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3万字未満のお話

女王陛下のお望みのままに

作者: 狼子 由

挿絵(By みてみん)


 胸をつく低い音。

 繰り返す響き。

 葬送の鐘が鳴る。


 膝立ちの姿勢のまま、私は黙って瞼をあげた。

 ステンドグラスを通した陽光が、聖者の姿を床に映す。

 中央に座り込む私の白いドレスもまた、極彩色の光に染まっている。

 自分の金髪に差し込む光がひときわ強く、瞳を差した。

 亡くなった国王を悼んで、今頃は国中が皆、同じように跪き、目を伏せているはずだ。


 音が止まり、最後の鐘の震えが少しずつ薄まっていく。

 鐘の余韻の向こうから、硬い足音が近付く。

 こつり、こつり。

 こつり、と私の背後、ちょうど良い距離を空けて足音が止まった。


「リチェルーシア陛下」


 呼びかけは、聞きなれた低い声だった。

 私は膝立ちのまま振り返り、彼の名を呼ぶ。


「――ルインズ」

「先王陛下のご遺体を乗せた馬車が、先程先行して王室墓所へ向かいました」


 私の秘書官で元教育係、ついでに幼い頃から一緒だった幼馴染のルインズは、真面目くさった表情で頭を下げたままだ。

 だけど、私に対してそんな丁重な言葉遣いは、全然、彼らしくない。

 私は立ち上がり膝をはたきながら、即位して以来もう何度目かの苦情を口にした。


「リチェで良いわ、ルインズ」

「お前な、そういう訳には――いえ、新王陛下に対し、そのように失礼な言葉を使う訳にはいきません」


 苦虫を噛み潰したようなルインズの顔を見て、私はあからさまなため息をつく。

 乱れなく後ろに撫でつけられた黒い髪、深い青の瞳。着こなすジャケットは金糸で縁取られた漆黒。美男子ぶりがやや目に付くことを除けば、全体としては文句の付け所のない秘書官だ。


