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10. 怪猫

 僕たちが到着する頃には、現場は騒然としていた。


 割かれ、砕かれ、崩された住宅の数々。天井を凹ませた乗用車。逃げまとう人々。所々紅に染まったアスファルト。そして、住宅街中央に位置する豪邸の屋根上で陣取る、巨大な猫の姿。まさにここ一帯は阿鼻叫喚、地獄絵図と化していた。


 駐車場には、パトカーが何台か停まっていた。騒ぎを聞きつけて出動したものの、そこにいたのは映画でしか目にしたことがないであろう怪物。どう対処すべきかあぐねているのだろう。


 眞柴研究所一行の車は、住宅街沿いの道路に縦並びで停車した。


「こいつは酷い有様だ……」


 僕の口から、そんな言葉が零れ落ちる。


 想像以上に悲惨な光景だった。家屋が崩れ、子供が泣き叫び、みんな絶望の表情を浮かべていた。これがうみの引き起こした惨状だと考えると、思わず呆然としてしまう。ショックのあまり、怒りも悲しみも沸き上がってこなかった。


 下車した研究員は、屋根上のうみの様子を見て、困惑した様子を見せた。


「これはまずいですね。既に中央に陣取っている。しかし、逆にこれは好機かもしれません」


「ああ。これで、誘導する手間が省けるというもの」


 研究員の憶測に、軽バンから下車してきた博士が答える。その周囲では、捕獲網や麻酔銃を手にした他の研究員たちがぞろぞろと待機していた。


 背後に振り返り、博士は研究員一同に向かって叫んだ。


「作戦は一部省略した上で実行に移る! 西に待機している研究員にも伝達しろ! 捕獲班は至急配置につけ! 麻酔班も指定の位置で待機しろ!」


「「はい!」」


 博士の号令のもと、研究員たちが一斉に動き始める。スマホを取り出し通話する人。車に必要な物を取りに行く人。そして、大きな巻き取り機に収まった網を押して指定の場所に向かう人。それぞれの役割を果たすべく、右往左往に人が行き来していた。


「博士、わたしたちはどうすれば……」


 恐る恐る問う真理ちゃんに、博士は首を振った。


「君はここで待機だ。車内に隠れて、現場の様子を見つつ、私の指示を待て」


「そんな! わたしにもできることが──」


「もう一度言う。ここで待機だ。良いな?」


 語気の強まった博士の念押し。ショックのあまりか目を見開いた真理ちゃんは、やがて怯んだように引き下がった。


「……はい。了解しました」


 彼女の返答を聞き、「宜しい」と博士は頷く。


「言っておくが、君もだぞ? えっと、たしか……朝井君、だったな? 君も真理君と一緒に車内で待機だ」


「はい、承知しています」


「それに君は大人なんだ。真理君の面倒をしっかりと見てやれ。ではな」


 言い終わるより先に、博士は現場へと向かっていってしまった。去り際に手をひらひらと雑に振りながら。


 取り残された、僕と真理ちゃん。正確には、監視役として二名の研究員が残っていたが、それでも手持ち無沙汰なのは僕らだけだった。とりあえず車内に戻ろうと、真理ちゃんに促そうとする。


 すると、彼女は突然車のバックドアへと向かい、それを開き始める。そこから何やらケースを取り出し、手慣れた動作で蓋を開けた。


「えっと……何をしているの?」


 恐る恐る僕は問うた。真理ちゃんが中から取り出したのは、一台の小型ドローンだった。白い機体に四つのプロペラが付いている。


「現場確認の事前準備です。モニターがない場合、これでしか撮影できないので」


 そう言って、真理ちゃんはドローンを作動させ、宙に飛ばせた。


 ドローンは上空に浮かび上がったかと思うと、操縦もなしにうみのいる方角へと飛んで行った。まさかの自動運転か。眞柴研究所の意外な技術力に、少しだけ感心する。


「さあ、車に戻りましょう。でないと、博士に怒られてしまいます」


 ドローンの行く末を見守って、彼女はそう微笑みかける。


 しかし、その表情にはぎこちなさが感じられる。博士の指示に納得がいっていないのだろう。それか、アッシュのことが心配で仕方ないのか。どちらにしろ、内に秘めた感情を出すまいと必死に押し殺している様子が窺える。彼女の、いつもの強がりだった。


