第1文 来客
『おみずをください』
そう書かれたくしゃくしゃの紙に俺は動きを止めた。
俺と背丈もそんなに変わらないその紙の持ち主は、布に包まれて顔も紙を持つ手も隠されている。
「………………っ」
玄関のチャイムが鳴って玄関を開けたらこんな状況だ。素直に水を持って来ようか数秒迷ったが、そいつに俺に対する敵意は無さそうで。
それどころか、風が吹くたびふらふらとおぼつかない。
「ちょ……ちょっと待ってろ」
おそらく衰弱しているであろう相手のふらつきに内心ハラハラしながらキッチンへ向かった。
その時。
ガタンッ
何かが床に転がる音。
勝手に家に上がり何かを漁ったのかと思い、用意したコップもそのまま玄関へ引き返した。
しかし、そこには。
さっきの客が倒れていた。
「お、おい!? 大丈夫か!?」
急いで抱き抱えると異様に細く、体がふにゃりと柔らかい。体重も無いに等しいような軽さだ。
でもいくらやせ細って衰弱していても、骨の感触くらいはあるはず。
不思議に思ってこの子を包む布を少しずらした。
そこにあったのは緑色の肌。
お世辞にも人体とは言えない、何本にも枝分かれした手。
頭には、頭蓋骨を簡略化したような丸いパーツ。
明らかに、人ではない。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
あぁ、なんで。
なんでこんなことになったんだっけ…?
〜・〜・〜・〜・~・~・~・~・~・~
「ねぇ、知ってる?」
「なになに?」
「なんか最近、変な人がこの辺りでうろついてんだって」
「え? 今曰の朝先生が言ってた不審者?」
「違う違う。そっちじゃなくて、別の人」
「そうなの?じゃあ知らないかも」
「あのね、チャイム鳴らされて玄関を開けると、全身を薄汚れた布で隠した子供が立ってるの。その子は何回開閉されたかわからないしわくちゃ小さな紙を広げるんだって」
「紙には何か書いてあるの?」
「必ず『水をください』って書いてあるみたい。顔も布で覆われてて見えないし、声も出さないから誰なのか全くわかんないって言われてる」
「ほ〜……そんな都市伝説なんかあったっけ?」
「無いから全部謎なんだよ〜。怖いよね」
「確かにね……」
俺の席の横でそんな会話が広がった。
女子達って結構そういう話題好きだよな〜とか思いながらあくびを一つ。
次の授業が終われば帰れる……。
頭を振って何とか眠気を飛ばした。
「なぁに? 眠そうな顔しちゃって」
「あぁ……昨日ゲームし過ぎたみたいだ……」
その時、目の前にくるくるとクセのある髪が背後から視界に入る。
髪の隙間から覗く気の強いつり目にすらりとした腕。
初対面の人なら思わず怯んでしまいそうな瞳でニヤニヤと俺を睨んでいた。
「時間くらい見て行動したら? 優命。あんた今、私と同じくらい目つき悪いわよ?」
「はいはい。肝に銘じておきますよ〜」
小学三年生には見合わない表情とセリフを吐く女子生徒。紫 陽花に名前を呼ばれたが、さっき追い払った眠気が戻ってきて目の前の机に突っ伏す。
鋭い眼光はその行動が気に入らないらしく俺のほっぺやら髪やらを指先でつっついたが、やがて反応が返ってこないことが分かると頭を軽く撫でながら、
「まったく……」
と呟いて俺のそばを離れていった。
あぁどうしよう。
眠たくて仕方ない。
とろり、心地よい眠りに誘われて俺は少しの間意識を手放そうとした瞬間、授業の鐘がスピーカーから鳴り響いた。
「んあぁ……? もう授業か……」
教室に入ってきた先生を横目に、俺はまた睡魔と戦う。
その姿が滑稽なのか、横でまたあの鋭い眼光がクスクス笑っているのが聞こえた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・〜
町も空も真っ赤に染められた帰り道。
陽花と歩幅を揃えて歩いていると、陽花がそういえば、と口を開いた。
「優命、あんたあの女子達が話してた話題、覚えてるかしら?」
「ん? 『水をください』って書いてある紙を持った子供……だっけか?」
