15 人間性(HUMANITY)
私は早朝、誰も居ない校舎の前で、ほづみと花見をしていた。
桜の花びらが、ほづみの頬に触れた。
夕焼けに似た日差しは、結界の外側から差し込む、現実にあるものだ。この箱庭も、現実に手を加えたものだとすれば、紛れもない現実なのかもしれない。
暁色に染められた空間を、冷たい風が吹き抜ける。首筋に触れる冷たさに、生命を実感した。森羅万象は、私が、広大な現実世界にいる、小さな人間の成れの果てでしかないことを思い知らされる。
社会のことを忘れかけていた。悲痛な現実ばかりが目に映っていた。けれど、実存する私は、この壮大な現実を否定しきれなかった。苦しみばかりが漂う実存と、空理空論のゆりかごとしての観念とを、分けてしまうから不幸になる。私は実存する観念でありたい。
森の香り、生き物の声、海の冷たさ、広がり、風の速さ、涼しさ……。
実存する観念が、こころの寂しさを補い、豊かなものへと変えていく。
「ほづみ、過去のことは……思い出したの?」
ほづみは手を後ろに回して、顔を俯けた。
「うん。全部思い出した。わたしがかなえちゃんに酷いことをしたことも、かなえちゃんに酷い目に遭わされたことも、全部、はっきり思い出した」
「……そう」
全部覚えているのなら話が早いわ。
当初の目論見が達成できる。
「ごめんなさい、ほづみ」
「かなえちゃん、ごめんね。もう、昔のことだから……仲直りしよう?」
ほづみは顔を上げ、私に飛びついてきた。
私はほづみのこころを自分のものにしてしまった。自分勝手で、ほづみの意志とは無関係に、ほづみの愛情を独り占めしてしまった。
偽りの愛の鎖は断ち切られなければならない。
運命の紅い糸を裁ち、再び結ばれるかどうか。
すべては、ほづみの純粋なこころに委ねよう。
ウグイスが澄んだ声で囁く。桜の木が青空のキャンパスに彩りを加える。
はじめからこうなる運命だったのかもしれない。
私はほづみの額に右手の人差し指を据えた。
「かなえちゃん?」
「……ほづみ」
手が動かない。
私は、ほづみの記憶を、私とほづみの愛の思い出を、引き裂けない。
ほづみが私の元から離れてしまっても、私はほづみの傍にずっといる。私はずっとほづみのことを見守っている。だって、そう約束したのだから。
振り向いてくれなくてもいい。声を掛けられなくてもいい。触れられなくてもいい。ただ、傍にいられれば、何もいらない。何も求めない。ほづみの記憶から私が欠けてしまっても、私はほづみのことをずっと覚えている。でも、ほづみは本当に幸せだろうか。
ほづみは、指輪をしていれば、半永久的に生きられる。誰の目に見えないように、私が魔法で隠してあげる。けれど、いずれ。ほづみは自分が普通の人間とは違うことに気づいてしまうだろう。永遠に姿形の変わらない人間は、人間として見られないから。周囲が老いていくのに、自分だけは肉体が高校生のまま変わらない。……私はほづみに幸せになってほしいのに、これはおかしいわ。いまだって、ほづみは指輪をしているのだから、私は、人間のほづみを、魔物の道に引きずり込もうとしている。
私は手を下ろした。ほづみの身体が小さく震えている。
私は頭がひりひりして、額を押さえた。
願いは願いでしか覆せない。ほづみのこころを独り占めしたのは、私の願いによるものよ。たとえ、ほづみの記憶から私の思い出を消し去っても、ほづみのこころは私の思い描く優しいほづみのまま変わらないわ。ほづみはいつまでも私の操り人形のまま……ほづみの記憶を消しても、何も変わらない。かといって、願いを願いで打ち消して、さらなる代償を生み出すわけにはいかない。
万策尽きた。私には、どうすることもできない。
「かなえちゃん、もしかして、またかなえちゃんが何か悪いことしたと思って悩んでいるのかな?」
「……その通りよ」
ほづみは私の肩にべったりとくっついてきた。
ほづみの頬が私の頬にすりつく。
「ちょ」
「わたしはかなえちゃんのこと忘れられないよ」
ブルーシートを引き、傍で昼食をとっていた美月は、にやにやしていた。
朱莉は、桜の太い樹に身体を預けて、日向ぼっこしている。
「かなえちゃんとの思い出は、とても辛いこともあるけれど、とても楽しい思いでもたくさんある。全部忘れちゃったら、わたし、悲しいな」
「ほづみ。でも、私は、ほづみのこころを願いで捻じ曲げてしまった」
「かなえちゃん。昔のわたしは、かなえちゃんのことをよく思っていなかったかもしれない。でも、いまのわたしは、いまのわたしだよ。かなえちゃんがわたしと仲良くなりたいと思ったから、いま、わたしはかなえちゃんの傍で、とっても幸せな気分になれる。わたしはかなえちゃんの傍にいたいな」
……そうか。私はほづみに無理な二択を迫っていた。
私の傍にいるか、人間として生を送るか。
両方という選択肢は、私にはなかった。
「ほづみ。ありがとう。ほづみがいなければ、いまの私はいなかったと思う」
ほづみの顔を、両腕と胸で包み込んだ。
私は、ほづみの傍にいると誓う。ほづみは……いまだけは、私のものだ。