 今の僕には、彼女に寄り添えるほどの自信がない。生半可な言葉をかけたら、返ってこの子を傷つけてしまうかもしれないから。


 だけど、せめて共通の悲しみを持つ者として、彼女の隣にいてあげないと。


 そうじゃないと、この子は全てを投げ捨ててしまいそうだから。そんな予感がしたから。


「……うん、そうだね。入ろうか」


 だから僕は、少し悩んだ末に、彼女に巣食う負の感情に気づかないふりをした。


 でも見て見ぬふりはしない。無かったことにはしない。異変を察知したら、すぐにでもこの子を助けられるようにしないと。


 大人として、責任を持たないと。


 そう自分の中で決意を固めながら、僕は真理ちゃんの後を追うように車内に入った。


 首に触れる冷たい風と、不安げに映る彼女の小さな背中が、やけに印象に残った。







 車内に入って間もなく、真理ちゃんのスマホにドローンの撮影した映像が映し出される。


 撮影地点は、恐らく住宅街中央上空。豪邸の屋根上をうろつきながら、うみは下方を睨め回している。それを取り囲むように、巻き取り機を掴んだ研究員たちが数十名配置についていた。そこから数メートル離れたところに、麻酔班と思しき研究員たちが円を描くように分散して待機している。また、あちこちに動く人影も見られ、どうやら余った人員で逃げ遅れた人を誘導しているようだった。


『観念しろ、化け猫! お前は完全に包囲されている!』


 画面越しで博士の声がでかでかと発せられる。メガホンを使っているのだろうか。たしか、シャパリュは刺激に敏感だと説明していたのに、あんなに大きな音を出して大丈夫なのだろうか?


「恐らく、言いたいだけでしょうね……」


 無表情で、だけど呆れたような声色で真理ちゃんは言った。ああ、やっぱりか。


『我々は今、最新鋭の武器を以てお前を捕獲する! だが、痛い目に遭うのはお前とて嫌だろう? 故に大人しく捕まってくれたら、手荒な真似はしないと約束しよう! さあ、降参するのだ!』


 博士はそう自信ありげに語っているが、そもそもうみに人間の言葉ってわかるのだろうか? 知能が高いって言っていたから、大体の意味は汲み取れるのだろうか。


『さあ、どうした? これが最後の忠告だ。もしこの忠告の後にその長い爪を振りかざそうものなら、我々への宣戦布告と捉え、容赦なくお前に審判を下す! さあ! 大人しく観念しろ!』


 博士の最後の雄叫び。ハウリングを起こしてまで叫んだその声は、うみには届かなかった。


『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 望むところだ、と言わんばかりに咆哮するうみ。さながらギャラルホルンのような開戦の狼煙を上げて、その左の前脚を空高く掲げた。まごうことなく戦闘態勢だ。


『総員、後退!』


 博士の号令で、研究員たちが一斉に後方へと走る。そこから間もなくして前脚が叩き付けられ、高く土埃が昇った。爆発音のような轟音と、カラカラと転がる土砂の音が画面越しに伝わってくる。


 次いで、耳を劈くハウリングがまた響き渡る。博士生存の証だ。


『手を出したな⁉ では致し方あるまい! 捕獲班、投網準備!』


 すると、豪邸を囲むように待機していた捕獲班が、巻き取り機を動かし始めた。土埃の上がった箇所にも人影が映り、全員準備を整えていた。一方のうみは、思い切り身体を捻って前脚を下ろしたことで、一瞬ながら隙が生じていた。


