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17. 責任

 モニター越しでは、死闘が繰り広げられていた。


 交差する、嘉部井さんの号令とシャパリュの咆哮。


 雄叫びを上げて突進する防弾盾部隊。


 怪猫はそれをひらりと躱し、人間を噛んで掴み、投げ飛ばす。


 肉塊の投擲を受ける戦士たち。しかし、彼らも引かない。


 脱走しようとする怪物に、捕獲網を発射し、行く手を阻む。


 これ以上、網の電流を喰らったらおしまいだ。そう判断した怪猫は後退する。


 そして、すぐさま堕とされる閃光弾。


 再び、シャパリュは視力を失う。しかし、巨大化を解かない。


 次いで来る捕獲網の投下も、聴力と勘を活かして回避する。


 人間と怪物との、一進一退の泥仕合。


 多くの命が血しぶきとなって散った。緑の絨毯に鮮血が降りかかる。


 人側も、打てる手が限られてきた。逆に相手側も、かなり弱っていた。


 どちらかが油断したら、そこで勝負が決まる。


 そんな切迫した空気感の中、両者は睨み合う。


 じりじりと、互いに滲み寄る。


 そして、シャパリュの雄叫びを皮切りに最後の一戦が交わろうとした。


 その時だった。


 一台のパトカーが、シャパリュの巨体に衝突した。周囲の人たちは皆、驚きの色を顔に浮かべた。


 シャパリュは、そのまま爆走する車に押し出され、背後にある柵諸共、落ちていった。


 パトカーと共に落ちた先は、底が泥濘の広大な水場。

 ラムサール条約にも登録されるほど著名で、非常に大きな干潟だった。





「ありがとうございます、光田さん」


 シートベルトを外し、僕は下車する。運転席の光田さんは、礼に対して片手を上げるのみで、すぐに項垂れた。あまりの爆走に酔ったのだろう。


 真理ちゃんが下車するのを確認し、僕はシャパリュと──うみと向き合う。アイツは苦手な水で全身を濡らすだけに留まらず、泥濘に足を取られて動けなくなっていた。そういえば、コイツ名前が水関連なのに、死ぬほど水が嫌いだったっけ、と昔を懐かしんだ。


「やあ、うみ」


 水場に足を捕らわれたうみに、僕は優しく声をかける。


 泥濘だけでなく車の衝突による激痛、並びにさっきまでの激闘で生じた傷や疲労も相まって、もがくのみで中々起き上がらない。唸り声も、勢いが弱まっている。普通の猫だった時に鳴らしていた唸り声に戻りつつあった。


「こうやって面と向かって話すのは久しぶりだね。元気にしてた……ってやんちゃしてたんだったよね。そりゃあ元気が有り余ってるか」


 そう言って、僕は笑ってみせた。


 うみは僕を見つけるや否や、驚くように目を丸くする。そして、横に転がってやっとのことで足を地に着き、跳びかかろうと体勢を低くする。


 が、その過程の最中で、必死そうに顎を地面に付けた。


 そして、じたばたともがき始める。まるで己の本性に抗うように、理性と仮初めの自我とで争い合うかのように、無意識に上がる頭を上げまいと必死に堪えていた。


 僕のよく知るうみと、シャパリュとしてのうみ。

 この二つの側面が分裂して、対立しているのか。


 そんなうみにやってあげられること。それは一つしかない。


「凄い傷だね……痛かっただろう? 苦しかっただろう? 人を殺したのも、本能じゃないんだろ? あくまで生存本能と、胸の空白を埋めるためにやってたことだろう? 分かっているよ」


