14 海に潜む船の魔物(SHIP)
何だか妙な音がして、目が覚めた。
ベッド際の目覚まし時計を見上げると、早朝四時だった。
けたたましいサイレンが鳴っている。緊急避難警報が発令されている。
ほづみは疲れているのか、サイレンが鳴っていても、すやすやと眠っている。
私は、ほづみの頬を優しく撫でた。ほづみの周囲に強固な結界を貼ってから、空中に転移する。私の身体は激しい雨露に濡れていく。
「……また、こうなってしまうの」
都市を覆うほどの巨大な船が、雷雲を伴って上陸していた。
強い雨風の向こう、海沿いのビル郡の一角が全壊しているのがわかった。
住民はすでに避難したのだろうか、曇天の下に人影は見えない。
……私と、もうひとりを除いては。
いつぞや見た戦車群は風雨になぎ倒され、取材ヘリは墜落し、もうもうと煙を上げている。私は崩れたビルの陰に隠れている鈴白の背後に転移した。
思えば、奇妙な話だ。魔物は、魔物と深い関わりを持った人間にしか、視認できないはず。
「山河鈴白。あの戦車は、あなたの仕業ね」
鈴白は振り返らない。崩れたビルの一角に魔力が込められ、船に向かって一直線に飛んでいく。けれど、船の装甲に当たると同時に、ビルは砕け散ってしまう。「ちっ、やっぱり無理か」
鈴白は異空間ポケットから竹刀を取り出し、構える。私は、目を見開いた。竹刀は、魔力が感じ取れなかった。こんなもので殴っても無意味だ。
「無茶よ。鈴白、あなたは魔力をまだ完全には使いこなせていない」
「そんなこと、俺がいちばんわかってる」
鈴白は指輪を見下ろした。鈴白の左手の人差し指にはめられた指輪には、白い宝玉が輝いている。私は溜息とともに、鈴白の足を私の姿をした小さな使い魔達に握らせた。
「お、おい、何だ、こいつら。離せって!」
鈴白は竹刀を振り回すが、使い魔は屈んで華麗に避ける。
「少しは頭を冷やしなさい。私の使い魔は、こう見えて怪力なのよ。あまり暴れると、足を引き千切ってしまうかもしれないわよ」
「てめえ、ふざけんな!」
私は鈴白が指輪をかざしたのを見逃さなかった。仕方ない。私は眼を紫色に輝かせ、鈴白を少しの間だけ眠らせた。
私はその隙に、美月と朱莉にテレパシーで呼びかけた。
『辛い戦いになるかもしれない』
『そんなのいつものことじゃん』
『ハ、アタシに任せとけばいいんだよ。アンタはもう十分辛い思いをしただろ? ほづみと家で寝てなっての』
『そんな悠長なことを言っていられる相手ではないと思うけれど』
私はひとつ咳払いをした。
『鈴白がルナークの指輪をしているわよ』
……しばらく待っても、返事が無い。
雷が轟いた。近くの傾いたビルに直撃し、電柱へと流れていく。
『どうしたの?』
『いや、あたし、仲間が増えて、嬉しくなっちゃって』
『そんなにいいニュースではないわよ。ルナークの犠牲者が新た部ひとり判明したようなものだもの。それで、あなた達はいま、どこにいるの?』
『あたし達? ほづみんと一緒だよ』
美月は軽い調子で応える。私は眉をひそめた。
『……ほづみと?』
ほづみは私の家で寝ているはず。なのに、どうして見月達と一緒にいるのよ。
背後に気配を感じ、振り返る。ほづみがにこにこして立っていた。美月が簡易結界を貼り、雨を避けている。
「ちょ、ほづみ」
「えへ、かなえちゃんが心配で、着いて来ちゃった。美月ちゃんが教えてくれたんだ」
「あっ、ほづみん、それ秘密って言ったのに!」
私はこめかみのあたりを押さえて、美月を睨みつけた。
美月は頭の後ろで手を組んで、へらへらしている。
