7 欠陥(NOISE)
二〇一六年十二月三十日 午後十二時五十五分
私達四人は、私の家に置いたこたつで除夜の鐘のテレビ番組を観ていた。
私はほづみがうたたねしているのを確認して、頬を軽く人差し指で突いた。
ぷにぷにとした感触が指先を刺激する。かわいい。
美月は私の手打ち蕎麦をお茶碗三杯も食べて、動けなくなっている。
ほづみと一緒に作ったたくさんの天ぷらは、ラップにかけてキッチンに並べてある。朱莉がポテトをつまみ食いしようとするのを、私は何度か注意した。
「せっかくなら熱々のポテトが喰いたい」
「さっきあげたじゃない」
「美味いものは、もっと喰いたくなるだろ?」
美月はごろりと寝転がり、朱莉のほうを向いた。
「朱莉ちゃん、そんなに炭水化物ばっかり食べていたら、太るよ?」
「冗談言え。アタシ達は、魔力があれば、いつまでも美貌を保てる。それは人間の身体だろうが関係ない。アタシらの思い描く常識よりも、人間の肉体なんてものは、はるかにちっぽけなものだからな」
私は少し寂しい瞳を指輪に落とした。左手の甲を二人に見せる。
「この指輪自体、不条理そのものよ。でも、所詮は欲望を体現した悪魔の産物でしかない。もし、私のような人間の器を持つ悪魔が、半永久的にこの世界に残されたなら、社会は私をどう思うだろうか。私だけではない。美月も、朱莉も、そしてほづみも同じこと。いつまでも若さと美貌を保って生きていられるということは、その願いと同じだけの代償を背負わなければならない」
何かを得ることは、同時に、何かを失うことでもある。大金を手にして家庭が崩壊したり、分不相応な地位を手に入れて恨まれたりすることだってある。
私のように、愛を手に入れた代償に、愛を失うことへの悩みや、愛を断ち切らなければならない悩みを抱えなくてはならないこともあるのよ。
「まあ、あたしはそういうこと気にしないけどね。ちゃんと来年がくるのかどうかもまだ怪しいし」
「美月、怖いことを言わないで」
「あいよー」
美月はごろりと寝返りを打つ。
私はほづみのすう、すう、という心地よい寝息を耳にしてこころを落ち着けた。
「なあ、ほら、そろそろだぞ」
除夜の鐘が鳴ると同時に、私の思考に白黒の砂嵐が走った。
心臓が跳ね上がる。ほづみは無事、私の身体に異変はない、
美月と朱莉は変わらずテレビを観ている。
魔物の気配は……感じられない。
私は恐る恐る美月へと眼球を傾けた。
「……ねえ、美月?」
「かなえちゃん、二〇一七年おめでとう!」
テレビには二〇一七の文字が花火で描かれている。
私は数度瞬きをした。
「ええ、おめでとう。今年もよろしくお願いします」
私は居住まいを正して、深く礼をした。美月と朱莉も私に倣う。
私はおもむろに顔を上げた。さらさらとした黒髪が目にかかる。
「美月。何か、変な感じがしなかった?」
美月は目玉をどんぐりのように丸くした。
「え、いや、別に?」
「そう。なら、私だけ?」
朱莉は腕を組んで、首を傾げている。
「いや、アタシも薄っすらとだが、変な感じがした」
美月は冷や汗を垂らして、固唾を呑んだ。
私はほづみを守るように、後ろから強く抱きしめる。
「ん……かなえちゃん?」
「美月、確認よ。今日は二〇一七年一月一日であってる?」
「そ、そうだよ」
「私達はいまいくつ?」
「この世界では十六歳のはずだよ」
私は小首を傾げた。
美月も、ほづみも、私と同じ。私のせいで、過ごした時間が狂ってしまっている。正確な年齢は、とうの昔に忘れてしまった。
「そう。なら、私達は今年の四月から何年生になる?」
「二年生だよ」
「違うわ、三年生よ」
私は表面上冷静を装っているけれど、内心はどきどきしていた。
美月は目をビー玉のように円くする。
「えっ……あれ? そうだっけ。あはは、あたしの勘違い?」
美月は慌てて異空間ポケットから学校用かばんを取り出す。
こたつの上でかばんを引っ繰り返し、出てきた生徒手帳を乱暴に開いた。
去年の生徒手帳には、栗原美月の名前と、一年生であることが記されている。
