど、仮にうみがシャパリュであるなら、窓が開いていた理由も、脚を負傷していた理由も合点がいく。ここ最近で生まれていた全ての謎が、一気に明らかとなるのだ。


 でも……やっぱり信じられないよ。だって、うみとの日々は本物なわけだし。だけど、そうでないなら……。


「……混乱、してますよね。お気持ちは痛いほどわかります。わたしも、おんなじ思いをしたので」


 痛いほどわかる……だって?


 お前に何がわかるって言うんだよ。見ず知らずの人間が、僕とうみとの日常の、何を分かっているというんだ。


「……勝手なことを、言わないでくれるかな」


 そうだ、そもそも見ず知らずの人間の戯言を信用するのが間違っているんだ。こんなでたらめなことを真に受けていた僕が馬鹿だったんだ。ようやく、目が覚めた。


「君に何がわかるというんだ。人様の家庭事情に土足で踏み入って……でたらめなことを言うのも、大概にしてくれないかな」


「ち、違う……わたしはそんなつもりで言ったんじゃ……」


「とにかく、うみはシャパリュなんかじゃない。きっと君は勘違いをしているんだ。そもそも、うみの姿を直接見たわけでもないわけだしね」


 少女は、黙り込んでしまった。

 図星、ということだろうか。呆れて、溜め息を吐いた。


「とりあえず、変なことを言って他人を困らせるのはやめてくれ……それじゃあ」


 そう言い残して、僕は立ち尽くす少女の横を通り過ぎた。この時、小声で何か言っていたように感じたが、恐らく気のせいだろう。少なくとも、僕が気にするようなことじゃないのは確かだ。


 正直、言い過ぎだったような気もする。それに、まだ胸のしこりを取り除けたわけでもない。もっと詳しく話を聞く方法もあったんじゃないかと、冷静な自分がそう問いかけてきた。


 でも、許せなかったのだ。僕の家族を、うみを悪者扱いされているように感じて……それも、僕らのことを深く知らない部外者に。それに、信じたくなかったのかもしれない。うみが人殺しの怪物であるという可能性を。


 だが、それも過ぎたことだ。よく考えればわかることだ。うみの性格以前の問題としてあんなに小さな体躯をした猫が、一掻きで人を殺せるわけがない。強いて言うならウイルスによる死亡も考えられるが、そんなことニュースでは一ミリも取り上げられていない。昨日会った警察たちも、そんな風に思っている節はなかった。となると、やはり凶器による殺害としか考えられないが、やはり体躯的にうみが原因である可能性は無に等しい。


 やっぱり、あの子の言っていたことは間違っている。嘘を吐いた、とまでは言わないでおこう。もしかしたら、何かしらのショックのあまり幻覚を見たのかもしれないし。


 そんな考察を巡らせていたら、あっという間に自宅に到着した。


 ああ……せっかくさっきまで良い気分だったのに、さっきの出来事で全て台無しになった。今日は早めに寝よう。いや、今日はうみとの時間を作るんだっけ。でも、何だかそういう気分にはなれない。うみを一目見れば、変わるだろうか。


 ドアの鍵を開け、家の中に入る。そして、いつものように、返ってくるはずのない挨拶をする。


「ただいまぁ」


 すると、うみが珍しく居間から玄関へと駆け寄ってくる。嬉しさと愛おしさがこみあげてくる。


「ただいま、うみ。すぐにご飯を用意するからね」


 そう言って、頭を撫でようとしたその時。


『あなたの言っているうみこそ、シャパリュです』

『ついでに打ち明けておくと、最近この辺りで発生している連続殺人事件は全て、あの子が引き起こしたものなんです』


 少女の打ち明けた言葉が脳内で蘇ってくる。その瞬間、うみの頭に向かっていた手が止まり、小刻みに震え出した。


 何で、急に震えているんだ? いつものことじゃないか。もしかして、否定したばかりの説を今更蒸し返して、日和ってるんじゃないよな。


 僕の異常を察知してか、うみもビクッと身体を震わせて後ろに下がった。馬鹿、怖がってるじゃないか。


「だ、大丈夫だよ、うみ」


 そうだ、いつもと変わらない。


「大丈夫だから。ほら、おいで」


 いつもと変わらないことじゃないか。だから震えるな。


「そっか。ご飯食べたいのか? じゃあ急いで支度しようね」


 ……うみの表情に、変化が生じた。


「ごめんね。僕、なんかおかしくて。でも、本当に大丈夫だから」


 毛が逆立って、威嚇の体制になる。本気で怖がっているじゃないか。


「だから、そんな威嚇しないで……大丈夫だから!」


 感情が昂ってか、声が裏返って声量が大きくなってしまう。


 それが、起点となってしまった。


「うぐるぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 僕の大声に驚いたうみが一歩分跳ねて後退し、甲高い鳴き声を上げたと同時に、その小さな身体に異変が起き始める。毛量が爆発的に増え、四本の脚がメキメキと音を立てて伸び始め、胴体と頭も膨張し始める。そのまま痛々しい音を立てながら、パーツそれぞれがみるみるうちに巨大化し、尻尾も伸び始める。