 恐る恐る、僕はうみに近づいた。


 あちこちに飛び散る、水飛沫や泥を全身で受け止め。


 必死に抵抗し、格闘するうみに歩み寄り。


 ちょうど目の前に来るその大きな額を──優しく撫でた。


 うみの巨体が、ぴたりと静止する。


「……もう、大丈夫だよ」


 今度は、失敗しない。


 玄関でも、豪邸前でも、自分の愚かさゆえにかけられなかった言葉を。

 僕は、うみに伝えた。


「……安心して。ここに僕がいるから」


 うみは、唸り声をやめ……沈黙した。

 己の抑制のため暴走していた巨体も、微塵も動かない。


 そうして幾ばくかの時間が経った後、やがて両耳を下げて、泥濘に腰を下ろした。波紋が幾度となく広がっていた水面が、やがて凪いだ。


 何の拒否もしないことが分かり、もう一度その大きな頭を優しく撫でる。かつて家でそうしたように、棉に触れる要領で、撫でた。


 ゴロゴロと、うみは喉を鳴らす。大きいけれど、中身はかつて共に過ごした時と何ら変わらない。その事実を実感し、緊迫した心が少しだけ緩んだ。


『……ごめんなさい』


 頭の奥底で、そんな子供めいた声が響いた。そんな気がした。


『殺したくはなかったの。頭がぼーっとして、それで……ごめんなさい』


 猫は喋らない。シャパリュにテレパシー能力があるという情報も知らない。

 だから、この声は幻聴なのだろう。いや、この際幻聴でも構わない。


 僕は頭を撫で続けながら、優しく言った。


「いいんだ。お前の罪は、僕が一緒に背負ってあげる。それが……家族なんだから」


『……ごめんなさい。ごめんなさい……』 


 幻聴は、段々と涙声に変わっていく。


 一応、うみの目元を見てみても、やっぱり涙は浮かべていない。ただ目を瞑っているだけだった。でも、それでいい。それでいいんだ。


 僕は後ろを振り向き、除け者みたいになっている真理ちゃんの方を見た。


「いいのかい? うみに……じゃなかった。アッシュに挨拶しなくて」


 真理ちゃんは、手を後ろに組みながら、はにかんだ。


「だって悪いですもん。今はふたりの時間でしょう? わたしが間に割って入っちゃったら、邪魔でしょうし……」


「遠慮しているの? そっちの方がアッシュに悪いと思うよ」


 僕は、真理ちゃんに微笑みかける。


「自分に嘘は吐かない、でしょう?」


 そして、いつしか言ったその言葉を、彼女にもう一度伝える。

 うみも片目を開いて、真理ちゃんの方を見つめていた。


 真理ちゃんは目を見開いたが、やがて目の色を変えてうみのもとへと歩み寄る。微かな水飛沫と波紋が、僕の足首に伝わってくる。


 入れ替わるようにして、僕はうみの身体から離れる。今度は真理ちゃんとアッシュ、ふたりの時間だ。


「……アッシュ」


 少女の震える声が、アッシュにかかる。


「もう、大丈夫なの……? 暴れたりしない? 体調とかも、大丈夫?」


 不安と、内に残る恐怖が入り混じった声だった。

 その問いに答えるように、アッシュは目を閉じる。


 ごろごろ、と喉奥から鳴る音。その意図はすぐに分かった。飼い主が近くにいる時、安心や笑顔を表す仕草だ。


 当然、その合図が意味するものを真理ちゃんは理解していた。


 その証拠として、歯止めが効かなくなったように、彼女の両目から大粒の涙が流れ始めた。


「アッシュうぅぅぅぅ……」


 走って、その灰色の毛の中に飛び込んだ。

 そこに顔を埋めたまま、彼女は啜り泣いた。


「アッシュのばかぁ! わたしは絶対許さないんだからぁ! わたしがどんなに辛い思いをしてきたのか…………うんうん、わかってるっ。お母さんとお父さんのこと、怒ってるけど怒ってない。ほんとうに悪いのはあの人…………うんうん、だいじょうぶ。だからもうあやまらないで、ね?」


 一通り、自分の想いを伝え終えた真理ちゃんは、うみの身体から離れて僕の横に立った。途中、何かと会話しているかのようだったけど、恐らく気のせいだろう。


 真理ちゃんがアッシュを相手している時だけ年相応の子供に戻る様子を見て、何だか胸にくるものがあった。本当にこの子はアッシュのことが好きなことが窺える。




 ……さて、もうそろそろ時間だ。


 そうだ、この時が来ることは分かっていた。覚悟していた。うみがシャパリュとなった時から、ずっと。それなのに、今ここで逃げたら、意味がないし、また犠牲者が出てしまうかもしれない。

