2 秘密(CLASSIFY)
早朝一時、部屋は照明に、外は月光と住宅の明かりに包まれている。
私は寝室のドアを後ろ手でそっと閉めた。
「こんな夜中に何の用?」
「こんなこと、あんまり言いたくないんだけどさ。かなえちゃんは、その……どうしてあたしらを助けようとしたのかな」
美月は少し、しょんぼりした面持ちで、リビングの椅子に腰掛けている。
「朱莉から聴いたのね」
話す手間が省けた。
「ほづみんには伝えたの?」
「いいえ」
「そっか」
美月は拳を強く握った。覚悟はできている。
「あのさ、かなえちゃん」
「早く言いなさい」
「うん。世界に呪いを振り撒くくらいなら、世界のためになる道を選ぶべきだと思うんだ。あたし達の命なんて、世界全体からみれば、ちっぽけなものだから」
「……そう。反論する気はない」
社会的に間違ったことをしてしまったことは、私も理解している。
でも、私にとっては、あなた達の命のほうが大切だったのよ。
……でも、この思いは、こころの内に秘めておく。
指輪をしている左手を胸にあてがい、美月を鋭く睨みつける。
美月は下を向いたまま、ぽつり、ぽつりと、言葉を口にしてくる。
「かなえちゃん……ごめん。あたし、ばかだから。ボロが出るくらいなら、早いうちに、あたしの気持ちを、伝えておこうと思って」
「……用件はそれだけかしら」
私は眦に力を込め、こころを偽り、凍てついた瞳で美月を睨みつける。
「あなたにとって私が危険なら、私はここを去る。罪を償わなければならないから。その代わり、あなたがほづみを守ってあげて」
「え、ちょっと、そんなことは言ってないけど……」
「それとも、あなた一人だと心配なの?」
私が目を眇めると、美月は少しむっとした。
「安心しなさい、何かあったら坂場朱莉が来ると思うから。もう二度と、あなた達と顔を合わせる必要もない」
そうすれば、あなたもほづみも、私を取り巻く不幸な運命から少しでも遠ざかることができると思う。もし、私が美月のような運命を辿るとしたら、一体、誰が私を止められるのだろうか。結末を想像するだけで恐ろしい。
けれど、人間でありながら魔物に立ち向かえる美月や朱莉なら、ほづみを守ってあげられる。きっと、日常生活と両立できるはず。そう信じている。
私は私にできることをする。
この世界に拡散した悪意を取り除かなくてはならない。
少しでも多くの人間のこころを救わなくてはならない。
美月、感謝するわ。あなたのおかげで決心がついた。
無言の美月から視線を外し、髪の毛を弄りながら背を向けた。
「邪魔したわ」
感情を押し殺して、歩を進める。
魔物はいくらでも倒すことはできる。けれど、人の命は原則として取り戻すことはできない。たとえ取り戻せたとしても、一を得るためには一を対価にしなくてはならない。百を得るためには、百の犠牲がいる。無から有は生み出せない。
物質には質量保存の法則が働く。思いや概念は人間の思考回路を走る電気の流れに過ぎない。電気は実存する物質だから、願いを実現するためにはエネルギーを消費する。それは魔法でも同じこと。
人間の身の丈に合わない願いは、努力を飛ばして全能になろうとする愚か者がすること。例えば、私のように。
何かを得ようとすれば、何かを失う。だから、私はすべてを捨てた。
思いが届かなくてもいい。ほづみには……あなた達には生きていてほしい。たったそれだけの願いよ。だから、ごめんなさい、ほづみ。もう一緒にいることはできない。危険な爆弾を抱えてほづみの傍に立っているなんて、怖くて耐えられない。
私は、とても弱くて、臆病だから。
「待ってよ、かなえちゃん」
美月は肩を掴んできた。
髪をたなびかせながら振り返る。
「……まだ何か用?」
「うん。あたし一人だと、やっぱり心配だよ」
「どうしてそう思うの」
「あたしは、放っておいてもらっても平気。ちょっと魔物が襲ってくること以外は、いつもと変わらない生活に戻るだけだから」
「なら……」
「でも、ほづみんはどうするの! あたしがいくら話かけても、全然元気にならなかったっていうのに、あんたが来ただけであの変わりよう!」
「……美月」
「悔しいけど、ほづみはあんたのことを大事に思っている。それなのに、あんたがほづみを遠ざけてどうするつもり。ほづみの気持ちはどうなるのよ」
美月の指先が小さく震える。
「あなたの言いたいことはわかった。でも、私がここにいると危険なことには変わりない。あなたも覚えているはずよ、ルナークと契約した私の身体は、普通の人間とは違う。私が、またいつ、ほづみを襲うかもわからない」
「うん。あたしもかなえちゃんと同じように、身をもって体験したからね」
ふと気になって、ほづみの寝ている扉のほうを一瞥する。
