第1話 中年救急医、死す
プルル、プルル…
午前3時、PHSが枕元で鳴り響く。
「佐野先生、救急車、あと5分です。患者は25歳男性。発熱、低酸素血症です。」
と救急外来看護師の声。
「…はい、行きます。」
俺は、当直室からERへ向かう。
俺が救急医長をしている病院は、都内にある200床程度の中小病院だ。この救急外来では、患者を断らないという合言葉のもと、24時間の急患の受け入れを行っている。最近の新型コロナウイルス感染症の流行とともに、パートの当直医が、『発熱患者は診たくねぇ』と言うもんだから、その勤務の穴を埋めるため、当直回数はうなぎ上りだ。
「ワンオペ救急外来だな。」
ひとりごちて、ERまでの廊下を足早に歩く。
『来月になれば、研修医が来て、勤務も楽になります』って、病院事務長が申し訳なさそうに言っていたが、本当だろうか。
感染防御用のガウンを着用し、救急車の到着を待っていると、慌ただしく、防護マスクをつけた救急隊が、寝台を走らせてくる。俺は来院した患者に、いつものように、『発熱者ルーチン』を行う。
「痛っ!」
電子カルテに、診療経過を打ち込んでいると、頭に激痛が走った。
最近、こんな頭痛が時々ある。手持ちの鎮痛薬でだいたい良くなるので、救急外来のデスクに鎮痛薬のシートを忍ばせている。
一通りの検査オーダーを済ませ、患者を胸部CT検査へ送り出したところで、鎮痛薬を飲み込んだ。
「ブラック企業も真っ青のシフトだぜ…」
夜間当直が終わった後は、朝の申し送り、救急外来での研修指導をして、夕方は救急外来運営会議。
結局、我が家に到着するのは午後7時を回ったところである。ちなみに明日もフルタイム日勤からの夜間当直。
最近ずっとこんなシフトだ。
「大丈夫?顔色悪いわよ。」
妻のサユリが晩ご飯の用意をしながら、心配そうに声をかけてくる。
サユリも、ほぼワンオペ育児になっているところが申し訳ないところだ。
「いつもと変わらない、大丈夫。家はどうだった?」
そう聞き返すと、サユリは、一人息子のヒカルが幼稚園でどれだけ大変で、自分が苦労したかを堰を切ったように話始める。耳は傾けつつ、風呂掃除にとりかかる。水回りの家事は俺の役割だ。
ヒカルを風呂に入れて、歯磨きの仕上げをして寝かしつけをする。最近は、このまま寝落ちするパターンが多い。明日までの書類のことが頭をよぎりつつ、この日も俺は寝入ってしまった。
「…っ!!」
今までにないほどの激しい頭痛で目を覚ます。這いつくばって鎮痛薬を探すも、
(何も、見えない)
そこで、俺は力尽きて意識を失った。
「あなた、医者でしょう?」
目を覚ますと、見知らぬ真っ白な空間で、黒髪の美女が覗き込んでいた。
「自分の不調も分からないのですか?」
呆れた表情で、美女は言う。
(俺、死んだな。)
不思議と冷静だった。最期はくも膜下出血だ。時々の頭痛は警告出血というやつか。
無視を決め込んでいたが、事務長の言う来月まで体がもたなかった。
「俺、死にましたか?」
「ええ、今しがた。」
「そうですか…あなた誰ですか?」
「私は、女神アンダンテ。」
「そうですか…ここはどこですか?」
「佐野トオルさん。あなたは死にました。少しは取り乱してもいいのですよ。」
「そうですね…」
「残してきたサユリさん、障害を持つヒカル君、未練はありませんか?」
未練はある。そりゃそうだ。
残してきた家族を思うとやりきれないところはある。
ただ、生命保険もあるし、サユリの実家はお金持ちだし、経済上の問題はないだろう。ヒカルが私立の医学部に行きたいとか言ったら話は別だが。
「…言い出したら、キリがないです。」
「それもそうですね。」
「女神様お願いです。天国から彼らを見守らせて下さい。」
「は?無理ですよ。」
うん?
声が小さくて、上手く言葉が伝わらなかったかな?
「…えっと、天国にイカせてください!」
俺は、両手でサムズアップして、『天国に行きたい』ジェスチャーを送った。
女神は、スッと姿勢を正して、言った。
「だから無理ですよ。あなたの魂は、うす汚れています。」
「え?」
「小児患者の母親に、コソリとやらしい目を向けたり、女性の胸部レントゲン写真に映る乳房像に妙な想像をしたり、それに…」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!!」
いやいや、何これ。
今まで、『敏腕救急医の死』ということでシリアスにやってきたのに、いきなりこんな黒歴史暴露が始まっちゃうの?
というかですよ。
既に女神も、このゴミクズが、と低い声でつぶやいてて、リアルに戦慄する。
これ完全に地獄ルートですよね。
かくなる上は…
「申し訳ございませんでした!」
キレイな土下座を決めてやった。
とにかく、『頭を上げろ』と言われるまで、地面に頭をこすりつけるのだ。ノーエクスキューズ。言い訳、ダメ、ゼッタイ。必要なのは、根気だ。
サッと、女神が動いた気配がある。死人をいきなり土下座させたことに、気がひけたかもしれない、と思ったところで、頭を踏みつけられた。
「無駄です。地獄に行けとは言いませんが、地球とは違う世界アンダンテに行っていただきます。そこで、魂を磨いてください。」
いや、その説明するのに、頭を踏みつける必要あるか?
女神は俺の頭に足を置いたまま更に追い込む。
「チンピラAでいいですか?虫けらにしますか?」
なんだろう。それで、どうやって魂を磨けというのだろう。
しかもAってなんだ。Aって。
「ど、どうか、ご慈悲を…」
「うーん、そうですね。では、これから悪事を積み上げていくだろう青年に転移させます。悪事を防ぎ、魂を磨きなさい。適当なスキルは見繕います。」
女神に踏みつけられたまま、俺の体は光り輝き、異世界アンダンテに転移した。
医療あるある話も、やっていこうと思います。
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