『投網、発射!』


 博士の合図と同時に、捕獲網が巻き取り機から思い切り『発射』される。


 うみに向かって空高く伸びていく網は、頂点でバッと開き、うみの巨体に引っかかる。それが数ヵ所から、一斉に飛び出し、うみの全身にまんべんなく巻き付いた。


『ぐるぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!』


 網が巻き付いた途端、うみは唸り、悶え始める。


 小刻みに痙攣する巨体。たまに見え隠れする電流。あの網には電気が通っているのか。


 網が巻き付いたことを確認してか、捕獲班は後方へと巻き上げ機を引っ張り始める。すると、その圧迫によってうみは屋根上に屈せられる。


『よし、今だ! 麻酔班、準備!』


 再び響く博士の咆哮。それに応じて、外側で待機していた麻酔班たちが一斉に中央へと集まり始めた。彼らの抱えていた武器は、銃というより一種の砲台に似ていた。


『麻酔班、撃てぃ!』


 絶叫と共にあちこちで鳴り響く発射音。ミサイルに類似した巨大な針は白煙を吹いて直進し、うみの身体に突き刺さった。


『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 うみは、苦痛の込めた叫び声を上げる。そこから休む間もなく一本、また一本と麻酔が突き刺さり、その悲鳴も途切れ途切れとなる。


「やったのか……?」


 思わず僕は声を上げる。


 何本も麻酔が刺さったうみは、激痛と眠気によって、ドスンと音を立てて網の中で項垂れた。宣戦布告から、およそ五分弱ほど。実に決着が早く、呆気ない結末だった。


 その後、しばらくして博士の声がぼんやりと聞こえてきたが、ドローンから距離が遠くて上手く聞き取れなかった。しかし、その声がした直後に、ずらずらと研究員たちが豪邸の方へと近づいていっていた。うみが昏睡状態にあることを確認できたのかもしれない。ということは、本当に作戦成功した、という認識で間違いのか?


 けれど、隣に座る真理ちゃんは、ただ黙って画面を見つめていた。


 喜びもせず悲しみもせず、ただじっと、画面を見つめている。

 まるで、何か懸念点があるかのように。


 その表情から、何故か嫌な予感がした。思わず訊いてしまう。


「……どうしたの?」


「……違和感が、あるんです」


 淡々と、だけど内心焦るように彼女は答えた。


「シャパリュは、頭がキレるんです。以前、遭遇した際も身を翻してわたしたちの計画を悉く潰していったんです。それなのに、こんなにも呆気なく捕らえられてしまうだなんて……あまりにもおかしすぎます」


 それに、と震える声で続ける。


「項垂れる時の挙動が、少し変だったんです。捕獲網の電流、そして麻酔で本来なら余裕がないはずなのに、倒れる時の動作があまりにも悠長だったんです。麻酔の効き目が悪かった可能性もありますが、あるいは……」


 言葉を濁して、間もなく何かに気づいたように真理ちゃんはハッとする。


 そして、柄になくかなり慌てた様子で僕を見た。


「お願いします! すぐに携帯を貸してください!」


 そう言って表情を引きつらせる。何が何だか分からないが、緊急事態であることは明白だった。すぐさまポケットからスマホを取り出し、真理ちゃんに手渡す。彼女はそれを受け取ると、震える指を素早く動かして画面をタップし、誰かに電話をかけ始めた。


「お願い……繋がって……」


 囁くように懇願する真理ちゃん。やがて受話口からしわがれた声が聞こえたかと思うと、彼女は不意に叫んだ。


「今すぐそこから離れてください! まだ終わっていません!」


 その瞬間、だった。


『うわあああああああああああああああああ!』


 真理ちゃんのスマホから、悲鳴が届いてくる。


 驚き、画面に目を移す。そこでは、力尽きて下に降ろされたはずのうみが、網の中で頭部を起こしていた。


 目を凝らしてよく見てみると、豪邸の上に滲んだ赤い液体と人間と思しき物体が横たわっているのが見える。あれってもしかして……屋根上に回収に向かった人たちか?