 だけど、最近はいつもこんな真面目な顔か不機嫌な顔ばかり。

 もっと昔の隙だらけの姿も知っている私からしてみれば、どっちもただ真面目ぶってるだけのように見えて何だかおかしいくらい。


 僅かに砕けた口調と、「お前」といつもの呼びかけが少しだけ戻ったのを気持ち良く受け止めて、私は頭一つ分の身長差を顎先を上げることで埋めた。


「ルインズったら、そこは『女王陛下のお望みのままに』とか答えられないの?」

()()()()の自覚があるなら、それらしく振舞ってくれ。幼馴染としてではなく」


 微かに眉を寄せるのは、言い返したいことがある時の彼の癖だ。

 分かってはいるけれど、私だって言いたいことはある。


「幼馴染である以前に、あなたは私の秘書官だもの。この先、私とこの国を支えて貰うんだから、そんなに距離を置かれると困るの」

「幼馴染である以前にお前の秘書官だから、私は距離を置こうとしてる――ん、です」


 無理に語尾を直したルインズが、くるりと背を向けた。

 さあ、これでこの話は終了だ、と広い背中が言外に示している。


 父が亡くなってから、私達はこんなやり取りを繰り返してばかりいる。結論は出ない。どちらも譲りはしないし――そもそも、片が付くまで話し合うような時間の余裕はない。

 私もまた首を振って気持ちを切り替え、大人しくルインズに従って歩き出した。


「父の遺体は墓所に向かったのね」

「はい。リチェルーシア陛下は、葬儀に向けたお召し物にお着替え頂きたく」

「そうね。葬儀には外国のお客様方もいらっしゃるし……ちょっと面倒だけど」


 王女時代から私のことを知っている国内諸侯のお歴々は私の性格もよくご存知だから、そう気を遣う必要もない。

 だけど国外の方はそうもいかないのよね……なんて女王にあるまじきことを言おうとしたところで、ルインズの咎めるような視線にぶつかって、慌てて話題を切り替えた。


「えっと……今日は、リゾルア帝国の大使も参加するのだったかしら」

「リゾルア帝国からはティルナシア公爵がいらっしゃいます。おい……いつもの調子で軽口叩くなよ。万に一つも失礼のあって良い相手じゃない」


 ぼそりと添えられた注意事項は、幼馴染のルインズだからこその言葉だ。

 つまり、私のことを良く知ってるって意味で。


「分かってるってば。だけど、ティルナシア公爵かぁ……。確か皇帝の異母弟よね?」

「そうだな。先日の皇帝即位と同時に公爵位を受けた若い男性だ。噂によれば見目も悪くない――どうぞ、陛下」


 扉の直前、ルインズがさり気なく先へ出て、開いた扉を支えた。

 祈りの間から出た途端に人目を気にしてか、さっき緩めた口調がまた戻っている。

 私は終わったばかりの口論を蒸し返したい気持ちを抑え、じろりとルインズを睨み付けた。

 向こうは知らぬげに片眉を上げて見せるだけだけれど。


 全く、強情なんだから――と、多分向こうも同じことを考えているだろう。

 私達はそっくり同じ歩調で廊下を先へと進んだ。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 ――大陸南部の小国ソリスティア王国で、第八代女王リチェルーシアは前王崩御と同時に即位した。

 戴冠式まで日が空いたのは反対する者がいたからではなく、ただ前王の葬儀が優先されたからに他ならない。

 ソリスティア王国には過去、他に女王が在位したこともあるが、大陸全土で見れば女王はやはり珍しいだろう。

 とは言え、美貌の女王と呼ばれた彼女の即位に際しては、大きな混乱はなかった。

 生前より次代に娘を指名し、根気よく長老議会や高位貴族達の承諾を得ていた前王あってのことだ。晩年は長く病みついていたが、最盛期の前王は、隣接する大国リゾルア帝国からの侵攻をことごとくを防いだと言う。停戦にあたっては対等以上の条件で講和を結んだ、偉大な功績のある王だった。


 そんな王国の屋台骨が折れた後から、この物語は始まる。

 第八代女王リチェルーシアという、伸びやかな若木を主人公として。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 足を踏み入れた王室墓所に、密やかなさざめきが起こった。

 普段は神殿のように静謐な空間だけれど、葬儀に集まった人々の多さは、潜めた声さえ集めてしまう。


 入り口に立った私の姿に誰かが気付いたのをきっかけに、風にそよぐ草原のような波が一瞬広がった。人々が私に道を空けるため、一歩下がって目を伏せる。


 人混みの中央を、胸を張って歩く。

 向けられるたくさんの視線を感じながら、それでも堂々と。

 かつては恐怖さえ感じたこの無言の注目の中を、今や震えずに歩けるようになった。それでももちろん、半歩後ろにルインズがいてくれることは何よりも心強い。


 一通り儀式が終わったところで、各国の大使が挨拶のために私の前に順に進み出る。

 そこで初めて私は、隣国リゾルア帝国からの使者、ティルナシア公爵の顔を見た。


 ティルナシア公爵が私の許しで顔を上げる。

 柔らかそうな金の巻き毛の下から、輝くような碧眼がのぞいた。


「リチェルーシア陛下へ心よりお悔やみ申し上げます。皇帝より、陛下のお心を癒せるよう心を尽くせと言いつかっております」

「ありがとうございます、ティルナシア公爵。そのお気持ちだけでも嬉しいわ」


 微笑みを浮かべながら、失礼にならない程度に相手を観察する。

 ルインズが言った通りまだ若い公爵は、人懐こい笑顔で私を見返してきた。やや線は細いけれど顔立ちは整っている。黒いジャケットにあしらわれた銀糸の刺繍も趣味が良い。弔問のはずなのにどこか楽しげな空気を纏っているのも、女王としてここに立つ私にとっては面白く思えた。父親を失ったばかりの娘としては、また別の感想があるにしろ。


