10 疑念(SUSPECTION)
二〇一七年一月四日、午後六時頃。
私達四人は、こたつで温もっている。
美月は近所の観光ガイドを手にしている。温水プール?
ほづみはこたつに頬を摺り寄せて、ほのぼのしている。
「かなえちゃん、みかんちょうだい」
「はい」
私は異空間ポケットを漁り、右隣にいるほづみの掌にみかんを手渡しでのせた。
「えへへ、ありがと」
ほづみは薄く微笑んだ。冷たい部屋の中で、太陽のように輝いて見える。
私は、ほづみの笑顔があるから生きていける。
もし、ほづみがいなくなったら、生きていけないだろう。
たとえ、ほづみの愛が偽りのものだったとしても、ほづみが私を軽蔑するとしても、私はいつまでもほづみに愛を注ぎ続ける。ほづみが私の愛を迷惑だと思うのなら、そのときは……さて、どうしたものか。
私は、ほづみが、みかんをむき、実を頬張るのを眺める。かわいい。
甘い夢だと分かっていても、こうした日常がずっと続いてほしい。
夢、か。
もし、この世界が、誰かが作り出した夢の世界だとしたら?
もちろん、普通なら、誰にも証明できない。
でも、不自然でならないのよ。
私が幻惑の魔物の結果の中でイメージした美月は、妙に具体的な内容を語っていた。まるで、本物の美月がそこにいるかのような感じさえした。いまいる美月が偽者だと疑うわけではない。
けれど、何かが決定的にずれている。
もしかしたら、美月は本当にそこにいたのかもしれない。考えすぎだろうか。
「ねえ美月、私が帰ってくるまでの間、どうしていたの」
向かいに座る美月はにっこりと微笑んだまま、天井を見上げる。
「ん? ずっとほづみんと一緒にいたよ」
美月の足先が私の足の裏をくすぐる。やめなさい。
「うん。かなえちゃんが元気で帰ってくるようにお祈りしていたよ」
「ほづみ、ありがとう。ちゃんと戻って来られたわ」
ほづみはにっこりしている。私はにやにやする美月の腹を肘で突いた。
「イテ。朱莉ちゃんと一緒に魔物退治したこともあったなあ。あのときは大変だったよ。お腹に魔物がぶつかってきたからさ。かなえちゃんが治してくれなかったら、危うく入院するところだったよ、あはは」
私とほづみは、同時に深い溜息を吐いた。美月はへらへらしている。
ほづみは軽く頬を膨らませた。
「もう、わたし、びっくりしたよ。今度はちゃんと手当てさせてね」
「いまは指輪があるから平気だって」
「だめ」
「えー、消毒液って染みるからなあ」
「……美月ちゃん」
「ぎゃっ。ほづみん、わかったから怖い顔しないで!」
ほづみは美月のことを疑わしそうにじっと見ている。私は小さく欠伸をした。
「私が帰るまでの間に、私と会った記憶はない?」
「ひょ? ないよ。お化けだと思ってびっくりしたくらいだもん」
「……そう」
私のイメージがあのほづみや美月なのだとしたら……私は絶望していたし、幻惑の魔物のことなんて全く知らなかった。けれど、美月は幻惑の魔物のことを知っていた。この知識はどこからやってきたものなのだろうか、
美月の言っていることと朱莉の言っていることは一致していた。まさか朱莉が美月に化けていた……なんてことは、ないと思いたい。
「ここにしようかな? いや、こっちもいいなあ」
美月は赤ペンで観光ガイドに丸を付けている。
朱莉の言葉を信じるなら、私は幻惑の魔物について知っていたことになる。私の記憶が完全に戻っていない可能性だってあるけれど、何も覚えていないものをイメージできるわけがない。
だったら、なんだっていうのよ。祈りに等しい不条理が働いているとでもいうの? 私には思い当たる節がない。
いっそのこと、美月のように直接聴いてしまおう。
「朱莉、どうしてあなたは幻惑の魔物のことを詳しく知っているの?」
「ああ、まだ、アタシのことを話してなかったな。大したことじゃないんだけどさ。簡単に言えば、アタシはもともと概念だから、魔物の性質が分かっちまう」