『きしゃああああああああああああああああ!』

『うわあああああああああああああああああ!』


 怒り吼えるうみ。連鎖する人々の悲鳴。


 勝利を噛みしめていた希望の空間が、再び阿鼻地獄へと変貌する。画面の向こうで一つ、また一つと、悲鳴が断末魔と共に途絶え、憩いの場だった住宅街は鮮血と瓦礫の白で染まっていった。遠目でも分かる。うみの爪と口元が赤く塗られ、恍惚に浸るように笑みを浮かべるさまが、僕の目ではっきりと見えた。


 これが、シャパリュ。

 これが、うみの本性。

 これが、うみの本当の姿。


 スプラッター映画でしか観ることがないであろう、赤で構築された世界。その全容を、僕は現場から離れた車内で、ただ呆然と眺めることしかできなかった。自分がいれば何とかできただろうか、という悔恨と、現場にいたら同様に殺されていたかもしれない、という恐怖。それらが支配する脳内は、自分の身体がこの世のものでないと錯覚するぐらい、遠退いていく感覚に陥ってしまう。


「あの時と……同じだ……」


 不意に零れる真理ちゃんの呟き。その怖いぐらい冷めた声色を聞き、我に返った。


 真理ちゃんの身体は、小刻みに震えていた。耳に当てていた電話は手ごと座席の上に落ちて、通話口から不通音を流し続けていた。俯いたことで前髪に薄らと隠れた瞳からは、生気を感じられない。ただ呆然と、一点のみを見つめていた。


「また、わたしだけ、助かっちゃう……」


「……真理ちゃん?」


 低く、不安定な声。まるで彼女が彼女じゃないように思えて、僕は声をかけた。

 真理ちゃんは、何も答えなかった。


 しばらく車内に沈黙が流れる。

 そして、不意に。


 真理ちゃんは、思い切りドアを開けて車を飛び出した。


「ちょっ! 真理ちゃん!」


 突然の事態に、声を上げることしかできなかった。当然、呼び止めることなど叶わない。


 このままだと危険だ。博士の指示を破ることになるし、何より真理ちゃんが危ない。


 僕も、車を飛び出した。外に出ると、車の近くで待機していた研究員二人が慌てた素振りを見せていた。走っていく真理ちゃんを目撃しての反応だろう。


「大丈夫です。僕が後を追いかけます。すぐに戻りますから!」


 そう言い残して、僕は走った。あの子はうみのもとへ向かった。それだけは間違いようがないことだ。


 僕は走った。途中で研究員何名かが反対方向へと逃げるところに遭遇したが、それをかき分けるように僕は直進した。うみのいる方へと近づく度に、血の生臭さが濃くなっていくのが分かる。ここまで濃い血の匂いは初めてだ。当然だけど。多少吐き気を覚えながらも、僕はひたすら血生臭さのする方へと向かっていった。


 血の匂いが一層濃くなった。逃げ纏う研究員の数が増えた。うみの声と、断末魔が大きくなってきた。


 もうすぐ現場、否、戦場だ。そう確信した、その時だった。


「駄目です! そっちに行ったら! 戻って下さい!」


 左側、住宅街を抜けた方から、声をかけられる。


 明朗で、はっきりとして、誰であろうと放っておけなそうな口ぶり。


 聞き覚えがあるけど、本来ここで耳にするはずのない、そんな若い男の声。


「何で……光田さんがここに?」


 つい立ち止まってしまう。声のした方を振り向くと、案の定そこには光田さんがいた。


「あなたは……朝井さんじゃないですか! どうしてこんなところに。昨日お会いした町から大分離れていますよね、ここ」


 彼も驚きを隠せない様子でそう言ったが、やがてかぶりを振った。


「いや、そんなことよりも、現在ここは立ち入り禁止です。先程から、謎の団体が無断で交戦していますが、本来ここに立ち入っちゃいけないんです。何の目的かは存じ上げませんが、今すぐここから離れてください」


 行く手を阻むように、光田さんは僕の前に立ち塞がった。横を見ると、ぞろぞろと他の警察も走って来ていた。中には、先日見た光田さんの上司らしき男も混じっていた。くそっ、今はこんなところで道草を食ってる場合じゃないのに。


