5 魔獣ルナーク(LUNARK)
二〇一六年十二月二十九日、午後六時。学校からの帰り道のことよ。
朱莉は「魔物を狩る」と言い残して、先に帰っていった。
「じゃあなー、すぐ戻る」
「朱莉ちゃん、一人で平気かな……」
ほづみは朱莉の姿が見えなくなるまで手を左右に振っていた。
クリスマスにほづみと歩いた、商店が建ち並ぶ煉瓦造りの道を歩く。
ほづみの苦笑いした横顔が街頭に映える。
「あはは、かなえちゃん、先生に向かって、あの態度はどうかと思うよ」
私は筆記用具出さずに、ずっと黒板と睨めっこしていた。
「……善処する」
私は髪を右手の指先でくるくると回し、植え込みの草に目を落とす。
「もう、かなえちゃん。いくら簡単でも、ちゃんと勉強しないとだめだよ」
「お、ほづみん、かなえちゃんに言うようになったね」
「いつまでもぐうたらしていると、美月ちゃんみたいになっちゃうよ」
「おおう、ほづみん、あたしにはとっても辛辣だねえ……あはは」
美月はけらけらと笑っている。
指輪の魔力さえあれば、体型を気にすることはないはず。
……指摘するのは、野暮な話か。
ふと、私は強力な魔物の気配を感じた。おそらくはルナークよ。
「……美月」
「えへへ、よーし、かなえちゃん。これからはほづみのためにも、あたし達に勉強をたんまりと教えておくれたまえ……わっぷ」
私は美月に学校用鞄を放り投げた。美月は少しよろめきながらも受けとめる。
「ちょっと用事ができたわ。先に帰っていて。美月、ほづみを頼んだわよ」
「あいよー。ほづみん、行こう」
美月は満面の笑みで、ほづみの肩にがっちりと腕を回した。
ほづみは私をじっと見つめて、たじろいでいる。
「えっ、かなえちゃん、また危険なことしない?」
「心配しないで、ほづみ。私はいつもほづみの傍にいるから」
ほづみの傍にいる。私はほづみの気持ちを祈りの力で捻じ曲げて、ほづみの愛を独占している。……私は、ほづみの気持ちを思い通りに操っている?
私の心臓がきゅっと押しつぶされるような感じがした。
ほづみと繋がった尊い紅い糸は、ほづみのこころと身体を絡め取り、ほづみのことを、私のこころを満たす人形にしてしまっている。
……だめ。こんなこと許されない。ほづみの本当の気持ちを考えてあげられていない。ほづみは操り人形ではないのだから。
ほづみの傍にいたい。でも、それをほづみが望んでいないことかもしれない。
どうすればいいのだろうか。
「かなえちゃん?」
ほづみが私の顔を覗きこんでくる。どうして景色が歪んでいるの。
……いけない。ほづみに心配を掛けないようにしなければならない。
涙を堪えながら、胸に左手をあてがう。
「何でもない」
「ほんとうに? かなえちゃん、たまに、辛そうな顔をしているよね」
「心配しなくても平気よ」
「そうかな……」
「ええ」
適当な言葉を並べて取り繕う。
黒髪を右手の甲でかきあげて、こころの中のわだかまりを吹き飛ばした。
どうすればいいか。簡単なことだ。ほづみと繋がった運命の紅い糸を断ち切ればいい。裏庭のチューリップの茎を裁ち鋏で切り落とすように。
もし、ほづみの愛が失われても、ほづみを陰から見守ることはできる。どんなに不幸な結末が待っているとしても、ほづみの意志を尊重しなければならない。
私は罪を償わなくてはならない。
世界に蔓延した呪いを浄化し続けなければならない。
もしも孤独に陥っても、成すべき使命は変わることがない。
自分のこころを殺してでもほづみ達を守り抜き、悪しき魔物を狩り続ける。
それが私に課せられた責任だ。
私は薄く微笑み、小首を少しだけ傾けてみせる。
ほの暗く輝く黒髪の先端が微かに揺らめく。
私の闇色の瞳をほづみの薄茶色の瞳に重ねた。
「ほら、行こうよ、ほづみん。夕飯作って待ってようよ」
美月が軽くほづみを揺さぶる。ほづみは振り子のように揺れ動く。
「少しの間だけ、お願いね」
ほづみを美月に任せて、二人に背を向け。闇に溶けていく。
「この辺りにいるはず……」
私は朱莉がアルバイトをしていた店の向かいの家の屋根に佇んでいた。
ルナークが東雲高校の一年の女子生徒と相対しているのを目にした。
私の瞳は焦りと憎悪で紫色に輝いた。
転送魔法を用いて、その場で黒のゴシックドレスに着替える。
あの子、鈴白の同好会にいた後輩ね。
私の後輩は怯えた様子でルナークを見上げている。
もちろん、放っておくわけにはいかない。
拳銃を顕現させ、容赦なくルナークの右のこめかみを撃ち抜いた。
後輩は小さな悲鳴をあげて腰を抜かしている。
「待ちなさい」
「は、はい」
後輩の眼前に降り立ち、彼女の目をじっと見つめた。
「ちょっと眠ってもらうわよ」
ルナークと関わった記憶を消し、眠りにつかせる。
ぐらりと傾いた少女の身体を両腕で支える。
そのまま異空間を通じて美月のベッドに放り投げる。
「ちょっとおー! 今度は何!」
「あ、かなえちゃんだ」
近くの勉強机で、ほづみと英語の勉強をしていた美月は素っ頓狂な声を上げた。
怒っているような、喜んでいるような、複雑な表情をしている。
私はほづみに手を振りながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。私達の高校の生徒よ。ルナークに襲われていたから、ちょっと助けてあげようと思って」
「だからって、何であたしの家に放るかなあ」
