3 鈴白(FRIENDS)
二〇一六年十二月二十八日、午前七時頃。
「かなえちゃん、おはよう!」
「待って、ほづみ……。もうちょっと寝かせて……」
「だめ。遅刻しちゃうよ」
枕に顔を押し付けながら、鈍い思考を働かせる。
「……何に?」
まだ冬休みは終わっていないはず。一体、何に遅刻するというのか。
ほづみの勧めから、退屈で代わり映えしない冬期講習に私ひとりで参加した。
私はほづみと一緒に参加したかったけれど、「わたしが一緒だと、かなえちゃん、ずっとわたしから離れないよね。ちゃんとお友達をつくらないとだめだよ」とほづみに説得された。渋々、学校に行くことにする。
午前八時頃、東雲学園。
ほづみに押し出されて出席した冬期講習は、とるに足らないものだった。
むしろ、私が出席したことに、先生が驚くくらいだった。
……退屈だ。無表情で正面を見据える。
先生は私から露骨に目を逸らしている。
この反応は、前にも見たことがある。
ほづみを守るために、結界の中で右往左往していたときのことだ。
そのときと、ほとんど変わらない。
リアクションも、授業の内容も、記憶のままに再現される。
でも、違うことがひとつだけあった。
見覚えのない女子生徒……らしき人物が、私の隣に座っているのだ。
肩辺りまである黒髪、鋭い目つき、メリハリのある身体、華奢な手足。海外モデルの妖艶さとは違う、不思議な格好良さがあった。
見慣れない対象には、警戒することにしている。
授業中、ずっと隣の人物を観察する。
彼女の第一印象は、イケメンよりもイケメンであることだった。ちょっとしたトラウマのせいで男性が苦手だけれど、イケメンな女性なら受け入れられる。
わざと消しゴムを落として、相手の反応を観察した。すると、彼女は無言で消しゴムを手に取って、こちらに手渡してくる。
「ほらよ。気をつけな」
高すぎず、低すぎない声がした。
凛とした、威厳のある、それでいて柔らかな声だった。
単純な男なら、一発で落ちるだろう。
「ええ、ありがとう」
差し出された消しゴムを受け取る。
彼女は歯を見せて、にっ、と笑ってみせた。
仄かな罪悪感が、私の胸を刺す。
彼女は肘をつき、眠そうにしながらも、ノートに筆を走らせている。
服装は、ブラウスの上に冬用のベージュの袖なしセーター、夏物の桜色のネクタイをしていた。私が着ているのは冬物の白いブレザーに水色のスカートだ。気分で変えている。
正装だと、女子は黒色ブレザーと赤リボンになる。これと紺のブレザー、紺のベスト、黒のベストは例外で、年中着られる。
隣の彼女のように季節はずれのものを着てきても特に校則違反にはならない。けれど、そうした細かいことを気にする先生はどこにでもいるらしい。
彼女はネクタイを緩めていて、ブラウスの第一ボタンが開いていた。
耳を見ると、ピアスはしていない。ピアス穴も見当たらない。
ピアス自体は校則違反ではない。けれど、ピアス穴は校則違反だ。
見たところ、根は真面目だけど、長続きしないタイプか。
けれど、授業が終わるまで、彼女はしっかりとノートを取っていた。
「俺は山河鈴白だ。鈴白でいい。よろしく」
突然手を差し出されて、私は頭の中がこんがらがった。
「……刈谷かなえよ」
私は正面を向いたまま声だけで応じると、私の右肩に鈴白の手が軽く乗った。
「なあ、刈谷……さん。よかったら、俺のノート見るか?」
鈴白は、一冊のノートを胸の前に掲げた。
心配されるのも無理はない。私は勉強道具をひとつも持ってきていなかった。
忘れたわけではない。勉強する必要がないからだ。
私が鈴白を監視していたせいで、余計な誤解を与えてしまったかもしれない。
「かなえでいいわ。私はこの授業が退屈でたまらないのよ。どれもこれも聞き飽きた内容ばかり。もっと建設的な授業をするべきなのに」
格好よく見せようと、髪をかきあげてみせる。
休憩をはじめる一人の女子生徒が、「そいつ学年一位」と鈴白に耳打ちして去っていく。……余計なことを。
鈴白は、慌ててノートを身体の後ろに隠した。
「ん、ああー、そうだな?」
どうして疑問系になるのだろうか……。
鈴白は苦笑いしたまま、目をきょろきょろとさせている。
さっきまでの威厳が形無しよ。
まったく。いたたまれない。
「なら、次の授業が終わったら、私に少し勉強を教えてくれる?」
「お、おう。任せとけ」
鈴白は、困り顔で快く応じた。
なんだかヤケになっている。ちょっと可愛そうになってきた。
鈴白が得意そうなもの、そうね……。高身長で体躯がいいから、運動?