「そう。水をくださいなんて、変な話よね。今なんてそこら辺の公園でも水飲めるのに」
「何か理由でもあるのかな……」
「あ〜……まぁたそうやって相手を受け止めようとする……。それ、あんたのすっごく悪い癖だっていう自覚ある?」
またまたつり目に睨まれて苦笑いする俺。
数秒歩いているうちにその噂にちょっと疑問ができて、今度は俺から口を開く。
「ちょっと待て、応じた場合と断った場合ってどうなるんだ?」
「さぁ? こんな簡単な依頼、断る方が珍しいわよ。聞いた話じゃ、応じると深々と頭を下げて水の入ったコップ持ったままどっか行っちゃったみたいだけど」
「泥棒じゃん……」
「次の朝には玄関にからっぽのコップが置いてあるらしいわ」
「泥棒じゃないじゃん……」
「何が目的かわからないから、みんな気味悪がってるのよ。私達人間にとって、『わからない』ことがどれだけの恐怖かってことを改めて実感したわ」
陽花は「はぁ……」と何度目かわからないため息をついて、心底面倒くさそうに自分の髪を指先で遊ばせた。
こいつは時々、俺には少し難しい話や単語を織り交ぜる。
そこがお前の悪い癖だぞ。と言い返したくなったが、あの眼光で、今度は殺気を込めて威圧をかけられるのがオチなので我慢することにした。
「それじゃあね。また明日」
「ああ、またな」
沈黙が少し続いたあと、分かれ道で短く会話を交わしてまた歩を進める。
いつも通りの道にちょっとだけ変な会話が混じっただけの、普通の日常になるはずだった。
家に帰って小一時間。
ピンポーンという音が自室に届いて、ドアを開いた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・〜
「…………………………」
ん?
んん??
こうなった原因が見当たらないぞ???
というより、"偶然ここに立ち寄った"と言った方がしっくりくる。
さぁここから大変だ。
まずこの生命体が他人から見えないように開きっぱなしだったドアを閉じる。
そしてさっき倒れてしまった病人(?)をまた抱え直して、階段を駆け上がり二階へ。そして一つの部屋のドアを
「ほいさぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
蹴破った。
蹴破ったと同時にまた一つの悲鳴が響く。
どうやら俺の1回目の悲鳴を聞いて様子を見に行こうとしたらしい。衝撃に耐えられなかったドア及び木の板が寝転んだ床のすぐそばに、悲鳴の主は立っていた。
「何してんの!? 何してんの!? お姉ちゃんの部屋のドアこれ……これ何回優命にぶっ壊されてると思ってんの!? お姉ちゃんそろそろ優命の脚力怖いんだけどぉ!!」
「それどころじゃないんだよ姉ちゃん! この子、すごく弱ってて……どうしよう!」
「お姉ちゃんにとってはすごくそれどころだよ!? 酷いなぁもう!! というか何? 犬でも拾ってきた……の…………??」
さすがに状況を理解できずに戸惑いを見せる成人女性。
そりゃそうだ。俺が抱えてるのは犬でも、猫でも、鳥でもない。
得体の知れない、未知の生命体なんだから。
「…………………………」
「…………………………」
互いに沈黙が重なる。
ほかの人から見たら10秒程度の沈黙だったかもしれないけれど、俺にはその無言がとても重たく、長いものだった。
やっぱり、ダメかな。
この子のこと、気味悪いって。
助けなくていいって言うかな。
俺がこの間にぐるぐると暗い思考を巡らせていると、途端に姉ちゃんの大声で現実に戻される。
「優命! お姉ちゃんのベッドにその子寝かせて! 出来ればその布剥ぎ取って!」
「え!? あ、うん!」
「ちょっとの間だけその子には全裸になってもらうけど、少し調べないとどうしたらいいかわからないからお願いね!」
「了解!」
「1階の物置部屋にタンスあるでしょ?使ってない服があるはずだからこの子に似合いそうなの持って来て!」
「イエッサー!」