「お願いします、通してください! このままだと真理ちゃんが……!」


「真理ちゃん……というのは娘さんですか? いくら身内の方があそこにいても、通すわけにはいきません。真理さんのことは、我々に任せてください」


「駄目です……あなたがたが太刀打ちできる相手じゃないんです! お願いです、通してください!」


 無理矢理にでも通ろうとする。


 しかし、そんな僕の腕を、絶対に通すまいと光田さんががっしりと掴んだ。

 そして羽交い絞めにされる。最悪の、展開だ。


「離してください……! もうこれ以上、被害者を出すわけには……!」


「それは私も同じ思いです。ここで失うかもしれない命を、見逃すわけにはいきません。どうか、ご理解ください!」


「いやです……離して……」


 両脇に通される腕を振り解こうと、僕は必死でもがく。


 あと少し長引いたら、光田さんから手刀を喰らって、気絶させられていたであろう。


 が、その時だった。


「ぐるぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 うみの咆哮が、住宅街の中心部から響き渡った。


 驚いて、呆然とそちらに目を向ける警察官たち。無論、光田さんも例外じゃなかった。チャンスだと、僕は思った。腕の力が緩んだ僅かな隙を狙い、それを思い切り振り払って、全速力で走っていった。


「あ! 駄目です! 朝井さん! 直ちに戻りなさい!」


 彼の忠告を無視し、僕は走った。


 ごめんなさい。本当はあなたの忠告を無視したくはなかった。だけど、今は一刻を争う事態。仕方のないことなんだ。


 すぐ後方で、話し声が聞こえてくる。


「何をやっている、光田!」


「申し訳ありません。すぐに捕まえてきます。皆さんはここで待機していてください」


 この感じ、追ってくる気か。


 まずいな。数年間まともに運動していない男と警察、どちらが早いかなんて一目瞭然じゃないか。


 僕は出せる限りの速度をありったけ出した。あと少しのはずなんだ。真理ちゃんを捕まえられれば、あとはどうなってもいい。それまでの辛抱なんだ。頼む、耐えてくれ、僕の脚と心臓……!


 背後から近づいてくる足音など聞こえないぐらい全力で、僕は走った。


 走った。走った。走った。


 臓腑が張り裂けるほど走った。


 息が切れ切れになるほど走った。


 今までに例を見ないぐらい、走った。


 走って、走って、走って……。


 そして……。




 そして、血生臭い戦場に飛び込んだ。



 そこに広がっていたのはありうべからざる惨状。大量の血が付着した街路樹。辺りに転がる人間だったものの一部分。そして、周囲に飛び散る鮮血、血溜まり、血しぶき、血、血、血、血、血…………。


 ここだけ見開き絵本が展開されているかのような、非現実的空間。


 その中心に、彼女は立っていた。




「お願い……アッシュ……」


 絞るような声で。震える声で。


 黒髪を、白い手を、服を、誰かの血で濡らして。


 恐怖で目を見開く怪猫に向かって、少女は言った。


「もう二度と……誰も傷つけないで……」


 恐らく、心の底からの懇願。


 両親を殺されても尚、望み続けた願い。


 それをありのまま、彼女は伝えた。


 その言葉を受けて、シャパリュは、アッシュは、うみは……。


 怪物となってしまった小さき家族は、震えながらも、その場に伏せた。


 彼女の言葉に、耳を傾けるように。


「うそ……」


 僕は思わず、声を漏らす。

 殺戮者の姿からは、考えられない光景だった。


 少女の言葉を受けて、彼女からの必死の懇願を受けて、従った。


 逆らって殺すこともなく、無視して立ち去ることもせず、ただ彼女の言葉を聞くことを、シャパリュは選んだ。


 本当は殺しなんかしたくない。むしろ、そう言っているようにも思えた。


 シャパリュに家族愛があることは、本当だったんだ。

 シャパリュは、ただの怪物じゃなかったんだ。

 飼い主を目にして逃げたという習性も、きっと家族を傷つけたくないという思いの表れなのかもしれない。

 僕は、いつしか酷い勘違いをしていたのかもしれない。

 どんなに獰猛な怪物でも、どんなに狡猾な怪物でも、その根底はうみであり、アッシュなんだ。

 アイツはいつだって、僕や、真理ちゃんが、家族であることを忘れやしなかったんだ。

 もしかしたら、真理ちゃんの両親を殺したのも、不慮の事故だったのかもしれない。

 刺激を受けたことで興奮して、自分の意思に反して暴走してしまったのかもしれない。

 真理ちゃんは、そのことを既に気づいていたのかもしれない。

 実際のことは分からない。だけど、今こうしてシャパリュは戦闘の意志を解いている。


 あとは、彼女に任せよう。きっと僕らが想像しなかった方向にことが進むかも──。





 パン。

 