朱莉は二丁拳銃を掲げてみせた。ほづみが難しそうに首を傾げている。
「うーん、概念だと、魔物のことが分かるの?」
「正確に言えば、強い感情を読み取れる、っていうのかな。アタシにも上手く説明できねえけれど」
「なら、朱莉。私が幻惑の魔物の中で見た美月は、私のイメージしたものなのよね。どうして私の知らない知識を喋っていたの?」
「うん? そうなのか?」
美月はぱちくりと瞬きした。
「幻惑の魔物って?」
「蒼い蝶の姿をした魔物よ。私の家に飾ってある絵画にそっくりのものよ」
「それ、あたし、見たことあるよ」
私は右手で頬杖をつき、美月のほうに目を向けた。
「詳しく聴かせて」
「かなえちゃんが大暴れしているときに、一回だけ迷い込んじゃったことがあるよ。あちこち壊してまっすぐ歩いていたら出られたけれど、魔物は逃がしちゃった。あれは並の魔物の比じゃない、強力な結界だったよ」
「……そう。そういうこと。ようやく話が見えてきた」
私は朱莉のほうへ首を傾げる。朱莉はちらちらとカレンダーのほうを見ている。
美月が百均で買ってきた二〇一七年のカレンダーには、一月の日付が印刷されている。すでにいくつか書き込みがある。
「断定はできないけれど、幻惑の魔物は私のイメージだけではなくて、ほづみや美月のイメージも反映していたのかもしれない」
朱莉は合点がいったように、手をぽんと打つ。
「おー、そういうことか」
「あなたが納得してどうするのよ」
私はこたつに突っ伏した。真面目に考えている私がばかみたいじゃない。
美月はふと真面目な顔つきになり、私のほうに眼球を動かした。
「ねえ、かなえちゃん、朱莉ちゃんのこと、まだ何か疑っているの?」
私は突っ伏したまま無言で肯定した。
ちらりと顔を上げると、美月の哀しそうな視線が私に突き刺さる。
「かなえちゃん、誰かを疑うっていうのは、とっても辛いことだよ。誰かを疑ったところで、誰も幸せにならない」
「美月、それだと宗教の勧誘と同じよ。何の根拠もないのに『私を信じなさい』と言う。何か矛盾が出たら、嘘を嘘で塗り固めていく。何の根拠もない真理は人のこころを救うかもしれないけれど、嘘を根拠にして、お金をむしり取ったり、自殺に走らせたりすることだってできる。他人の信用を得ることは、ときには合法に、ときには違法に、誰かを洗脳することができるのよ」
いまの私がまさにそれだ。ほづみのこころを操っている。
美月は眉間に力を入れて、机を左手で強く叩いた。
「なら、信じてくれなくてもいいよ。だけど……。あたしは、寂しいよ」
美月の身体からへなへなと力が抜ける。
「世の中には悪人がたくさんいるかもしれないけれど、それはたまたまその人が悪に染まっていただけ。あたし達はみんな、こころのどこかに歪なものを持っている。それを分かった上で、こころの底から信じてあげる仲間が、友達ってものじゃないのかな。それとも、かなえちゃんは、私や朱莉ちゃんが詐欺師に見える?」
「いいえ。でも、私は、私自身がいちばん信じられない」
私は、ほづみを殺した悪魔よ。ほづみの家族も殺してしまったし、美月に死体を見せびらかすような嫌がらせもした。ほづみを守ろうとする美月をぼろぼろになるまで痛めつけてしまったし、ほづみの愛を独り占めしてしまった。それなのに、私はこうして、のうのうと生きている。思い出すだけで泣きそうになる。
「美月、あなたは私が何をしたか知っているはずよ」
「うう、そうだけど……」
ほづみが私の頭をぽんぽんと撫でる。ほづみの優しさが私に注がれる度に、ほづみの愛が焼きごてとなって、私のこころを焦がしていく。
「かなえちゃん、元気出して」
ほづみは美月のほうを懸命に睨んだ。
「美月ちゃん。かなえちゃんの気持ちをわかってあげて。かなえちゃんは自分のことを犠牲にしてまで、わたし達のことを助けてくれているの!」
「うん……」