「あなた、運動は得意?」
「ん、まあな。人並み以上には得意だ」
「なら、体育の勉強を教えてちょうだい」
「あー、なるほど。わかった、任せとけ。後で屋上に来い、特訓してやる」
余程自身があるのか、それとも、ただの愚か者なのか、鈴白は元気になった。
やる気に満ちた瞳をしている。
彼女をいじめる気はないけれど、手加減するつもりはない。
放課後の昼時、手洗いを済ませて、廊下をぼんやりと歩く。
白く降り注ぐ日の光が、窓ガラスを突き抜け、上履きの縁に影を落とす。
景色には、グラウンド、住宅地、商店街、時計台、見慣れた公園が見えた。
一息吐いて、外を見下ろす。紅、黄、白、色とりどりの花壇が広がっている。花壇を縫うように走る煉瓦の通り道を、黄色い喧騒の集団が駆け抜けて行く。今日は短縮授業だ。走って帰りたいほど、学校は苦痛な場所なのだろうか。水彩で描かれたような水色の空は、私のこころとは対照的に晴れ晴れとしていた。
瞼を閉じる。私のこころの中、はるか奥底のほうには、静かに凪いでいる海が、小声で囁いてきた。耳を澄ますと、優しい波の揺らぎが伝わってくる。
深い水底から、蒼い海の穏やかな歌声が、微かに聴こえてくる。
暖かい波の輪唱の中に、哀しい悲鳴が混ざっている。
目を開き、小首を傾げた。いまのは何?
まるで、誰かに助けを求めるような、悲痛な叫びだった。
「よう、準備できたぞ」
鈴白は階下から声を掛けてきた。肩には二本の竹刀が乗っている。
「プロテクターはないけど、まあ、平気だろ」
何の根拠があって、平気と言えるのだろうか。
私は指輪さえ守ればいいけれど、生身の人間では、そうはいかない。
「本当に平気なの?」
「安心しろ、平気だから」
「……どうなっても知らないわよ」
「上等だ」
鈴白は目を細めて、明るい笑いを浮かべた。
屋上に向かうと、鈴白のほかに、彼女の同好会員が三人着いてきた。
そのうちの一人、一年の女子生徒が鈴白のスカートを引っ張っている。
「なんだよ、伸びちまうだろ?」
鈴白は後輩をたしなめると、一年生のお腹に腕を回して抱えた。
「よし、飯食ったら、俺とかなえでチャンバラやるぞ」
鈴白はスカートの裾を正し、隅に置いてある鞄から弁当箱を取り出した。
私はコンクリートに尻餅を着き、ほづみの手作り弁当を開く。
下から一段目にはオムライスがぎっしり詰まっている。
二段目にはプチトマト、千切りキャベツ、ブロッコリー、ナスときゅうりの炒め物、フライドポテト、ひじきとニンジンの和え物などが窮屈に収められていた。
ほづみの手料理を味わいながら、鈴白の弁当を横目で確認する。
鈴白の弁当は、コンビニのから揚げ弁当と牛乳パックが一つだった。
オムライスは仄かな塩味が食欲をそそる。
プチトマトは瑞々しさが口の中で弾けた。
ありがとう、ほづみ。とっても美味しいわ。
ゆっくりと食事を続け、気がつくと弁当は空になっていた。
空の弁当袋を異空間ポケットへと密かに収納し、晴れ晴れとした空を見上げる。
どうして私はこんなにも平穏に暮らしているのだろう。
死よりも辛い罰を受けなければならないことをしたというのに。
異空間ポケットから、こっそりと抗鬱薬を一錠取り出し、口に含んだ。
ほづみ達を蘇らせてから、抗鬱薬は、しばらく飲んでいなかった。
胸が痛むのは、薬を切らしたせいかもしれない。
異空間ポケットから銀色の水筒を取り出し、蓋を外す。水筒から注いだ水を蓋に注ぎ、水とともに薬を飲み下す。ちょっとぬるい。
食事を終えた私と鈴白は竹刀を手に持ち、お互い睨み合っていた。
「竹刀なんて使ったことないわよ」
「ああ、悪いな。手加減するから我慢してくれ」
「そう」
騒ぎを起こさないために、視認できる魔法は封印する。
竹刀に魔力を注ぎ込み、風の力を纏わせる。
前傾姿勢で鈴白に飛び掛かり、腹部を横薙ぎに払った。
手応えが硬い。私は竹刀が折れないように、追い風で刀身を支えた。
「かはっ」
鈴白は派手に吹っ飛び、屋上の鉄柵に叩きつけられた。
「どう?」
涼しげな表情で、黒髪をさらりとかきあげてみせる。
傍で見ていた後輩が軽く引いていた。
ちょっと、やりすぎたか。
「いや、参った! ミサイルが飛んできたのかと思ったぜ」
鈴白は平然と立ち上がった。
「鈴白、あなた、相当鍛えているようね」
普通の人間ならしばらく立ち上がれない程度には加減したつもりだ。
「いや、俺はまだまだだってわかった。今度、PMC同好会に遊びに来てくれ」
「いいけど……PMC? 民間軍事会社か何か?」
「俺は昔、PMCに所属していたからな」
私はふと、ほづみが暴れていたときのことを思い出した。
取材ヘリや戦車が大挙して押し寄せてきていた。
「この前起きた植物の大災害には出撃していたの?」
「ああ、あれか。……ここだけの話、政府に頼まれて行ったけれど、全く刃が立たなかった。避難誘導と事後処理も立派な任務だけど、何だかなあ」
鈴白は不満そうに溜息を吐いている。
鈴白達は少なくとも魔物と関係を持ってしまった。あるいは、魔物のことを知っていて、魔物を討伐する仕事を政府から請け負った建前にしたのだろうか。それとも、政府が魔物の秘密を知っているのだろうか。いずれにせよ、鈴白の周辺には十分な警戒が必要だ。