「親を亡くすのは辛いことです。僕もつい先日、経験したばかりだから分かりますよ。こんな僕でも先輩として、何かお力になれれば良いと思いますが」


 心の籠った穏やかな声。やや砕けた言葉遣いも、この人が口にすれば親愛の印と映るような優しい空気。

 皇帝の即位が前皇帝――つまり皇帝やティルナシア公爵の父親――の死去に伴うものだという話は、既に知っていた。

 私も同じ思いやりを声に込めて答える。


「お互いに寂しいことですね。何かあれば相談させてください」

「いつでも。どんなことでもお力になりますよ」


 微笑み合い、労りを受け入れているように見せかけながら、だけど「何かあればこちらから」は体の良い断り文句だ。

 そのことは分かっているはずなのに、不満めいた表情は見せず、ティルナシア公爵はただ笑ってその場を後にした。


 必ず味方と見定めた人以外には、心を開かない。

 幼い頃から知っているこの冷たいやり取りが、こんなにも身に沁みるのはきっと父を亡くしたばかりだからだ。

 思わず吐きだした息に、ティルナシア公爵が微かに憐みの混ざった視線を向けた気がした。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 葬儀の後もてなしの会食が済み、自室に戻った時には疲れ果てていた。

 ぐったり脱力して柔らかい長椅子に深くもたれる。

 今や楽しみは、堅物の幼馴染に軽口を叩くくらいしかない。


「どうよ、ルインズ。私にしてはよくやったでしょ?」

「ええ、立派でした」

「…………?」


 期待していなかった褒め言葉が頭上から降ってきた。

 思わず、跳ねるようにそちらを見上げる。

 柄にもなく優しい眼差しで私を見下ろしているルインズの青い瞳と視線がぶつかる。

 気付いた途端、互いに慌てた。


「め、めっずらしいね! ルインズが私のこと褒めるなんて。いつもは私に一言文句言わなきゃ死んじゃうってくらいなのに」

「女王陛下が尽力しているのは私とて知っている、分かっていれば、心にある真実の思いを口にすることに躊躇はない」

「へー、じゃあルインズが私のことを可愛いとは言わないのは、心に思ってないからってこと?」

「ばっ……そういうことを言っているんじゃないだろう」


 びしり、と言い切った声がいつもの冷たさに戻った。

 あっヤバい、と思ったけれど、時既に遅し。一度お叱りモードに入ったルインズは容赦がない。今日の私の様子から始まって、お話した相手のその場の順序、口にした言葉の一つ一つにダメ出しが入る。


「――のはまずかった。それにあの瞬間、咄嗟にユグニア伯爵に声をかけたのは悪くない判断だ。だが、その言葉がいけない。彼の領地はリゾルア帝国との防衛の要だぞ。彼の側からの冗談に乗っただけとは言え、それを軽んずるような言葉は――」

「待ってよ、だって向こうから言い出したんだもの。『私の住まいはド田舎だから、女王陛下にとっては逆に珍しく思われるかもしれません』って。それに、私は『それでしたら一度お伺いしてみたいわ。とっても面白そう』って言っただけよ。女王が国内の査察に行くのは当然のことでしょ?」

「馬鹿か。それが最悪だ。リゾルア帝国のティルナシア公爵があの場にいるんだぞ。国境線を挟んでティルナシアに対峙するユグニアに女王が行くなんて、時と場合によっては戦争の準備だと思われることだってある」

「馬鹿って何よ。時と場合によっては、って言ったって、今は時と場合によらないでしょ」

「呑気なことを。戦争真っ只中以外は安全だとでも思っているのか」

「そんなことはないけど……」

「先王陛下が亡くなったというのは、そういうことだ。新しい女王のお前がどう出るか、国内も国外も皆じっと観察してるんだ」


 元教育係であるルインズは、ダメ出しに容赦がない。

 だけど、それが当たり前に受け入れられるくらいには、時勢や歴史に関する造詣が深い。

 もちろん私だって、腐っても女王(別に腐ってないけど)。個人的な興味とは無関係に、政治に関わりそうなことはしっかり覚えてる。それでも、私の頭の中に入っている以上のことを、ルインズは知っているのだ。