美月はしょんぼりしている。……美月は何も悪くないのに。
「まだまだ思い出せないことがたくさんあるけれど、かなえちゃんは……わたしのせいで思い悩むことになってしまった、そうだよね、かなえちゃん」
ほづみの柔らかい口調が、私の耳朶に響き、私のこころに刃を立てていく。
「違う。ほづみ。全部、私のせいよ」
ほづみが私のことを気遣う気持ちは、私が捏造したものなのよ。確かに、私はほづみにいじめられていたけれど、私はそれ以上のことをしてしまったわ。私は私のせいで思い悩んでいるのよ。絶対に、ほづみのせいではない。
私はおもむろに顔を上げる。
ほづみは、いつにも増して、真剣な顔つきになっていた。
「ひとりで悩まないで。みんな、かなえちゃんのことが心配になっちゃうよ」
ほづみは私の目元から、小さな一滴の涙をすくい取る。
美月はすっかり消沈して、背中を丸めてしまった。
「ご、ごめんよ、かなえちゃん。その、泣かせるつもりはなくて……」
「平気よ。私はすべての罪を受けとめる。そう決めたから」
私は背筋を伸ばし、澄ました顔で黒髪をさらりとかき上げる。
美月は少し悩んでから、私のマネをした。恥ずかしいからやめなさい。
「やっぱり、かなえちゃんは優しいなあ」
「そう?」
「そうだとも」
美月の大げさな感嘆に、私はまた、つい疑いの目を向けそうになる。
だめね、私。もっとみんなを信じなければならない。
朱莉はふと思いついたように、言葉を漏らした。
「元をたどれば、全部ルナークのせいだよな」
美月は軽く瞬きをして、「そうかなあ?」と悩んで、「そうかもしれないけど、牛さんがいないとほづみんがなあ……うーん」と唸り出し、「わかんない」と何の結論も出せないで終わった。
「悩むことはないわ。騒動の発端は私とルナークにあるのよ。私とルナークが責任を取るのは当然のことよね」
美月は再び「うーん」と唸り、俯いてしまう。
「けどさ、ルナークがいなかったら、かなえちゃんはまともだよね」
「さあ。ルナークは、あくまで私達の願いを叶える手段なのだから」
私は悪戯っぽい微笑みを美月に向けた。けれど、自分で言っておいて、身震いしてしまった。ルナークの力が関わらなかったら、ほづみを蘇らせることはできず、私は単なる犯罪者として罪を背負うことになったのかもしれない。
……いいえ、違う。ルナークの力に魅せられなかったなら、私は何もできずにいたかもしれない。ほづみにいじめられ続けて、ほづみの家庭をどうすることもできないままに、愛を忘れ、生きたまま死んでいく運命にあったのかもしれない。
「あはは、冗談きついよ! 生身のかなえちゃんが悪事を働くわけがないって! だって、警察に捕まっちゃうよ? あたしがかなえちゃんの立場なら無理かな」
美月はのんきに笑い飛ばした。
「ごめんね、かなえちゃん。わたしが言うのもなんだけど、かなえちゃんは優しいから、きっと、何も言わないで、わたしのいじめに、じっと耐えながら、学校生活を送っていたかもしれない。かなえちゃんは、どっちのほうがよかった?」
「私は……ほづみと一緒にいられるなら、それだけで幸せよ」
「そっか。私は、みんなと一緒がいいな」
「そうね」
ほづみはふわふわした身体で私を抱擁する。
私は緊張して、動けなくなる。私はもう、ほづみへの執着が深まりすぎている。一緒に寝ている仲でも、ほづみにこうして優しく抱かれると、心臓が苦しくなって、頭がくらくらして、変な気持ちになってしまう。
私の選択は、私にとっては幸せだったかもしれない。けれど、ほづみにとっても幸せな選択だったのだろうか。……そんなはずはない。誰だって、誰かの操り人形として、こころを弄ばれて生きることを望むとは思えない。
でも、ほづみが私のことを嫌いだという確証もない。
私は、ほづみの本当の気持ちがわからないままでいた。
私がほづみのこころを知るときは、私が愛の糸を斬り落とすときよ。