私は表情を凍りつかせた。美月は戸惑いを隠せないでいる。
「……うん? あれれ? あたしのほうが合ってる?」
つまり、新しく貰う手帳には二年生と書かれていることになる。
……そんなはずはない。もう結界は解いたはずだ。そうでなければ、新年を迎えられるとは思えない。
私はふと気になって、箪笥の引き出しから保険証を取り出した。
生年月日は、私の記憶と異なり、いまの私の社会的年齢に合わせて、私の誕生年は二〇〇一年と記載されている。誕生月と誕生日は、十二月一日、それは変わらない。二〇一七から二〇〇一を引くと、十六になる。つまり、この世界では、私は今年で十六歳になる。……頭が痛くなってきた。
美月は私の保険証を覗き込んだ。美月は生徒手帳の生年月日欄を確認する。
朱莉は、美月の生徒手帳を覗き込んだ。美月は眼を何度かしばたいた。
「えっ? あたし十五歳?」
「なあ、アンタは誕生日いつなんだ?」
「あたしは七月だよ。ほづみんは三月」
「ふうん。アタシは八月」
私は部屋に入ってきたエプロンドレス姿の小百合を睨んだ。
「かなえお嬢様、ご挨拶に参りました。あけましておめでとうございます」
小百合は私の前で丁寧にお辞儀をする。私達は律儀に正座してお礼を返した。
「小百合さん、大晦日もお掃除していたの?」
美月はすぐさまこたつに足を戻した。小百合のエプロンからは若干、洗剤の香りがする。少しくらい休んでくれてもいいのに。
「はい。居候として、当然の責務です」
「ハ、居候、ねえ」
朱莉は軽く肩をすくめている。私のこころはまだ落ち着かない。
「ねえ、変なことを聞くけれど、私達が今年で何年生になるかわかる?」
「かなえお嬢様は今年で十六歳、二年生になられるはずです」
「……そう。ありがとう」
小百合は何度か瞬きをしてから、コホンと咳払いをする。
「では、仕事に戻ります」
「少しは休みなさい」
小百合は、刈谷家の使用人として居ついてしまった。
ここで働く理由は、聞いても教えてくれない。給金は頑として受け取らない。
不気味であり、申し訳なくもある。
私は使い魔に小百合の動きを監視させている。目立った動きはない。
誰であろうと、ほづみ達に危害を加えるようなら、殺すつもりでいる。
「では、片付けを終えたら、そのように」
小百合はスカートの裾を摘まんで小さく礼をして、掃除用具の片付けに向かう。
「これで、美月や小百合の記憶が捏造されていることがわかったわ。朱莉は?」
「アタシはアンタと同じ、ちゃんと覚えている」
「うええ、もしかして、学校のみんなも……」
「私達は永遠にこのままなのかもしれない」
私が結界を張っていたとき、何もかもが元通りになるわけではなかった。今回、記憶が捏造された原因はわからないけれど、幸い、私は潤沢な資金があるので、もし、学費でほづみや朱莉、美月の生活が圧迫されたとしても、何とかなる。
私の力なら、その気になれば、記憶の矛盾を改変できる。でも、もし物事が悪い方向に転がってしまったら、私達は不正に入学したとして退学処分を受けてしまうかもしれない。もちろん、いざというときには、他人の記憶を上塗りするつもりよ。けれど、できることなら、緊急時以外には、この能力を使いたくない。私自身が記憶操作に懲りているからよ。
「このことは私達だけの秘密にしておく」
朱莉は神妙な面持ちでうなずいた。
「ああ、そのほうがいいだろう。下手をしたら怪しまれるからな」
美月は急に真面目な顔つきになって、酷く悩んでいる。
「でも、このままじゃ……」
「生活のことなら、私が責任をとる。元はといえば、私がすべての問題の元凶を振り撒いてしまったのだから」
「またまたー、かなえちゃんったら」
美月はけらけらと笑っているけれど、私は本気よ。
仕事をしても資金が足りなくなって、本当にどうにもならなくなったときだけ、大規模な記憶の捏造をする。
辛い思いをするのは、私一人で十分よ。
この事件、確証はできないけれど、おそらく犯人は朱莉よ。
私のテレパシーが通じない朱莉には、魔力の気配を感じられるとは思えないわ。
