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第50話 生理食塩水

 生理食塩水の味が、俺の舌になぜ染みついているかという話をしなければならない。


 俺が、大学のバスケ部に入部してしばらくすると、教授やOBの先生方も参加する、新歓コンパという行事があった。だいたい、新歓コンパをする場所は、その部活のひいきにしている居酒屋が多いので、教授も居酒屋の大将もツーカーである。教授の挨拶が始まると、なにやら、おでんでも入れるような大きな容器が出てきた。俺たち新入部員は何が起こるのか、不思議に思っていると、教授は、水割り用の水を器に注ぎ込み、卓上塩をパーと入れ、少し味見してうなずいた。


 新入部員諸君。おふくろの味は今すぐ忘れなさい。離婚の原因になる。

 その代わり、この生理食塩水の味はずっと覚えておきなさい。先輩が、同期が、後輩が、飲み過ぎた時には、この生理食塩水を注いでやりなさい。それが君たち学生ができる、命を救うということです。

 バスケ部へようこそ。乾杯。


 これが教授の挨拶だった。


 教授は毎年この挨拶だったので、俺たちバスケ部員は、飲み会の前にこの生理食塩水をスタンバイしているのが常だった。

 教授には本当にお世話になった。

 俺が幹部学年になって、主務をしていた時も、部員が不祥事を起こすと幾度となく教授の携帯に電話したが、肝が座っていたものだ。


 佐野君。わかりました。君はもうこの件から手を引きなさい。私が預かります。


 それが、教授の決めゼリフだった。

 今思うと、教授ってヤクザだったのかもしれないが、とにかく俺の舌が、医学部6年間が、生理食塩水の味を覚えているのだ。



「塩を一つまみ入れてくれ。」

 ルッソやベーラが作る生理食塩水に細かく指導しながら、ドリクが注射針を仕立てるのを待つ。

 ロウソクを見ても、あまり短くなっていない。

 こういう時は、時間の経つのが、長く感じるものだ。


「ロビン、大丈夫か?」

「あぁ、だいぶ楽になったんだが、腹の痛みは続いているな。」


 俺は、ロビンの脈や呼吸数を測りつつ、ドリクの残した紙に記録をつけていた。体温も血圧も、さらには酸素飽和度さんそほうわども分からないので、脈の感触で血圧の高い低いを判断することになる。