 不意に鳴り響く、銃声。


 それが平和な空間を切り裂くさまを、眼中に収めた。


 シャパリュの右目から、血が噴き出していたのだ。


「アッシュ!」


 真理ちゃんは悲鳴を上げる。シャパリュは右目を瞑って、苦痛に悶えていた。


 一体誰が……発砲主は誰なんだ?


 辺りを見渡すと、すぐにその正体が明らかとなる。煙を吹いた拳銃を持って立っていたのは、息切れ切れの博士だった。


「遂に……遂に追い詰めたぞ! 化け猫めが!」


 新たに弾を装填しながら、博士はシャパリュにじりじりと歩み寄った。


「我が同胞たちの仇……そして、私の経歴に泥を塗った借り……ここで、返してくれるわ」


 再び、標準をシャパリュに向けた。その目は、充血した復讐者のそれだった。


「やめてください! 博士!」


 真理ちゃんの叫び声。博士の発砲。


 そして、シャパリュが立ち上がったのは、同時の出来事だった。


 最後の力を振り絞り起き上がったシャパリュは、前脚にその銃弾を受ける。弾は脚に命中したものの、強化された強靭な肉体がそれを容易く弾いた。博士の生き生きとした表情に戦慄が走る。


「うぐるあああああああああああああああ!」


 隻眼となったシャパリュは、怒声を浴びせ、博士目がけて跳びかかった。弧を描くように跳躍し、獲物を片目で捉え、頂点に達するところで前脚を振りかざした。


 まずい、博士が……!


 身体が勝手に動く。けど、ここからでは間に合わない。


 万事窮すか、と諦めかけたその時。


 博士の目の前に、人影が入り込んだ。


「がはっ……!」


 博士を庇おうと両者の間に入り込んだ人影は、シャパリュの爪を背中で受け止めた。警察の制服……光田さんだ。


 住宅ですら壊滅させる一撃をまともに喰らい、光田さんは苦痛の声を上げ、博士と共に倒れ込んだ。背後で、真理ちゃんの悲鳴が響いた。


「光田さん!」


 僕はすぐさま駆け寄る。しかし、妙だった。血が噴き出していないし、それに……彼は未だ生存していた。


「心配無用です、朝井さん……防刃チョッキ、着ているので……」


 息を切らしながら、光田さんは笑った。背中に刻まれた傷痕から、確かに銀色の板のようなものが確認できた。


「ぐるるるるる……ぐるるあああああ……」


 振り向くと、最後の力を使い果たしたシャパリュが、右目を抑えながら狼狽えていた。確認された中で初めての決定打。かなりの激痛に見舞われているようだった。


「アッシュ! 大丈夫──」


 真理ちゃんが駆け寄る。しかし、近づく寸前でシャパリュは牙を見せて威嚇したため、後退ってしまう。飼い主に向けた、初めての反抗。これ以上近づくな、そう言いたげの表情だった。


 がくん、と倒れかけながらも後ろに振り返り、シャパリュは逃げるように跳躍した。僅かに残った一軒家の屋根を伝い、遠くへ、ただ遠くへと進んでいく。


 周囲に再び、沈黙が流れた。


「何で……何でなの……」


 沈黙を切ったのは、真理ちゃんの涙声だった。


「わたしたちはもう……もとには戻れないのかな。アッシュ」


 その場で膝を突き、彼女は啜り泣いた。泣き崩れた。


 彼女の涙声だけが、静寂の空間に響き渡った。




 血にまみれた空間で、僕は立ち尽くす。


 光田さんの顔も、博士の顔も、見る勇気がなかった。涙を流す権利もありやしない。


 だって僕は、家族の一員としてうみを止めてあげることも、大人として真理ちゃんを止めてあげることもできない、ただ無力な存在なのだから。

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