 そりゃ至らない私のことを見てれば、腹が立つこともたくさんあるだろう。


 ……だけど、それにしても今夜は珍しいかも。

 最近はこんな押し付けるようなものの言い方は控えていたのに。


 勿論、それを指摘するときっと改めてしまうだろうし、私はどちらかと言うと今みたいなやり取りの方がルインズらしくて好きだから、黙って頷きながら聞いた。

 声高にリゾルア帝国とティルナシア公爵の重要性について語っていたルインズは、途中で大人しく見上げる私の視線に気付き――そして、そこに何か違和感を覚えたらしい。

 はっとした表情で一歩後退る。どうやら自分で気付いてしまったらしい。


「失礼しました、陛下」

「別に失礼じゃないわ。気付かなかったらずっとこのままで良いと思ったのに」

「そういう訳には……」


 私が即位したことを、つい意識から外してしまっていたのだろう。眉間に皺を寄せている。

 ルインズをやり込められるなんて有り難いチャンスだと思ったので、私は更に話題を続けることにした。


「珍しいね、ちょっと地が出るなんてレベルじゃなくて、こんなにずっと昔みたいな言い方してるなんて。やっぱり今日はルインズも疲れた?」

「そうですね、そういうこともあるかもしれませんが」

「何か気になることがあった?」

「……いや」


 問いかけても、すぐに明瞭な答えは返ってこなかった。

 ルインズが口ごもるのもまた珍しい。

 どうも何かがかみ合っていない。ため息をついて、長椅子の上にルインズの腕を引いた。


「陛下?」

「座って、ルインズ。何か悩んでることがあるんでしょ?」

「私などが陛下の隣に座る訳には。それに、私の悩みなど、陛下にとっては」

「あのね、忘れてるみたいだけど、あなたは私の秘書官なの。私達は一蓮托生、二人三脚でこの国を盛り立ててかなきゃいけないの。その相手に何かあったって言うのに、黙って見過ごしたり出来ないでしょ?」


 体重をかけ腕をぐっと引いて、ようやく私の横に座らせた。

 目の位置が近づいたところで、じっとその青い瞳を覗き込む。

 ルインズは一度目を見開いてから、諦めたように息を吐いた。


「……では、言うが」

「うん」

「考えていたのです、ティルナシア公爵が何故このタイミングでやって来たのか」

「何故って、父の葬儀だからでしょ?」


 そのまま答えた私に、微かに眉を寄せたルインズが首を振る。


「先王陛下の葬儀だけが目的なら、もっと親交の深い方もいらっしゃる。例えば、帝国のアグシリア伯爵は戦後から先王陛下と長く親交がありましたが、何故か最後の別れの機会はティルナシア公爵へ譲られた」

「他に目的が?」


 全く考えてもいなかった。

 問いかけた私から、そっとルインズが視線を外す。


「目的があるとすれば……それは、一つしかない」


 目を逸らされたことで、その昏く沈んだ瞳で、初めて私もその可能性に気付いた。

 ティルナシア公爵が――まだ若い、未婚の帝国の重鎮が、私達の国へ踏み込んでくるその目的と言えば。


「……私?」

「おそらく」


 言葉では断言を避けつつも、ルインズの答えは淀みない。

 昼間、ティルナシア公爵と会うよりも前からずっとこのことを考え、そして導かれた結論なのだろう。


「帝国側には大きなメリットがある。小国とは言え、ソリスティア王国は豊かな国だ。鉱山と肥沃な農地を持ち、代々領土拡大を好まぬ穏やかな王に治められて、財を重ねてきた。侵攻しにくい山に囲まれた土地柄と代々の王の采配の上手さもあるが。そんな王国を、女王の戴冠に当たって無血で併合出来る機会があるならば、私が皇帝でもそうするだろう」

「だけど、私の夫――王配には、王位継承権はないのよ?」


 不思議そうに見上げた私を、ルインズは真剣な目で見返す。


「夫にはなくとも、お前の子孫にはある」

「うっ……」


 それは確かに。

 当たり前と言えば当たり前、気付いて当然の話だ。

 私自身にあんまり実感がなくて、咄嗟に思いつかなかったけど。


「そういう状況を考慮した上で、ティルナシア公爵への対応を考えねばならない」

「考える? お断りする一択じゃなくて?」


 それはつまり――ルインズは、公爵と結婚することも考慮に入れろと言っているのだろうか。

 ルインズは、それで――私が他の誰かと結婚してしまって良いのだろうか。

 青い瞳が私から逸らされる。


「今や、帝国は飛ぶ鳥を落とす勢いだ。武力を持って我が国へ攻め込んで来るかも知れない。そうなった時に自国の民を戦乱に巻き込むよりは、婚姻関係で先に手を結んでおけ――という選択肢もある」