朱莉はほづみの後ろで、周囲を警戒している。
何なのよ、もう……。私は鈴白を美月に預けた。
使い魔達が、美月の対応に注目している。
「わあ、かわいい! ちっちゃいかなえちゃんだ!」
ほづみが私の使い魔を抱きしめて、頬ずりする。……恥ずかしいからやめて。
美月はというと、名案を思いついたとばかりに、棒読みで叫び始めた。
「おーい、起きろー! 美月ちゃんに食べられちゃうぞー!」
「ちょ、起こしてどうするのよ」
すると、鈴白は目を覚ました。竹刀を構え、ふらふらとした足取りで、船のほうに向かおうとする。美月は鈴白の足をじっと見据えている。
私は、鈴白が足を怪我していることに気づいた。
「待ちなさい」
「……何だよ。放っておいてくれ」
鈴白は、放っておいて欲しいと主張しつつも、弱弱しく振り返った。目には薄っすらと悔し涙を浮かべている。私は少しだけ、胸を打たれた。
きっと、あの魔物のことが許せないのだろう。私がほづみの家族を殺したように、あの魔物は鈴白の家族を殺したのだ。
「うーん、かなえちゃん、気づいてる?」
「当然よ」
私と美月は顔を見合わせた。
鈴白の足に魔力を少し注ぎ込み、傷を癒した。
鈴白は小さく瞬きをしてから、軽くジャンプした。
「……すまない」
「すまないと思うなら、独りで突っ走らないことね」
私は鈴白の服をくいと引っ張る。直後、黒い破片が鈴白の足元に突き刺さる。「でやあっ!」
美月は光り輝く剣で黒い破片を断ち斬り、生命の粉へと変えた。朱莉が銃弾を放ちながら、ニヤリと笑い、膝を軽く曲げる。
「油断すんなよ」
朱莉は私達の真上を宙返りし、黒い板状の魔物を次々と光の破片にしていく。朱莉は美月の結界の外側に着地すると、小さな水しぶきが上がった。朱莉は一瞬にして、私や鈴白と同じように、ずぶ濡れになる。
「ひでえ雨だぜ。中のほうまでびしょ濡れじゃねえか」
世界が海に潜む船の魔物が咆哮を上げる。
「……何?」
桃色の雨が船の魔物から噴き出す。
美月の展開する結界が雨を防ぐ。辺りに撒かれた雨は、街を溶かしていく。
「何、これ……」
草木は枯れ、海は桃色に変色し、土はひび割れる。
並の人間では生きられない瘴気が街を覆う。
満足した海に潜む船の魔物は、桃色に輝く海へと沈み、酸で溶けていく。
美月の結界の中に遺された私達は、途方に暮れてしまった。
「……こんなの、あんまりだ」
無残な街並みと桃色の海が広がっている。
朱莉は。鈴白に詰め寄った。
「なあ」
「な、何だよ」
「あの魔物が出た原因、知ってるだろ」
「……それは」
「アタシの感覚で、嫌でもわかっちまうんだ。答えろよ」
「ああ。仇討ちのために、あの魔物と戦って勝つことを望んだ」
どういうこと?
「で、これで勝てたってのか?」
「……さあな」
「ふざけないで」
私は鈴白の頬を殴りつけた。鈴白はされるがままに倒れる。
ほづみが止めに入ってくるので、手を緩める。
「……私が怒れることではないか。ごめんなさい」
「かなえは悪くねえって」
鈴白は、世界を破壊する遠因となる願いを叶えた。
けれど、鈴白を攻めても無意味だ。
異空間の側から使い魔達に周辺の様子を確かめてもらう。
「……嘘」
「どうだった?」
美月がちらりと私の顔を覗いてくる。
「ここだけじゃない。あちこちに船の魔物が出没している」
「……そっか」
美月はのんきに笑っているけれど、一瞬の動揺を見逃さなかった。
船の魔物達は、建物を破壊し、死の雨を降らせ、海へ解けていく。
人間の姿が見当たらない。非難しているのだろうか。
どちらにせよ、じきに、建物も解けてしまうだろう。
