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正式に配属される前に、天士達が、知識や訓練を重ねる施設――アカデミアの修了を控えたこの時期、学内にはスカウトのために大天士が訪れることも多くなり、その来校情報や、生徒の配属先、あるいは根も葉もない噂までもが、あちこちで話題となっていた。
誰も彼もがそれぞれの進路について悩み、迷い、希望や信念を再確認したりと、巣立ちの前特有の浮き足だった気配に満ち溢れている。
ミュウも例外ではない。
アカデミアを修了すれば、必然的にどこかの部隊に所属をしなければならない。
小さな頃からずっとそばに居て見守ってくれていたルシフェルと離れたくはなかっはたが、彼の部隊は他と違い、他部隊で経験を積んだトップクラスのみが入隊できるところで、アカデミア修了生をスカウトすることなどない。
また、スカウトされるのは成績上位者のみ。普通の生徒なら、希望する部隊の入隊試験を受けるのが普通だ。
アカデミアでの成績は、中の中のミュウはまだ修了がかくていしているわけではないので、とりあえずは、目の前の課題のほうが大事なのだが――
「今回の宿題、難しくなかった? ――私、結局、ほとんど白紙。放課後、補習決定だわ」
授業の初め、講師が先週出した宿題を集めている最中に、隣の席のラティがそっとミュウに話しかけてきた。
「うん、私も居残り覚悟だったんだけど――もたもたやってたら、ルシフェル様が横でいろいろアドバイスをくれて――」
ミュウは、昨日の様子を思い出しながら、正直に答える。
昨晩――部屋で宿題と格闘しているときに、突然ルシフェルが部屋に入ってきたのだ。いつものお茶の時間にミュウが姿を現さなかったから心配になったらしい。そして、机の上の広がり具合と、ミュウの様子を一目見て、一言「手伝ってやろうか?」と声をかけてくれたのだった。疑問形ではあったけれど、それが問いかけでないのは、目を見ればわかる。
「いいわねぇ、ミュウは。ルシフェル様がお側にいてくださって」
それは現状では否定できないが、アカデミアを出た後のことを考えれば、彼の力を借りずにやれるようになっておかなければならない、とも思う。
そんなミュウにとっては、時々、ルシフェルのこのような気遣いが重く感じることも――なくはない。
しかし、それが、とても贅沢な思いであることも、彼女は重々承知している。
たいていの学生は、アカデミアの敷地内に作られた寮で生活していて、ミュウのように帰る家があるほうが珍しい。しかも、天士長のルシフェルと共に暮らせるなど、他の天士がいくら願っても叶うはずのないことだ。
「……うん。――でも、寮のほうがアカデミアに近いし、毎日重い本を沢山抱えて登校するの、結構大変だよ?」
ミュウは、宿題を集め終えた講師が講壇に戻ったのを確認し、自らもテキストを開いた。こんな贅沢な本心など、親友といえども漏らせるはずがないし、進み始めた授業も気になり始めて、色々話しかけられてはいたが、適当に返事をした。
ラティは今が授業中ということなど気にしないのか、あるいは忘れているのか、前方のボードになど目を遣りもしていない。そろそろ講師もこちらを気にし始めている。
「ねえ、ラティ……」
小さく声をかけるも、彼女の耳には届いていないようだ。
「――結局は、……なんだけど――」
「おい、もう授業が始まってるんだ。静かにしてくれよ」
そこへミュウの背後から、静かに、しかし鋭く諌める声が二人に掛けられた。
二人は顔を見合わせて、肩を竦めて小さく謝る。
「――スタティスったら、ちょっと、クラス委員だからって、大きな顔しちゃって……やぁね」
さらに声をひそめて、ラティが呟くと、それに答えるようにミュウは黙って笑みで返し、気持ちを授業に向けた。
特出した能力を持たないミュウにとっては、せめて成績くらいは普通程度を保っておきたい――そうでないと、希望する部隊へ入れない可能性さえあるし、そうなるとルシフェルの面目をつぶしてしまうことになる。
ただ、だからといって、友達から話しかけられてきっぱりと断る勇気もないミュウにとって、後ろから飛んできたスタティスの叱責は、ある意味救いの声でもあった。
「――もうすこし、自分の気持ちをはっきりと言ったほうが、いいよ」
授業が終わり補習のために出て行ったラティに挨拶をして、帰り支度を始めようとした時、後ろから小さくかけられた声にミュウは驚いた。
「……スタティス――」
振り向くと、自席に座ったままで、にっこりと笑みを向けながら眼鏡越しにスタティスがミュウを見つめている。
「困ってたんだろ?」
「――何のこと?」
「さっきの授業。――ラティの話が終わらなくて、困ってるように見えた……」
スタティスは、ミュウの後ろの席だ。ミュウの表情など、読めるはずもないのに――
「……どうして?」
「わかるさ――」
「後ろからでも感知できるなんて、さすが、クラス委員ね」
「そうじゃ、ないけど――」
何かを言いかけて、スタティスは止めた。それから少し考えた後、彼があえて話題を変えた。
「……ミュウは、もう、希望部隊を決めた?」
そのとっさの質問にミュウは、返答に困った。
希望がないわけではない。けれど、その希望はあまりにも高望み過ぎて口にすることさえ憚られる。
「――ううん。……まだ――。スタティスは? スタティスならそろそろスカウトが来るんじゃないの?」
スタティスは、知識も豊富だし、戦闘能力も平均以上に高い。その上、感知する能力も優れているとなれば、スカウトが来ていてもおかしくはない。
「――実は、昨日、もらった」
「ほんとっ!? どこから?」
「ラジエル様とメタトロン様から」
この時期にスカウトが来るということ自体が、優秀であるという証拠だ。
「二つもスカウトが来るなんて、すごいじゃない! ――どうするの?」
「僕は、もともと、ラジエル様の部隊を希望していたからね」
「そっかー。頭のいいスタティスなら、ラジエル様の部隊はぴったりね。――いいな、スタティスは。希望するところに、すんなり入れて――。私も、もう少し成績が良かったらなぁ……」
ミュウが密かに希望する部隊は、ただ、成績がよいだけで入れるようなところではないが、良いに越したことは無い。どのみち、そこは望み薄なのだし――となれば、どこか別の部隊には入隊しなければならないからだ。
しかし、どこか別の部隊に入るということは――もう、ルシフェルとは一緒にはいられないということで――
それを考えると、ミュウはいつも不安になる。だからつい、自分の気持ちに蓋をして、その問題を後回しにしてしまっていた。
「良かったら、一緒に勉強しようか?」
そんなミュウの不安をふんわりと包み込むような笑顔で、スタティスが提案した。
「でも、スタティスはもう決まったんだから、勉強なんてしなくて、大丈夫なんじゃないの?」
「知識なんて、使わなければ忘れてしまうからね。それに――所属する部隊が決まったからと言って、浮かれて時間を無駄にするほど、僕は愚かじゃない。それに……どうせやるんなら、一緒にやったほうが、楽しいだろ?」
「うん――。そうね……。でも――」
しかし、ミュウには早く帰りたい理由があった。
「でも?」
「……私、帰って、ルシフェル様のお茶の支度を――。だから、放課後ゆっくり残ってってのは、ちょっと難しいかな」
一瞬、スタティスの表情が曇り、そのあと交戦的な色がその瞳に現れた――ような気がした。
「――良かったら、僕がミュウのところへ行こうか?」
断る理由が見つけられないミュウは、彼に促されるまま一緒に学校を出た。