 低い声はいつも通り。違うのは私を見ていないということだけ。


「帝国から見て、ソリスティア王国は西の大国への足掛かりになる位置だ。だからこそ皇帝の弟が来ている。お前を、口説きに」

「だけど、それは……」


 明確な考えもなく伸ばした手は、何かに触れる前に自分の膝の上に落ちた。

 何に触れようとしていたのか、自分でももう分からない。

 ルインズはその手をちらりと見てから、すらりと立ち上がった。


「どこへ行くの?」

「戻る。いくら秘書官でも、未婚の男女がいつまでも2人で部屋に閉じこもっていて良い訳がない。だが……」


 扉へ向かう途中で、ルインズは足を止める。


「だが、安心しろ。お前が誰と結婚しようが、秘書官である私がお前の傍を離れることはない。それが、私に出来る唯一の――」


 その後の言葉は、後ろ手に閉められた扉に遮られて聞こえなかった。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 一人残されたところで、こんな状態で眠れる訳がない。


 ルインズが言いたいことは、分かっている。

 国のことを考えろ、とルインズが明言しなかったのはむしろ、私がそのことを理解していると知っているからだろう。


 私が求められるもの。

 王国の平和を守ること。更なる富を国民にもたらすこと。

 そのために、帝国の後ろ盾を……?


 悩めば悩むほど、夜の静けさが耳に痛い。

 考えていても仕方ない。

 私は起き上がり、室内着のガウンを羽織って部屋を出た。


 どうする当てもないけれど、とにかく頭を冷やしたい。

 寝室前の警護の兵士には供はいらないと軽く首を振り、中庭へ出た。


 今夜は空気が冴えていて、月が綺麗に見える。

 冴え冴えとした月の下、中庭を歩く。

 花園へ向かおうとした私の背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。


「どうされました、陛下。こんな夜更けに」

「ティ、ルナシア公爵……?」


 ちょうど今、頭に浮かんでいたその人だ。驚くしかない。

 私の視線を真っすぐ受けて、優し気な笑顔を浮かべた公爵はこちらへ近づいてくる。

 一歩。詰められた距離を、私はさり気なく後ろに引いて離れた。


「公爵閣下こそ、なぜこんな夜更けに」

「窓からあなたの姿が見えたので」

「私を追って?」


 答えてから、はっとした。

 今の私は、夜着にガウンを羽織っただけ。

 髪も整えていないし、化粧もしていない。

 隙だらけだ。


「……私ときたら、こんな格好で」

「無礼だと言う者はいませんよ。近付いたのは私です。それに――」


 また一歩。公爵はあくまでにこやかに距離を詰めてくる。

 無意識に下げた靴の踵が、石畳に引っかかった。

 よろけた私を、ティルナシア公爵の手が丁重に支える。

 薄い夜着を通して、手のひらの熱が伝わってきた。


「あ……ありがとうございます。でも、離して。もう大丈夫ですから」

「これは失礼。ですが、聡明な女王陛下ならもうお気づきでしょう? 僕らはあなたと幸福な縁を結びたいと考えている」

「……縁、なんて」


 礼を失してはいけないと思いつつも、苛立つ声を抑えられない。

 軽く睨み付けると、公爵は人好きのする悪戯っぽい笑顔で答えた。


「幸福な、ね。あなたも僕らも、どちらもが幸せになれる道です。いえ、昼間の様子を見るに、あなた個人の幸福ではないのかも知れませんが」


 ()のことを言っているのか、問い質す必要はなかった。

 私の視線が尖ったのを見て、公爵は更に笑顔を深める。


「大丈夫、僕もそう違いはありません。国のためを思えば選択肢なんてないのが、王族というものだ。だけど……僕ら、きっと仲良くなれるんじゃないかな。少なくとも僕はそう思ってますが」