だから、これで終わりにしないと。


「真理ちゃん、麻酔銃を頂戴」


「……はい」


 僕が手を差し伸ばすと、真理ちゃんは鞄から一丁の拳銃を取り出し、手渡した。麻酔銃といっても、従来のものとは効力が比べ物にならない。一度その身に刺せば、死に至る。つまり、この銃の発射はうみとの別れを意味していた。


「でも、いいんですか?」


 僕の手に拳銃が渡った途端、真理ちゃんが問うた。


「無理して武弘さんが撃つ必要はないんですよ。何ならわたしが撃っても──」


「いや、大丈夫だよ」


 僕は心配をかけないようにと、彼女に微笑みかけた。


「子供に銃の感触を覚えさせるわけにはいかないしね」


 そう言って、僕は小さく息を吸った。

 うみも、今からすることを理解してか、おもむろに目を閉じた。


「……ありがとう、うみ」


 その額に、銃口を向けた。


「いつまでも……大好きだよ」


 最後にそう言い残して、引き金に指を添えた。


 そして…………。






「……………………」


「……武弘さん?」


 ……駄目だ。


 ……おかしいな。


 手の震えが、止まらない。


 僕にはやらなきゃならないことがあるのに。


 今すぐ、この引き金を引かなきゃいけないのに。


 僕の中の弱い部分が、それを引き留めてしまう。


 まだ殺したくないと、駄々をこねてる。


 そういえば、そうだよな。


 僕はあの時から。


 真理ちゃんに「気持ちを押し殺さないで」と言われたあの時から。


 いや、本当はもっと前から、覚悟が決められていなかったんだ。


 僕は、弱い人間だ。


 大人と呼ばれるに値しない、臆病で脆弱な人間だ。


 だから、決意一つも、覚悟一つも、定められない。


 今だって、うみを待たせているのに。


 引き金を引けない……引けない!


 頼むから、落ち着いてくれ。


 手の震え、止まってくれ。


 僕にはやらなきゃいけないことがあるんだ。


 うみを殺す……否、その呪縛から救ってあげなきゃいけないんだ。


 それが、僕に唯一できる、ケジメの取り方なのだから。


 だから、お願い。


 止まってくれ。


 僕に覚悟を、決意を、与えてくれ。


 いま、この手でうみを──。






「……落ち着いてください。武弘さん」


「…………っ!」


 我に、返った。

 心臓がうるさい。息が荒い。

 手の震えは、相変わらず止まらない。


「自分一人で抱え込んじゃうから駄目なんですよ。武弘さんも同じ理由で、わたしのこと心配してくれましたよね」


 そう微笑んで、真理ちゃんは僕の背中に手を添える。念が込められていくような、一人じゃないと実感させてくれるかのような、そんな感じがした。


「わたしが、ついています」


「……………………っ」


「だって、そうしないと、武弘さんが武弘さんじゃないかのように感じてしまいますから」


 そう言って、真理ちゃんは笑った。

 少しだけ、覚悟が確実なものとなった気がした。


「……ありがとう」


 僕は、震える手を、もう片方の手で押さえた。

 うみは律儀に、目を瞑ったままでいてくれた。ああ、最後まで本当にありがとう。


 今度こそ、終わらせるから。


「ごめんね、待たせちゃったね」

 震える身体を落ち着かせようと、深呼吸する。





「……ありがとう、うみ」





 パン、と凪いだ干潟に響く銃声。


 額にスポイト型の弾を刺したうみは、みるみるうちに縮小化し、やがて水の中に埋もれてしまうかのような、もとの小さな体に戻った。


 その小さな身体に僕は歩み寄り、両手で触れ、持ち上げる。


 全身から水が、滝のように滴る。あんなに水嫌いだった癖に、水を振り払うことはしない。

 あんなに柔かった身体は、徐々に硬くなっていく。

 温もりも完全に消え去り、冷たくなってしまった。


 あんなに元気に動き回っていたのに、今は微塵も動かない。


 残っていた片目も、開くことはなかった。


 顔を覆い、啜り泣く真理ちゃん。

 その横で、空を仰いで、寒風を浴びながら、僕は呟いた。


「……安らかに眠れ、うみ」


 段々とオレンジがかっていく空に向かって、そう言った。

 足元で広がる波紋が、僕の言葉に答えた。そんな気がした。

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