9 異変(MYSTERY)
二〇一七年一月四日、正午。
私達は四人で、冬季講習に来ている。
私は、授業をろくに聴かず、ほづみとの、これからのことをじっと考える。
けれど、答えは出なかった。
気がつけば授業が終わっていて、生徒達が談笑を始める。
先生が教室にやってきて、あれだけ騒がしかった生徒達が、急に静まる。
その繰り返し。
「かなえちゃんの講義が聴きたいな」
昼休み、私の机で頬杖をついたほづみに、突然、頼まれた。
ほづみは私の目の前で膝立ちになっている。靴下が汚れるからやめなさい。
「わかった。放課後までに何か考えておくから」
「うん!」
私は、ほづみの背後からスカートめくりを企む美月を睨んだ。
「あ……」
美月はぴたりと動きを止め、踵を返した。
放課後、私達四人で教室に居残り、私の特別講義をした。
ピュタゴラス学派と、平行線についての、ちょっとした話よ。
「朱莉……? 寝てしまったの?」
ほづみと美月は朱莉を揺さぶった。
「朱莉ちゃん。せっかくのかなえちゃんの授業がもったいないよ」
「そうだよ。かなえちゃんがショックで泣いちゃうかもよ」
「泣きはしないから、安心して。でも、寝るのはいただけない」
朱莉は机に突っ伏し、夢の世界に浸っている。
よく寝られて羨ましい。私はいつも悪夢にうなされてばかりだから。
私は朱莉の鼻先をチョークで突いた。起きない。
美月が肘で朱莉にちょっかいを出す。起きない。
「あはは。朱莉ちゃん、すっかり寝ちゃったね。うりゃ!」
美月は朱莉のスカートをめくる。……起きない。
「美月ちゃん、朱莉ちゃんで遊んじゃだめだよ」
「えー、昔のほづみんなら、喜んでやりそうなのに」
「えっ……わたしが?」
私はチョークを取り落とし、地面に砕け散った。
「わっ、かなえちゃん?」
「ごめんなさい、ほづみ。手が滑ってしまって」
わたしはチョークの破片を拾い集めた。ほづみも一緒に拾ってくれる。
私は何を動揺しているの?
美月は何かを悟ったように、身体を小さく跳ねさせた。
「あっ、えーと……、ほづみんは、優しいから、そんなことしないよね。あはは」
「そうなのかな……」
それにしても、生徒の様子がおかしい。いつも以上に笑ったり泣いたり、情緒不安定なところが多い。私の振り撒いた呪いが人々のこころを侵食しているのかもしれない。
「ちょ」
私は劇場のダンスホールに立っていた。
周囲には結界が張り巡らされている。
壁のない劇場は、暗い宵闇に閉ざされている。舞台に一筋の光が差し込んでいるばかりで、並の人間なら、目を凝らさないと周囲の様子がわからない。
「か、かなえちゃん?」
背後に立っていたほづみが、私の腕にしがみつく。
「ほづみ、よかった」
私はほづみを優しく抱きしめる。ほづみは小さく震えていた。
「かなえちゃん、ここ、どこ?」
「魔物の結界の中、間違いない」
私はホールの片隅に朱莉を見つけた。気持ちよさそうに寝ている。
『起きなさい、朱莉』
私が強いテレパシーを送ると、朱莉は飛び起きた。
「うわっ、何だよ、いきなり。って、おい、どこだよ、ここ」
『いいから、こっちに来なさい。まっすぐ歩くだけよ』
私は魔物の気配を探った。
「上よ」
私はほづみを抱いて舞台の端に飛び立った。
「おりゃあ!」
美月が舞台に落ちてくる。
「ちぇっ、外したか」
美月は剣を構え、こちらに前転する。
照明が点き、赤と黒のチェック模様で構成された空間が照らし出された。壁や天井は透き通っていて、はるか遠くまで広がる異空間が見える。同時に、バイオリンやチェロ、シンバルやドラムが奏でる、聞き覚えのない、切ないクラシックが流れ始めた。
薄気味悪い空間だわ。私は頭上で優雅に踊る三組のダンサーを睨んだ。
ゆっくりと高度を下げ、私達と同じ高さになっても、踊り続けている。