 どうだろう、と尋ねる声の冗談めいた口調と、それにそぐわないまなざしの優しさは、確かに私にとって好感の持てるものだった。

 だけど。


「王国だけが目的、なんてよくもまあ堂々と言うものね」


 呆れた顔を作って見せる。

 彼の率直さは個人的に好きだ。

 目的を隠して近寄られるよりよっぽど良い。

 でも、結婚の相手に彼を選ぶかはまた別問題だ。


 そんな私の気持ちが伝わったのか、公爵はわざとらしいおどけた顔を作ってみせる。


「もちろん、それだけじゃないよ。今日会ったばかりとは言え、あなた自身も魅力的だ。巷の噂より更に綺麗だし、昼間の快活な様子も好みだったし……」

「私の望みに答えてくれてありがとう、と言うべきところかしら」

「気に入って貰えた? じゃあ、陛下の忠実なる下僕に僕も加えて貰えるかな」

「忠実な下僕なら、私の言うことを聞いて――その手を離しなさい」

「はは、強いなあ。でもそう、その気が強そうなところも良い。僕ら、うまくやってけそうだろ」


 明るい笑い声が夜空に響く。

 陽気な響きに引きずられ、思わず笑顔を浮かべそうになってしまう。

 怖い人だ。怖さを気付かせずに、相手を引き込む人。

 ペースに乗せられてはいけない。必死で渋面を取り繕った。


「私の意思はどうなるの」

「もちろん、あなたも満足させて見せます。僕がどんな風に女性に尽くすのか、何なら今から証明しましょうか――と、言いたいところなんだけど」


 公爵の手が、ぱっと私の腰から離された。

 直後、背後から足音が駆け寄ってくる。


「――ティルナシア公爵、これは」


 咎めるような低い声と共に、私の腰を公爵のものとは違う慣れた腕が支えた。

 背後を振り返り、そこに想像していた通りの姿を認め、私はほっと息をつく。


「ルインズ……」

「陛下……公爵閣下も、こんな夜更けではなく、お話がまだ続くのであれば明日以降に」

「そうだね、出直しするとしよう。それでは、リチェルーシア陛下。いずれまた正式にお話を持って参ります」


 微笑みながら一礼し、公爵は踵を返して去っていった。

 十分彼が離れたところで、私を支えていた手をルインズが静かに離す。


「話の続き、とは」

「昼間の話、やっぱり向こうはその気みたい。正式に来られれば、その時はこちらも正式に答えるしかないけど……」


 言いよどむ私に、ルインズは黙って目線で先を促した。


「こうやって先に言ってくれる辺り、あの人、悪い人じゃない気がする」


 沈黙を崩さぬまま、ルインズの眉間に皺が寄る。

 それから一拍置いて、「そうだな」と静かに肯定した。

 その声は落ち着いていて、他のどんな感情も聞き取れない。


「それがこの国の為ならば、多分」


 ルインズは最後までは言わなかった。言葉の途中で口を閉ざしてしまったから。

 少し寂しさも感じるけれど、その平静さこそがルインズの優しさと誠意なのだと知っている。

 公爵の言葉こそが帝国の意思なのだとしたら、私は決めなきゃいけない。


 この国の為に、より良い道を。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 公式なティルナシア公爵の訪問は、翌日のことだった。