私の仮説が正しければ、朱莉は願いか魔法で時間をいじったことになる。だから、私がルナークを潰す前に願いを叶えたなら、朱莉はおそらく魔力を感知できるようになっているはず。なら、このタイミングで改変が起こるように願っていたというの? そうでなければ、単に話を合わせにきただけかもしれない。
朱莉にそれとなく問い質すべきだろうか。
けれど、友達を疑うべきではない。
ほづみも、美月も、朱莉も、私にとても優しくしてくれる。
なら、私もそれに応えなければならない。
仮に朱莉が犯人だとしても、私に朱莉を責める資格はない。むしろ、私は朱莉の望みを応援したい。でも、ほづみを危険に晒すような願いなら、私と敵対してしまうかもしれない。……胸が痛い。
ほづみは寝てしまったし、美月に相談してみよう。
私はほづみをベッドに移動して、美月とこたつで緑茶を嗜んでいた。
私は、朱莉が花を摘んでいるうちに、考えを話した。
「うん?」
「……というわけなのだけれど」
美月は不思議そうに首を傾げていたけれど、「まあいいか」と片付けた。
「ほほう。朱莉ちゃんが怪しいと。じゃあ、朱莉ちゃんに聴いてみようよ。今回の不思議な事件、朱莉ちゃんが犯人だよね、って」
私は飲んでいた緑茶を噴き出しそうになった。
「ちょ、待ちなさい。隠そうとしていることを直接問い詰めてどうするのよ」
美月は話を聴き終えると、ごろりと寝転がる。
「だって、聴いてみないとわかんないもん。違うっていうなら、違うことにすればいいし、そうだっていうなら、ちゃんと理由を聴いて、納得するだけだよ」
「そういうものなの?」
私は小さく溜息を吐いた。やがて、ドアがそっと開かれる。
「あ、朱莉ちゃん、ねえ、もしかして朱莉ちゃん、何かした?」
「ん? もう、ばれちまったのか?」
部屋に入ってきた朱莉は、さらりと自白した。
私は涼しい顔をしながら、朱莉にちらりと視線を向ける。
「まさか、この不可解な現象は、あなたの仕業なの?」
朱莉はいつもの調子でこたつに戻る。
「黙っていて、ごめんな。アタシがちょっと魔法でいじった」
「魔法? 私のテレパシーが通じなかったのに、何を言っているのよ」
テレパシーが使えない朱莉に、魔法が使えるとは思えない。だから、私の目の届かないところで、ルナークに祈った、そうでなければ辻褄が合わない。
『ん? ちゃんと通じているぜ』
私は軽く目をしばたたいた。朱莉のテレパシーが頭の中に響いてくる。
頭の中で組み立てていた作りかけのパズルが、ばらばらになった。
「朱莉、私のテレパシーを無視していたの?」
美月は小さくあくびをしている。たぶん何も聴いていない。
「なんつうか、そのほうが人間らしいかな、って」
私はだんだん頭が痛くなってきた。
『……なら、普通の人間が指輪もなしにどうやって魔法を使うっていうの?』
『魔法っていうのは、これを空に一発撃っただけだ』
朱莉は右手で握った二丁拳銃の片方を私に晒してみせた。便利ね、それ。
『魔物との戦いでも役立ちそうね』
『この銃は、魔力の代わりに生命力をエネルギーに変えることもできる。だから、こういう大規模な魔法は乱発できないけどな』
『そうね。祈りや魔法には代償が付きもの、仕方のないことよ』
代償なしに無尽蔵な願いを叶えられるとしたら、人間は欲望に溺れて、生きる意味をなくしてしまうかもしれない。あるいは、願いの力で破滅するかもしれない。何でも代償なしに願いが叶う世界があるとしたなら、それこそ地獄よ。
さて。普通の人間はテレパシーが使えるものなのだろうか。
私は助けを求めるように、美月のほうへと虚ろな目を向けた。
「ねえ、美月。人間のほづみや美月はテレパシーが使えない……はずよね」
美月はにこりと笑った。
『イエーイ、かなえちゃん、聴こえる?』
美月の元気な声が、私の頭の中で強く木霊した。とてもうるさい。
「ちょ、待って。もしかして、私、何か大きな勘違いをしていたの?」
普通の人間はテレパシーを使えないのではなかったの?