無力感に苛まれ、その場で泣き崩れた。
美月の結界は、私の涙を洗い流してくれるはずの、桃色の雨を弾いている。
結界の外側を噴水のように流れゆく桃色の雨よりも、私の頬を伝う一筋の涙のほうが、酷く澱んでいるような気がした。
「かなえちゃん……きっと、なんとかなるよ」
「無理よ……だって、こんな……」
ほづみは私を宥めようと手を差し伸べてくれるけれど、無理なものは無理だ。
ほづみは、私が手を取るまで、ずっと手を差し出したままでいる。
けれど、散々ほづみを殺し続けた挙句、ほづみを地獄に突き落とした私には、その手を握る資格はない。だから、ごめんなさい。
「ね、かなえちゃん。がんばろう」
ほづみから絞り出された声音は、哀しみに揺らいでいた。
ほづみの表情は、くすんだ涙に紛れて、よく見えなかった。
いま、ほづみの泣き崩れた笑顔を見たら、私はもう、いまの状況に耐えられなかったかもしれない。ほづみのこころを、ほづみの愛する世界を、壊してしまったという現実を、受け容れられなかった。
私は、誰も何もかもなくなったことを嘆き、自分自身を憤った。
「ほづみ、ごめんなさい」
私は拳銃を右手の中に顕現させ、自分の指輪に銃口を鋭く突きつける。
優しさなんていらない。ここで朽ちてしまえば、何も考えずに済む。
「やめて!」
ほづみは目を見開いて叫んでくる。拳銃を引き絞ろうとする人差し指は、ほづみの声で躊躇した。
「かなえちゃん、ごめん」
「ちょ、美月、返しなさい」
美月は私の銃を取り上げた。
けれど、美月は、拳銃を握ったまま、俯いてしまう。
私は、C4爆弾を取り出して、握り締めた。今度は、美月も止めようとしなかった。でも、ほづみは私からC4を奪い取り、その場にぺたんと座り込んだ。
私は力なくもう一丁の拳銃を握り締め、自分の指輪をすぐに撃った。
けれど、私は何ともなかった。私は、荒れた大地に、暗い瞳を落とした。
「……どうして?」
不思議なことに、指輪は銃弾を弾き飛ばした。
弾かれた弾は、結界の外へと消えていった。
私の指輪は、決して壊れる気配を見せなかった。傷ひとつ付かず、私のこころとは正反対に、穏やかな翡翠色の輝きを放ち続けている。
願いの力でも使わなければ、何をしても、私は死ねないだろう。
なんと皮肉なことだろう。私は、この腐敗した世界で、ほづみの指輪に注いだ魔力と、ほづみの生命力が底を尽きるまで、永遠にほづみと時を刻むことができるというのだから。
朱莉はその場で大の字になり、瞼を下ろした。
「あーあ、終わっちまったか。あっけないもんだぜ」
朱莉の投げやりな声が、ほづみの希望を抱く声と重なった。
私は、何かに背中を押されるかのように、こころに一筋の光が差した。
「……いいえ、まだよ」
私の足は、大地を強く踏みしめる。
禍々しい雨音を上回る、力の音色が、私のこころの中で響き渡る。
私はほづみを美月に無理矢理に託し、異空間に飛び込む。
「かなえちゃん、待って!」
ほづみの悲痛な叫び声に後ろ髪を引かれるが、目を背け、門を閉じる。
「ごめんなさい、ほづみ。こうするしかないのよ」
私は指輪を掲げ、ルナークから奪い去った力を解放する。
全身を流れる生命のぬくもりを、指輪に集中させる。
……さて。たったひとりでこんなにも大きな願いを叶えられるだろうか。けれど、私に残された道は、これしかない。
私は煌々と輝く翡翠色の指輪を天に翳した。
神でも悪魔でも、何でもいい。
私の願いを叶えるというのなら、私のちっぽけな魂など、くれてやる。
……いや、待って。
本当にこれでいいの?