 謁見の間、玉座に座った私の前に立つ姿は、どこか楽し気で冗談めいた雰囲気を纏っている。


 後ろに控えたルインズが、微かに眉を上げたのを空気だけで感じた。

 生真面目なルインズはこういう相手は苦手だもの。

 それに。


「リチェルーシア陛下におかれましては、ご機嫌麗しく――」

「ごめんなさい、あなたが私の望みを分かってくれるなら、まだるっこしい言葉遣いはやめて、昨晩みたいに話して貰える?」

「おや、気安いやり取りで良いって? 僕ときたら早々に訪問の目的を果たせたってことかな」


 顔を上げた公爵は笑顔で答えた。

 ちゃかすこの人の様子が面白くて、私もつい笑いそうになる。


「そうね、ティルナシア公爵。あなたの目的、叶うとも叶わないとも言えるわね」


 笑いながら答えると、公爵は目線で先を促した。

 私は頷き、玉座を立つ。

 公爵の前に歩み寄って、その目を真っすぐに見上げた。


「あなたと結婚は出来ないわ」

「へえ」


 私の答えは公爵にとってマイナスでしかありえないのに、どこか面白がっている。

 そういう人だと分かったから、私もまたこの人のことを嫌いになれない。


「僕と結婚しないなんて、勿体ないと思うよ」


 だから、瞬きしながらこんなこと言われたら、うっかり笑ってしまう。

 今日はもう、それで良いんだって気持ちでここに立っている。


「私もちょっとだけそう思うけど、ダメなの」

「そう、じゃあ誰と?」

「誰とも。私が誰かと結婚すれば、揉めるだけだわ。それよりも、もっと良いことを考えたの」

「へえ?」

「私、これから求婚してきた全員に『あなたと結婚するかも』って言っておくことにしたわ」


 公爵は今度こそ本気で吹き出して、私の顔をじっと見つめた。

 ルインズが咳払いで不快感を表してるけれど、この人がそんなの気にする訳がない。


「本気ですか、リチェルーシア陛下。そんな詐欺まがいの」

「ええ、本気。あちらにもこちらにも良い顔をしておいて、私が死ぬまでその気にさせ続けるわ」


 胸を張って答えたけれど、ルインズが再び咳払いしている。

 その咳払いでますますツボに入った公爵は、顔を押さえて笑い始めた。


「あはは! だけど陛下、その手はあなたが結婚したらもう二度と使えませんよ。ずっと効力をもたせるためには、独身でい続けなくちゃ」

「ええ、そうね。だけど、平気」


 言いながら、勝手に微笑んでしまう。

 そうよ、平気。

 結婚なんてしなくても、ずっと隣に立ってくれる人は、もういるの。

 名前なんてなくても良いって、言ってくれる人が。


「私、ソリスティア王国と結婚するの」


 お父様から受け継いだ、私の愛する王国。

 そして、私の愛する人の住む国。


 背後に立つルインズの顔は見えなかったけれど、はっと息を吸う音だけが聞こえてきた。

 公爵が愛嬌のある様子で、首を傾げて見せる。


「そんな大事な計画を僕に教えて良いのかな。他の求婚者みたいに最後まで騙さなくて」

「あなたはきっと、私と一緒に楽しんでくれるんじゃないかと思って。だって、まだ諦めていないでしょう、皇帝の椅子を」


 公爵の瞳が、一瞬、ぎらりと光る。

 私はその瞳に向けて片手を差し出した。

 貴婦人のように甲を上にしてじゃなく、男同士のように横を向けて。


「私、きっとバックアップ出来るわ、あなたの野望を。私達、夫婦じゃなくて友人になれると思うの。友人なら、望みをお手伝いするのも当然よね」

「帝国を敵に回すつもり?」

「いいえ、帝国は敵にはならないわ。だって、ほら、私のお友達が皇帝なんだもの」


 堂々と胸を張る私を、公爵はしばらく黙って眺めていた。

 少しだけ迷った後、ぎゅっと手を握った。

「あなた、本当に面白い人だなぁ」ってくすくす笑いながら。



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 上機嫌で退出したティルナシア公爵の後ろ姿が、扉の向こうに消える。

 かつん、と背後で靴音が鳴った。


「リチェルーシア陛下」

「リチェって呼んで」


 いつものやり取りは、戸惑うような声で途切れた。


「……リチェ」


 はっとして振り向けば、ルインズはどこか割り切れない表情を浮かべている。


「お前、誰とも結婚しないなんて、そんな――それは、まさか私の気持ちを思いやってなどと」


 迷っている。

 口ごもりながら、それでも私の傍へ近づいてくる。

 私は手の甲を差し出す。


「ただの思いやりだなんて、本当に思ってる? さあ、手を取ってちょうだい、ルインズ。私がこの国を治めるには、隣で支えてくれる人が必要なのよ」


 ルインズは私の前に跪き、下からそっと手のひらを添える。

 深い青の瞳が、親愛と敬意をこめて見上げてきた。


「女王陛下のお望みのままに――」



 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 ――かくして、ソリスティア王国中興の祖と言われるリチェルーシア女王の時代は幕を開けた。

 彼女はその治世の最後まで独身を貫き、王国の花嫁と呼ばれ国民の絶大なる人気を一身に受けた。

 その傍らには常に、彼女を支え続けた秘書官がいたと言う。

 次代の国王となった彼女の甥は、彼女が人知れず産んだ実の息子なのではないかとも伝えられているが、真実は最早誰にも確かめようがない。

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