「なーんだ、そっかあ。かなえちゃん、私達がテレパシーを使えないものとばかり思っていたのか。何か変だなー、と思ったら、そういうことかー」
美月は身を起こし、こたつの上に右頬を押し当てた。
ほづみも美月も朱莉も、人間に戻ったとはいえ、〈普通の人間〉ではない。
美月に至っては、指輪がなくても魔物と渡り合える超人だ。
たとえ魔物ではなくなっても、身体能力はほとんど据え置きなのかもしれない。
私は空になった湯呑みを、そっと、こたつに置いた。
一度、人間を辞めてしまったら、簡単には〈普通の人間〉には戻れない。私達は一生、人間社会の外側で暮らしていかなくてはならない。
朱莉は美月に「廊下が寒い!」と小声で文句を言っている。後で、廊下にもカーペットを敷いておこう。
「ねえ、朱莉。私が言えたことではないけれど、どうしてこんなことをしたの?」
「ああ、それな。どうしてもプリンが食べたかったんだよ」
「え?」
「ん?」
朱莉は足先を伸ばして、こたつの中にある私の膝を突いた。
私はぽかんと口を開けていた。
朱莉は黙々とプリンを食べ始める。
美月は隣で笑いを必死に堪えている。
「プリン?」
「ああ。かなえも喰うか?」
「いえ、その……。プリンを、どうしたのよ」
「だから、プリンをたくさん作るために、魔法を……」
朱莉が小さく礼をする。朱莉の右ポケットから小さな私の姿をした使い魔が顔を覗かせている。いつもそこに入れているのね。
いえ、そうではなくて。
「この世界の時間を狂わせたのは、あなたではないの?」
朱莉は被りを振り、肩をすくめてみせた。
「アタシにそんな大層なこと、できねえって。それより、冷蔵庫の中、プリンだらけになっちまった。ごめんな」
「構わないわ。私が何か言えたことではないもの」
いえ、だからそうではなくて。
「ああもう、じれったい!」
美月は立ち上がり、机を叩いた。意志の強い栗色の瞳が部屋の隅を射抜く。
「誰のせいだか知らないけどさ。あたしものんびりしたいし、将来のこと、ちゃんと考えたい。けれど、いままで受験のために勉強してきた先輩はどうなるの。また最初からやり直さなければいけない。みんなには一度しかないチャンスを魔法で増やすのは、ずるいよ」
美月がちらりと私のほうを見る。ちょっぴり哀しそうだ。
「あたしは、誰かの人生を犠牲にしてまで成し遂げたいとは思わない。かなえちゃんは、かなえちゃんの人生を犠牲にしたぶん、後悔することになったと思うよ」
「耳が痛いけれど、後悔はしていない。私の選んだ道だから」
私はこめかみをそっと押えた。
朱莉は困り顔で、じっと固まったまま動かない。
「どうしたんだ、突然。犯人が誰だかわからないのに、怒鳴っても仕方ないだろ」
「いや、その……あたし、誰かを犠牲にするなんて許せなくて」
美月は寒さに身震いして、そそくさと座り、こたつに脚を入れた。
さっきまでの威勢はどこにいったのか、美月は机に頬を着けてだらけている。
「まあ、起きちゃったことはしょうがないか。ほづみんにも後で聴いてみよう。もしこれが悪いことだとみんなが思うなら、元に戻せばいいよ。……元に戻せるかどうかは、わからないけれど」
「……そう」
こころ苦しいけれど、私はこの状況を元に戻そうとは思っていない。もしかしたら、私が無意識のうちに貼っている結界かもしれない。その時は……美月と敵対するかもしれない。でも、今回は少し事情が違う。
私はこの時間のねじれを有効活用させてもらう。私が前に貼っていた結界とは違って、世界を分断するほどの力は感じられない。受験や将来のことで頭を悩ませなくてはならない苦痛な生活よりも、気兼ねなく過ごせる高校生活が続くほうが時間を取りやすい。ほづみ達を守るためには、私がいつも傍にいる必要がある。それに、このまま高校生活が続くようなら、私は半永久的にほづみの傍にいられる。……けれど、私はいつかほづみとの運命の紅い糸を断たなくてはならない。
ほづみに掛けられた魔法は、私の祈りによるものだ。祈りは祈りにより、不条理は不条理によってのみ覆せる。けれど、祈りは相応の代償を伴う。私がルナークから奪った力は呪われている。ルナークなら思い通りに操れるのかもしれないけれど、私にはとても扱えきれない代物よ。
第二、第三の被害を出さないためにも、私はルナークから奪い取った、願いを叶える力を使わないことに決めている。私はほかの方法で、ほづみのこころを解き放ち、自由にしてあげるように努力する。
だから、お願い、ほづみ。
もう少しだけ、傍にいさせて。
~NGシーン~
美月は立ち上がり、机を叩いた。意志の強い栗色の瞳が部屋の隅を射抜く。
「誰のせいだか知らないけどさ。あたしものんびりしたいし、将来のこと、ちゃんと考えたい。けれど、いままで受験のために勉強してきた先輩はどうなるの。また最初からやり直さなければいけない。〈朱莉ちゃんが望むまで、何度でも。〉みんなには一度しかないチャンスを魔法で増やすのは、ずるいよ」
「ちょ、どういうこと?」
「あれっ? あたし、何か変なこと言った?」
「誰のせいだか知らないのにアタシのせいになるのか……?」
「……あれー? ごめんよ? おっかしいなぁ」