 血圧が下がって、容体ようだいが悪くなっていったら、腸管が腐ってきていることも考えないといけない。

 そうなってしまえば、お手上げだ。


 ロビンの手首を握り、脈を測っていると、ドリクが現れた。

「待たせたな。そんなに鍛えちゃいねぇが、皮膚を貫くならこれで十分だろう。」


 俺は、ドリクが持ってきた注射針を手に取ってみた。


 寸分すんぶたがわぬとはこのことか。


 0.1㎜単位でドリクは注射針を仕立ててくれた。それは、救急室にあった針と変わりはしない。


「凄い技術だな!惚れ惚れする。ありがとう!」

「当たり前だ!」

 ドリクは、満足そうに胸を張った。


 俺は、イレウス管に使ったものと別のロングワームの抜け殻を手に取った。

 ドリクが持ってきた注射針と接続するのだ。


「少しチクリとしますよ。」

 ロビンの前腕にある静脈を注射針で刺す。


 ちょうど漏斗ろうとのような容器があったので、煮沸しゃふつ消毒して、この抜け殻を接続しておいた。

 漏斗の上に生理食塩水を入れ、これで点滴セットは完成だ。


 点滴の速さは、この容器を上下に動かしたり、抜け殻を少し縛ったりして、ちょうどいい塩梅あんばいになるように決めた。


「ベーラとルッソは、もう宿に帰ってくれ。」

「サーノはどうするの?」

「俺は、ここに泊まる。ロビンの経過を見る。」

「じゃ僕も手伝うよ。」

「いや、いい。当直なんてやりすぎると過労死する。お前たちは、早く帰って寝てくれ。」

「…分かった。じゃ、また明日の朝来るよ。無理しないで。」

 ルッソは俺を気遣うように言った。


「私も帰るわ。お父様にも報告した方がいいかしら?」

 その様子を見ていたベーラが俺に尋ねる。


 ユドルスク商会の会長か…


「いや、必要ないだろう。夜も遅いから、ルッソ、ベーラを送ってもらっていいか?」

 ルッソはうなづいた。



 ルッソとベーラがいなくなった後、どこからかドリクは酒を持ち込んできて、飲み始めた。


「しかし、面白いことをしやがる。」

「うん?何のことだ。」

「腹蛇に関わろうとすることだ。教会も治せないってので、いや、これを言っちゃまずいか。とにかく、天罰だの、その人の罪深さの結果だの言われんだよ。だから、腹蛇になると誰も近づかないから寂しい死に方をするんだ。」

「あぁ。」


 前世のペストも、コロナも同じだ。感染症で死んだら、最後まで隠されて喪に服す。こうして誰とも会わないようにして、死因が分からないけども感染拡大を防いできたのが、人類の知恵の歴史だ。


「誰も近づかねぇし、誰も関わりたくねぇ。そこに飛び込むから、面白れーって言ったんだ。」

「医者だからな。」

「はぁ、医者ね。医者ってのは、クソばかりと思っていたが、違うんだな。」


 …どうなってんだこの世界。


 ワンダ軍曹も話してくれたが、この世界の医者ってのはそんなに倫理観ないのか?

 蛇蝎だかつのように嫌われてんだけど。


 ロビンも口を開いた。

「そうだな…医者も、クソッタレばかりじゃないんだな。」

「ロビン、お前はちょっとは眠った方がいいぞ。」

「俺の…冒険者人生も、こんな最悪、いや、俺らしい死に方かもしれないな。でも、できれば強い魔物と相まみえて死にたいと思っていた。」

「…そうか。」


 ドリクは、コップに酒を注ぐ。

「ロビンは、この辺じゃ有名な冒険者なんだ。でも、腹蛇は縁起が悪いって言って、今日は、蜘蛛の子を散らすように、この酒場に来てた奴がいなくなっただろう。冷たいもんだね。」

「親方、あんまり言わないでくださいよ…」


「ドリクとロビンは元々知り合いなのか?」

 俺は二人に尋ねた。


「当たり前だ。俺がロビンの剣を鍛えてやってんだぜ。」

「親方には、いてて、お世話になっている。」


 それからもドリクとロビンは話をしていたが、『もうロビンを寝かしてやれ』とドクターストップをかけて、ドリクを家に帰した。



「朝か。」

 熊のねぐら亭の離れの物置小屋にも、朝日が差し込む。

 少し、うつらうつらとしていたかもしれない。


 ロビンの手首の脈を触れ、特に昨日と変わりがないことを確認する。

「どうだ、調子は?おならは出たか?」

「サーノ…おならは出てない。それと…さっきまでよかったんだが、腹の痛みがひどくなってきた…」

「何!少し、腹を見せてもらっていいか?」


 ロビンの呼吸が、前の記録に比べて速くなっている。痛みで呼吸が荒くなっている可能性もあるが。俺は鑑別スキル:エコーモードも併用して、腹部の診察を行った。すると…


 腹水ふくすい腹膜刺激ふくまくしげき症状が出てきている…


 最後にうつらとする前に、エコーでスキャンした時には確かに腹水はなかった。

 それに、腹膜刺激症状といって、腹膜炎ふくまくえんのように腹が少し硬くなっている。どれも重症になりつつあるサインだ。


 このまま様子を見て改善する状態ではない。


 場末の救急医には、お手上げだ。

 

「サーノ…」

 腹から目を離さない俺に、ロビンは不安げに訊いた。

 

「ロビン、すまない。この状態になれば、俺にできることはない…」

 俺は絞り出すように言った。


 その時である。


「ちょっと待ちなさいよ!」

 ベーラが飛び込んできた。続いて、ルッソ、フンドも。

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