姉ちゃんの適切な対応に俺は安堵する間もなく、命令に従って体を動かしていた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・〜
数十分後。俺が何着かの洋服を持って姉ちゃんの部屋に入ると、部屋の主はベッドに横たわる来客に夢中だった。
「うーん……この数本に枝分かれした指先の感じといい……同じような状態のつま先といい…………植物の根の特徴がぴったり当てはまる……でもそうなると……この子の葉や花弁、受粉に必要な雄しべや雌しべは一体どこ……? ……まいったな〜…………」
「姉ちゃん、洋服持ってきたぞ」
「ありがとう。そこに置いててほしいな」
「うん」
こっちを視界にも入れず、そう答える姉ちゃん。
来客を調べることに集中しているんだろう。こういう時の姉ちゃんは目線を別の場所へは絶対に移さない。
「ふぅ……」
短いため息をついてようやく俺を見た。
屈めていた姿勢を伸ばし立ち上がったと思うと、姉ちゃんの命令で俺が用意したコップを掴み、また屈む。
「……あー……やっぱりダメかぁ……」
「何してるんだ?」
「人間の指先にあたる場所が植物の根と似てるんだよ。だから、こうやってこの子の手を水に入れたら回復するかな〜なんて思ったんだけど……ちょっと安易過ぎたみたい。食事と一緒で、意識がないとダメなのかな……」
姉ちゃんも姉ちゃんなりに手は尽くしているのがはっきり分かった。いつも喚いたりツッコんだりとテンションが高いこの人が、今は額に汗を浮かべている。
あはは、と苦笑いする姉ちゃんの表情に胸が痛くなった。
「ごめん、姉ちゃん……」
「ん〜? どうしたの? 優命はな〜んにも悪い事してないでしょ? ほら! だいじょーぶだいじょーぶ!」
自分の決断が正しいのかわからない。
でも、この子がこのまま消えちゃいそうに見えた。
そんな小さな理由で姉ちゃんに迷惑をかけるなんて……。
俯いて肩を落とすと、姉ちゃんがいつも通りの元気な声で俺の頭をふわりと撫でた。
「よし! じゃあ助手君には患者の着替えをお願いしようかな! か弱い患者君をくれぐれも慎重に扱ってくれたまえ〜。お姉ちゃんはちょっとトーイレっ」
「う、うん。行ってらっしゃい」
ウインクと同時に指パッチンして部屋を出る黒髪に力無く手を振って、緑の体に目線を落とす。
人体の骨格を簡略化したような丸みのある奇妙な形。
触れてみるとするりと滑らかで柔らかく、少し乱暴にしただけで千切れてしまいそうで。
この体に洋服は重たいんじゃないかと思ってしまうくらい脆く見えた。
噂を聞いた時に喋らないことが少し気になっていたんだけれど、その理由もひと目でわかる。
口が無いのだ。
それと思しき場所はあるんだけれど、口というか…切れ込みそのものが無い。
どうやってご飯を………いやいや、さっき姉ちゃんが手が根っこの可能性があるって言ってたっけ。
傷つけないように洋服を着せて、軽すぎる体を片手で浮かせてズボンを履かせる。サイズが少し大きかったのか手足が隠れてしまったけれど、布であれだけ必死に見せなかったんだ。きっとこの子自身も見られたくないものなんだろうと思い、そのままにしておいた。
思考が落ち着いてきてだいぶ余裕が出てきた。姉ちゃんのおかげだな。
………………………………。
「…………あっ!」
俺がぼんやりそんなことを考えながら息をついていると緑色の指先がゆっくり起き上がる。
指先はそのまま目元に、くしくしと目をこすっているような仕草を見せた。
目が開く。
その中は……星も見えない夜みたいに綺麗な真っ黒で………………。
「………………!?!?」
「あっ、ええっと、ごめんな!? お前家に来たあとぶっ倒れちゃって! それで……! そのぉ…………!」
「え!? なに!? 目ぇ覚ました!?」
ガバッと勢い良く起き上がって変わっている衣服と辺りを忙しなく見渡す緑色と、わたわたと両手をばたつかせて状況を説明しようとする俺と、その俺の声に反応して響く足音も気にせずキィーッと部屋の前の廊下をスライディングする成人女性。
……なんだこの状況…………。
続く