「わかった。わたしがちゃんと面倒を見てあげるよ」
「ちょっと、ほづみん! ここ、あたしの家!」
「でも、美月ちゃんは絶対いいよって言ってくれるもん」
「うっ、それは、そのー……。ほら、あたしって、正義の味方だから」
照れる美月をほづみが撫でている。ちょっとうらやましい。
「私はこれからルナークを懲らしめてくる。今日の夕飯は頼んだわ」
「よーし、美月ちゃんに任せなさい!」
「美月ちゃん、今日はわたしが当番だよ」
「あれ、そうだっけ?」
「頼んだわよ」
私はほづみの頭をぽんと撫でてから、異空間を閉じた。
さて、どう調理してやろう。
私は倒れ伏すルナークの左角を右手で掴み、路地裏まで引きずる。
「何のつもりだ」
「問答無用よ」
そのまま簡易結界を張る。
これなら人目につかない。
私はルナークの角を握る手に力を込め、根元から圧し折った。
「目障りよ」
私は角を放り捨て、全身で円を描くように、ルナークの顔面を蹴り飛ばす。
ブーツの足先から、ルナークの頬骨が砕かれる感触を得る。
牛型の魔物は、煉瓦造りの壁に叩きつけられた。
ルナークは表情ひとつ変えずに、荒い鼻息を漏らす。
「何故、刈谷かなえはルナークに当たるのか」
私はルナークを見下して、怒りをあらわにする。
「お前が気に入らないからよ、この悪魔」
小銃を構えた私は、ルナークの両目に銃弾を一発ずつ撃ち込んだ。
小さな赤黒い血飛沫が私の頬を濡らす。
黒いゴシックドレスに付着した血痕は、すぐさま浄化される。
「願いを望んだのは刈谷かなえである。ルナークは人間を研究対象とする代わりに、大いなる力を与えたまでである。何ら非難される筋合いはない」
「大ありよ」
みるみるうちにルナークの瞳は再生していく。
私は再生したばかりのルナークの両目をもう一度弾丸の的にした。
火薬の弾ける音が耳を突き抜ける。
「願いを叶えるために、どうして無意味な代償を支払わなければならないのよ。どうして命を救うために、多くの命を犠牲にしなければならないのよ」
私の冷淡な口調に、ルナークは淡々と応じる。
「無意味な代償ではない。契約を通じて行われた、正当な実験の代償である」
「それが無意味だっていうのよ」
至近距離で顔面に銃弾をお見舞いする。すぐさま修復される。
「その批判は理解不能である。人間もルナークと同じように実験動物を犠牲にしているからである。また、有機生命体の中でも、人間をはじめとする大部分の動物は、食物連鎖の過程で生命を犠牲にしている。一固体の命を繋げるために、多くの命を犠牲にしている。この構図はルナークの行いとあまり変わらない」
「黙りなさい」
私は指輪を顔の前に掲げ、風の刃をルナークの喉元目掛けて放つ。
ルナークの猪首は綺麗に寸断され、頭がもげて、地面に落ちた。
どろどろと粘ついたものが足元に広がる。
しかし、ルナークの頭部は平然と言葉を紡いだ。
「刈谷かなえの言説には論理性が見られない。矛盾している」
ばかね。矛盾していることは承知の上よ。
私は髪をさらりと左手で翻して、感情で生まれた魔法の風になびかせる。
私は怒りと憎悪を静かに爆発させて、冷酷な瞳をルナークに突きつけた。
「私は、私とお前を許さない。それだけよ」
私のこころは、とっくに壊れている。でも、こころが死んでしまったわけではない。壊れかけのこころで考えてみた結果が、私とルナークを許さないという結論に至っただけよ。
世界を不幸に陥れる悪魔を、このまま見過ごすわけにはいかない。
もう二度と、ルナークの犠牲者を出すわけにはいかないのよ。
だから、悪いけど、お前には人類の正当な犠牲者になってもらうわよ。
「人類に逆らうことがどれだけ愚かなことか、身をもって知りなさい」
私は忌々しい悪魔の頭を足蹴にして、そのまま踏み潰した。
私はもう、願いには縋らない。
私の邪なこころのせいで、ほづみを何度も手に掛けてしまった。
願いを叶えられなければ、ほづみを不幸な目に遭わせることはなかった。
全部、私の脆弱なこころと、ルナークの力が引き起こした問題よ。
私とお前が責任を取らないでどうするのよ。
迫撃砲を異空間ポケットから召喚し、振り向きざまに放つ。
復活したばかりのルナークの身体は肉片となり、炎に焼かれて消え失せた。
私は翡翠色の指輪に薄く反射する私の瞳を見つめた。
私の紫色の瞳には、光が宿っていない。
私の瞳は、冷たくて、哀しくて、生きるのに疲れてしまっているように見えた。
「罪を償うことだけが生きがいではない」
私のこころは、もうひとりの私に訴えた。
指輪の中の私は、小さくうなずいた。
どんな私であろうと、私であることには変わりない。
私は指輪をした左手を振り上げ、黒い靄をルナークの肉片に纏わせた。
ルナークの持つ力を極限まで搾り出し、光の粒を放出させる。私の指輪は飛び散った力を吸収していく。これで、ルナークはもうしばらく契約できないはずよ。
私は指輪を見下ろした。指輪は輝きを増し、光が激しく脈打っている。
指輪に呼応するように、私の心臓も昂ぶっていた。
落ち着くのよ。ほづみの魔力を制御できた私なら耐えられるはず。
感情を意識的に鎮めると、指輪の脈動も緩慢なものになった。
冷や汗と返り血を右手の甲で拭い去り、癒しの風で浄化する。
こう何度もあいつの力を吸い取っていたら、私が持たないわ。
もっといい方法はないものか。