この惨状をもとに戻しても、ほづみは……また、私を失って、独りになってしまう。だったら、どうしろっていうの。ほかの誰かを犠牲にして、この世界を取り戻せっていうの? 栗原美月か、坂場朱莉か、山河鈴白か……。私の代わりに死ねと、私が言えたことではない。そんな身勝手な真似は、もう、たくさんよ。
なら、どうするか。誰も不幸にせず、最悪の状況の中で、たったひとつの希望となりうる方法は……そうか。この手があった。
私の生み出した幻影の魔物の結界の中に、すべて取り込んでしまえばいい。私は左手をおもむろに下ろした。
翡翠色の宝玉から、幾多もの幻影の魔物を飛び立たせる。現世へと送り出されたルリイロタテハの群れは、世界を甘い幻影の渦に引き込んでいく。
壊れかけた世界の一部の時を止めて、まだ生きている人々に、これから生きる人々に、動植物に、救いの幻想を差し伸べる。亡くなった生命は願いの力なしに戻せないけれど、人間のこころは、使い魔が化けて、こころの隙間を埋めていく。罪に罪を重ね、身勝手な方法で孤独なこころを和らげる。ほんとうの幸せではないことくらいわかっている。でも、こうでもしなければ、世界はルナークの餌食になり、魔物で溢れてしまうだろう。魔物になって忘れ去られた魂は、いずれ、私の手で供養しなくてはならない。
私は現世を少しだけ覗いた。くすんだキャンパスがねじれていき、にじんだ絵の具のように蕩けていく。私の記憶と、残された現世をもとに、世界の一部がもとの形を、仮初めのキャンパスを、偽りの模造品を描いていく。いや、模造品をつくるというより、もともとある現実から不要なものを取り除き、欠けてしまったものを無理に補填しているといったほうがいいのかもしれない。
……これは所詮、こころと存在の問題を先延ばしにするだけ。私の記憶と現世をもとに紡がれた、仮初めの命を持った人びとの姿をした私の使い魔が、何事もなかったかのように社会へ溶け込み、何食わぬ顔で歩いている。
私の記憶と厳正に残されていない真実は、どうやっても曖昧な形にしかならない。けれど。それでもいい。ほづみは、私やほかの誰かが犠牲になることを望んではいないだろうから。
ささやかな催眠をかけて、ほづみ達を眠らせる。ほづみは私の自宅に、美月は彼女の自宅に、朱莉と鈴白は……美月の家で一緒に寝かせた。
ほづみにかけた催眠を解き、揺り起こす。
ベッドに横たわるほづみは、うっすらと瞼を開いた。
「かなえ、ちゃん?」
「おはよう、ほづみ」
ほづみは飛び起きて、周囲をきょろきょろと見渡した。
「あ、あれ、かなえちゃん、だけ? 美月ちゃんは? 朱莉ちゃんは? 鈴白さんは……? どこにいっちゃったのかな」
「平気、心配いらない」
私は、焦るほづみの両肩に手を掛け、ベッドに押し倒した。
ほづみはされるがまま、仰向けになる。
「かなえちゃん……?」
「もう、全部、終わったから。もう、ほづみは思い悩まなくてもいい」
自分自身に語り掛けるように、呪文のように呟いた。
ほづみの身体が、ほづみのこころが、ほづみの香りが、私のこころを支えている。虚ろな瞳に光を宿してくれる。
ほづみは、私の眼をじっと見つめてくる。
「あのね、かなえちゃん。怖い夢を見たの。街がぐちゃぐちゃになって、誰も住めなくなって、かなえちゃんが独りでどこかにいっちゃって。また、無茶しちゃうのかなって、心配なのに、美月ちゃんは全然うごかなくって」
ほづみはぽろぽろと涙を流した。ありふれた日常に降り注ぐ偽りの陽光が、桜木にとまる玩具の小鳥の鳴き声が、私とほづみに降りかかる。
私はほづみの額に掌をのせて、闇色の瞳を微かに震わせた。
私は不安な気持ちを偽り、気丈さを取り繕って、優しく微笑んだ。
「大丈夫。ほづみ。全部、夢だから」
私はほづみに嘘をついた。
優しい微笑みをたたえて、ベッドで眠るほづみを抱きしめた。
私の笑顔と、ほづみの涙、優しさ、私達が生きていることは、すべて本当のことだった。いつか、世界をもとに戻す時が来るだろう。とんでもない願いだ。私の魂と引き換えに叶えられるだろうか。それでも、私はやらなければならない。
私は命なんて惜しくない。死より残酷な苦痛を味わおうとも、耐えられるようになってしまった。でも、ほづみの悲しむ顔を想像すると、簡単に命を投げ出すわけにはいかない。だから、ほづみが独りでも生きられる強さを持って、私がほづみから卒業できたなら、本当の世界を取り戻そうと願うことにしよう。
とはいえ、いまの私には、世界のことや、私の家族のこと、美月、朱莉、鈴白のことなんて、どうでもよかった。いまの私のこころの中には、ただ、ほづみが私の傍にいることだけが至福だった。
私は、ほづみのさらさらとした金色の髪を優しく撫でた。
私の腕の中で、ほづみがくすぐったそうに笑っている。ほづみを強く抱きしめて、ほづみの甘い吐息を吸い込み合い、惜しむように吐き出す。ほづみも同じように、私の吐息を吸入する。
恥ずかしさに縮こまるほづみは、くりくりとした薄茶色の瞳を泳がせた。白い頬に色づいた桜花の色を見つめて、ふと、ほづみと桜が見たいと思った。