 居間へと続く廊下の壁も、うみの巨大化によりめり込み、隣接する部屋へと貫通。天井にも大きなクレーターが生じる。まるで『不思議の国のアリス』の冒頭を観ているかのような、そんな不思議な光景が広がっていた。


 でも、雰囲気は全然メルヘンチックじゃない。

 とりあえず、家から抜け出そう。そう思い至り、僕はドアを思い切り開く。


「ふしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 家を出たのと同時に、すぐ後ろで何かが叩き付けられる。振り向くと、うみの巨大化した右の前脚が、僕のいた場所目がけて振り下ろされ、玄関に食い込んでいた。


「しゃぁっ! しゃあっ!」


 僕を捕らえようとしてか、うみは何度も前脚を振り下ろした。繰り返していく度に徐々に前へと進み、やがてドアの外まで到達する。身の危険を察知し、すぐにドアから距離を取った。


 今は急な巨大化で身体が嵌っているから安全だが、それも時間の問題だ。もし、この状態のうみが家から出たら、すぐに捕って喰われるかもしれない。最悪、二次被害に繋がることもあり得る。何とかしないと……でも、どうやって?


 そうこうしているうちに、うみは持ち前の柔軟性を活かして、家から脱しようと試みていた。両前脚をドアの外に出し、次いで頭も抜け出し、徐々に胴体が出てくる。


 やがて、巨体の強引な脱出に圧迫され、耐え切れなくなったドアが……。


 メキメキと唸ってすぐに、大破した。


 絶望のあまり、目を大きく見開いた。そうなれば、うみの脱出は容易いものとなる。穴が広がった入口から鰻のようにするすると飛び出し、窮屈から解放されたと言わんばかりに伸びをする……終わりの始まりを体現したかのようだ。


「う、うわあああああああああああ!」


 思わず悲鳴を上げてしまい、振り向いたうみと目が合ってしまう。ギラリと光る鋭い眼光。長く太い爪を有した前脚。獲物を喰らおうと心待ちにしている、純白の牙。そして、いつの間に増えた二本の長い尾。そこに、愛くるしいうみの面影はない。目に映っているのは、毛色だけが共通した巨大な怪物。つい腰が抜けてしまう。


「ぐるるるるるるるるるるるるるるるうる」


 喉を鳴らしながら、ゆっくりと近づく怪物。まるで、少しでも動いたら噛みつかれそうな、締まった緊張感。固唾を呑む音が喉にはっきりと伝わる。


 逃げないと……でも、身体が震えて上手く動かない。それに、逃げるってどこへ? この巨躯に猫特有の俊敏性が備わった怪物に、逃げ切れるわけがない。最早、どこかに隠れる猶予もない。助けを呼んでも、返り討ちにされるのがオチだろう。


 まさに、絶体絶命だ。


「きしゃああああああああああああ」


 怪物が咆哮と共に大きな口を開けた。喰われる……!


 と思った、その時だった。


「お願い! やめてっ!」


 叫び声と同時に人影が颯爽と現れ、手を広げて庇うように立つ。

 長い黒髪で隠れた小さな背中。間違いない。あの子だ。


「お願い……お願いだから、もう誰も殺さないで。あなたは……そんな子じゃないでしょう?」


 怪物は口を閉ざし、若干怯んだように後退する。


「物を傷つけることすら躊躇しちゃうような、優しい子だったでしょ? だから、もうこんなことやめよう? あなたもこんなこと望んでいないでしょ?」


 その巨躯が、微かに委縮した。


「わたしたちも、あなたを怒らせることを望んでいない。だから、こんなことはやめて、一緒に──」


「きしゃああああああああああああ」


 あと少しのところだった。


 落ち着きを取り戻しつつあった怪物が、急に態度を一変させ、少女に向かって咆えた。けど、それは怒りによるものとは少し違う。彼女に怯えた、という表現の方が適切なのかもしれない。


 その姿は、怪物に変身する直前の、怯えたうみの姿と当てはまった。


 怪物は──うみは、自宅の屋根の上へ逃げるように飛び乗る。そして、一度威嚇するように鳴いたかと思うと、また隣、隣と一軒家の屋根に飛び移りながら、向こうへと行ってしまった。一瞬の沈黙が流れたと感じた直後、騒ぎを聞きつけた近所の人たちが続々と集まってくる。


「どうして……どうしてなの……」


 僕の目の前で、少女は涙声で呟く。


「どうしてなの? アッシュ……」


 彼女の問いは、誰にも届くことはなく、冬の星空の中へと消え去った。


 その後ろで、僕は立ち上がれずにいる。今までの出来事を信じられなくて、信じたくなくて、何かの悪夢であれと、呆然とする頭の片隅で願っていた。


 時間と、冬の夜風のみが、僕らの周囲を流れていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