ダンサーは顔がなく、おぼろげな光の靄の身体をしていた。
服装も、性別も、見ただけではわからない。
その一体を、巨大な石膏の足が踏み潰す。
ずん、と腹の底に響く衝撃が舞台全体に走った。
「ちょ、何よ、これ!」
右足の形をした石膏には、足しかなかった。
パートナーを失ったダンサーは、それでも狂ったように踊り続けている。
まるで私のようね。
踊るダンサーは一斉に私のほうへ向かって来た。
「目障りよ」
「じゃあ、まあ……やるか」
私と朱莉は、背中でほづみを囲み、ダンサーを残らず銃で撃ち消していく。
「こいつめ、さっきはよくもやってくれたな。危うく怪我するところだったじゃないか! まったくもう」
石膏像が小さく揺れ動く。
「私が足止めするから、美月は……何とかしなさい」
「足だけに足止めってやつか?」
朱莉がつまらないことを言うので、脇腹をつまんだ。
「や、やめろ、やめ……」
「あいよー、この美月ちゃんに任せておきなさいっての」
美月はぎらぎらした目で石膏を見上げている。
腹筋を痙攣させた朱莉をほづみに預けて、私は一歩前に踏み出した。
左手の中指に輝く翡翠色の指輪を眼前に掲げる。
「私とほづみの邪魔をするなら、誰であろうと絶対に許さない」
私は鋭い風の刃を石膏の足首に叩きつけた。
石膏がぐらつき、足首がへこむ。
「逃がすか!」
美月は六人に分身して、石膏を囲むようにして大きく飛び上がった。
見た目以上に俊敏な石膏の足は、その場で回転して周囲の美月を吹き飛ばす。
「……美月ちゃん?」
ほづみが私の肩に身を寄せる。ほづみの甘い吐息が私の頬にかかる。
「もらった!」
壁に張り付いていた美月が、光の斬撃を繰り出す。
光の衝撃を足の小指に食らった石膏像は、結界に当たり、粉砕された。
美月は一回転して、私の目の前に降り立った。
「楽勝!」
ほづみは固唾を呑んだ。
「あれ、とっても痛そうだよね」
私が小さく溜息を吐いたときには、教室に戻っていた。
「想像したら、私も足の小指が痛くなってきた」
「うん? 何の話?」
美月はのんきに頭の後ろで手を組んでふらふらしている。
私は時折、あなたの強さが恐ろしく感じることがある。
もし私のこころが壊れてしまっても、美月なら安心して任せられる。
その気になれば、容赦なく私の命を刈り取ることもできるはずよ。
そのときは来ないでほしいけれど、未来のことは、誰にもわからない。
「ところで、いまの魔物は何の魔物なの?」
朱莉が小さく眉を動かした。
「……魔物には、魔物になる理由がある。アンタみたいに祈りで魔物になることもあれば、ほかの理由だってある。美術コンクールでダンサーの絵を描いて受賞したやつが、受賞できなかったやつに受賞した絵画を踏み潰されて、こころが壊れてしまうことだってある。もちろん、魔物になったやつのことなんて、誰も覚えてなんかいやしないだろう。感じ取れるのは、あたしくらいのものだろうか」
「うわあ、えぐいなあ……」
美月は私に寄りかかった。私はもっとえぐいことをしたのよ。
「自然に魔物になるやつの大概は、こころの悩みを溜め込んで爆発してしまったやつばっかりだ。それ以外の小さな魔物は、相応の小さな感情が具現化したものに過ぎない。悩みもちっぽけなものでしかない。でも、問題は、当人にとってその悩みがどれだけ大きなものかどうかだ。悪い方向に傾くと、魔物になっちまう」
悩み、か。
私に課せられた責任は、背負いきれるものだろうか。いまにもこころが押しつぶされてしまいそうだけれど、私は決して無責任なことはしない。
悩みはもうひとつある。私はほづみのことでも、悩んでいる。
私はこころのどこかで、ほづみを諦めきれない気持ちがある。
でも、わたしは自分の意志よりも先に、ほづみのこころを尊重したい。
私はほづみを愛しているから。