「あなた達のような人間よりも、私達のような人間もどきのこころは濁りやすい。こころが完全に壊れてしまったとき、かつてのあなたと同じように暴れ回ることになる。もちろん、そうなる前に、私はこの指輪を叩き割るつもりでいる。でも、少し前の私は、死ぬことが怖くて、自分の頭を撃つことしかできなかった。無駄なことはわかっていたのに」
「わお……」
魔力をこめた弾丸は、頭蓋骨を貫通するほどの威力だけれど、そこまで魔力を注いではいなかった。今一度、冷静に考えてみれば、炸裂式の弾丸が入った拳銃一発程度、側頭部からでは頭蓋骨を貫通することができない。けれど、多少の魔力をこめていたから、脳を揺さぶり、意識を吹き飛ばすことができた。悪魔の私にとって、大した損傷にはならない。この程度で死ぬことなんて、できやしない。
意識を吹き飛ばしたおかげで、指輪の濁りはある程度抑えられたのかもしれない。でも、所詮は、その場しのぎでしかない。
「もし、私が最期の最期で躊躇して、指輪を割らなかったとしたら」
「あー、そうだよね。あたしもそうだったもん」
「そう……」
美月は自ら指輪を割ることなく、最期の刻を待った。
「というよりさ、割ってもだめだったと思う。結局、割れるんだし」
それもそうか。
「あとね、前々からあたしの指輪が濁っているのはわかっていたことだったんだ。だけど、どうやっても修復できそうになかったから、いままでみんなに黙っていたんだよねー。あ、もう手遅れだ、って」
「これからは無茶しないように」
美月は悪戯っぽい笑いを浮かべ、のんきな流し目になった。
「んー、どうしよっかなー。かなえちゃんの考え次第かな?」
「ぐっ……とにかく、無茶はだめ」
美月の笑顔が、曇ったガラス越しに見えるように、歪んで見えた。
美月の左頬が、私の右頬にくっついてくる。
「かなえちゃん、今日はあたしの家で休もう?」
「……だめ。あなた達が死ぬことはどうしても避けたい。それだけじゃない。私が振り撒いた呪いを、この手で消し去らないといけない。このままだと、何の罪もない人々が私のわがままのせいで絶望して、次々と魔物になっていくのよ。私はそんな運命、絶対に許さない」
美月は軽く肩をすくめた。目を薄く細めて、か細い吐息を漏らす。
「もー。少しくらい一緒にいたって、バチは当たらないよ。それに、かなえちゃんがいなくなったら、困ったことになるかもしれない。あたしやほづみんが、かなえちゃん欠乏症で魔物になったら、どうしてくれるのかな?」
「何よ、それ……。ほづみはともかく、あなたまで?」
「いまのかなえちゃんを見ていると、とっても心配だよ。夜も眠れないくらいに」
私は呆れて溜息を吐いた。変な微笑みがこみ上げてくる。
「冗談はやめなさい」
美月もつられて苦笑した。
「あはは、ごめん。でも、嘘は言ってないよ」
美月は少し距離をとり、頭の後ろで手を組んだ。
「あたしの正義も、かなえちゃんの愛も、結局は、みんな自分のため。誰かのためになることじゃない。この世界には、あたしみたいな善人であろうとする考えなしはいるけれど、みんなが思い描く善人は、どこにも存在しないんだから」
「私はあなたの信念、格好いいと思う」
「サンキュー。でもね、理念と行動は違う。どんなに身を粉にして正義を貫いたとしても、誰の記憶にも残らない。こんなの、理不尽だよね」
「そう。誰も、私やあなたの行動をたたえない」
私に関していえば、むしろ、悪人として軽蔑されるだろう。
ここを去るのは諦めて、寝室のドアに手を掛ける。
「美月。忠告、ありがとう」
「えへへ、そりゃどうも」
茶色のフローリングの冷気が、黒のニーソックスを通り抜けて、足裏に伝わってくる。一拍の無音が、空気をさらに冷やしていく。けれど、私のこころはぽかぽかしていて暖かかった。
美月には隠しているが、私はずっと眠れないでいた。
瞼を閉じることが、怖い。
瞼を閉じると、いつも怖い夢を見る。
かけがえのない友達がいなくなることが、不安でたまらないから。私の行いへの罪悪感が、茨となって、こころを巻き取っているから。締め付けられたこころから、透明な血を流し続けているから。魔物の身体でなければ、このまま一睡もしなければ、まともに立っていることもできないだろう。
「急に起こしちゃって、ごめんね」
「こちらこそ、愚痴を言って悪かったわ。ベッド、借りてもいい?」
美月に背を向けたまま、冷静な声で語り掛ける。
「うん、お休み、かなえちゃん。私はソファーで寝るよ」
「何を言っているの。ここはあなたの家なのだから、あなたも一緒に寝なさい」
「へ?」
ちらりと首を向け、夜目を凝らす。
美月の目はビー玉のように円くなっていた。
「しゃっきりして」
美月がいつまでも棒立ちしているので、私は美月の手を引いた。
「早く来なさい」
「え、ちょっと……?」
私は凛とした声で呼び掛け、美月を引っ張る。
ほづみを起こさないように気をつけながら、左右からベッドの中に潜り込んだ。
……眠れない。