いざ夜会へ
「ねえ……こんなくだらないこと、ハァ、やめましょうよ。だいたい、フゥ、夜会なんかより、ウゥッ、気になる本があるって言ってたでしょう?」
リナベルは部屋に入ってきたシオンに、息も絶え絶えに訴えた。言っても無駄だとわかっているが、言わずにはいられない。
だが、シオンはリナベルの訴えを無視して、素晴らしいっ、と両手を広げた。
「ここまでとは―――想像以上だ。自分の姿を鏡で見てごらん?」
言われて見やった鏡の中には、別人のように着飾った自分がいた。分厚い眼鏡を外し、長い睫毛に囲まれたアーモンド型の目がさらけ出されている。普段は三つ編みにしている癖っ毛は静電気がパチパチいうほどしつこく丁寧にくしけずられ、細いサテンの飾り紐や生花を編み込んだ異国風の髪型になっており、耳朶と細い喉元には煌めくダイヤが揺れている。
衣裳は腰をギュッと絞った絹のドレスだ。
シオンは満足気にため息をついた。
「これなら誰も君だって気付かないよ。本当によく似合ってる。そのドレス気に入った?」
それは勿論リナベルだって若い娘だ。おしゃれにまったく興味がないと言ったら嘘になる。だが、普段の自分とあまりに違う格好は、嬉しいというよりも不安な気持ちを募らせるのだ。
しかも花の縫い取りと繊細なレースがあしらわれた優美なドレスは、コルセットが必須だった。ギュウギュウに締め付けられて息をするのがやっと。とてもいつものようには喋れそうにない。
支度を手伝った太った女性が、返事をしないリナベルに代わって、キレイネ、トッテモ、と自信たっぷりに片言で答える。
彼女はリナベルの正体を知らない人間を探してシオンが連れてきたのだ。港町だけに異国の人も多く訪れる。その中から見つけてきたのだろう。問題は言葉がほとんど通じないので、コルセットの締め付けがもう限界だと訴えても無駄だったことだ。
「……ヤバイ……吐く、いや倒れる……」
よろめいたリナベルの腰を素早く支えたシオンは、いいねぇとニンマリした。
「憂いを帯びた美女、男の手を借りなければ立っていられない程儚げな乙女。これがいつもゲイリーと丁々発止でやりあってる口達者な家政婦と同一人物だとは、誰も思わないよ。いやあ、まいった。これ程とはね」
「ちょ……そんなことより、もうちょっと……ハァ、ゆる、めて……」
「何より素晴らしいのは、躊躇いがちに口ごもるその羞じらう素振りだ。男なら誰でも、君を守ってやりたいと感じて奮い立つだろうね」
躊躇っているわけでも羞じらっているわけでもないと、いくら言っても無駄だろう。リナベルは仕方なくシオンを睨みつけるにとどめたが、苦しくて潤んだ眸ではそれすら意味はなかった。
シオンは、いいねその流し目、と満足気に頷いている。
もはや抵抗する気力も失いぐったりしているリナベルを連れて、シオンは馬車に乗り込んだ。
「さあ、リナベル。いよいよだ」
「……やっぱりやめません? ねえ、こんなの悪趣味だわ」
スプリングが利いていて思った以上に揺れが少なく、なんとかドレスのきつさにも慣れてきたが、そうなると今度は自分がやろうとしていることのバカらしさと無謀さに眩暈がしてくる。
なにしろ、この格好で街の官舎のホールを使った夜会に潜り込む計画なのだ。シオンのエスコート付きだから入るのに支障はないだろうが、そもそも金持ち階級の集う場所でヘマをしないわけがない。悪目立ちして散々なことになりそうだ。
他人に注目されたくない自分が何故こんなことをするハメになったのか―――。
延々と心の中で愚痴っているリナベルに、シオンは少し真面目な顔になった。
「心配はいらないよ。小一時間もいれば用は済む。君はとにかくその格好に相応しい、楚々とした風情でいればいい。誰かに何かを聞かれても無理して上手く答えようとせず、微笑んで誤魔化してりゃいいから」
言うは易し、だ。だが、シオンに文句を言う時間はもうなかった。会場になっている官舎に着いたのだ。
もう始まっているのか、外にまで音楽やざわめきが洩れている。
「緊張すると思ったんで少し遅めに来たんだ。入る時、そんなに目立たなくて済むだろうから」
「……それはどうも」
シオンに寄り添って中に入ると、そこは光の洪水だった。華やかに着飾った女性達の身体中で宝石が煌めき、シャンデリアの光を反射している。
中二階の踊り場から、クリスタルのシャンデリアの短くなったロウソクを取り替えるために、使用人が長い鉤棒を伸ばしているのが目に入って、本当なら自分はそっちの側なのにとため息をついた。いやもう、身の置き所がない気分とはこういうことかと実感する。
「混んでるからはぐれないように気を付けて。あ、もしかしてあそこら辺かな? 多分そうだ」
シオンは人混みをすいすいと抜けながら、いくつもある人の集団の一つを目指して歩き出した。
「つかぬことを伺いますけど、なんであれだと思うわけ?」
「あそこだけ男の比率が際立って多いから」
素っ気なく答えてシオンは歩き続ける。リナベルは彼の背中に顰め面をして見せてから、諦めてついて行く。
近くに行くと確かにそれはマチルダ嬢の椅子を囲んだ青年たちの集団だった。にこやかに振る舞いながらも、皆が他人を出し抜こうと火花を散らしているのが丸わかりだ。
誰かが飲み物を差し出せば、他の誰かが彼女の落とした手袋を大急ぎで拾い上げ、他の誰かが空いたグラスを受け取る。
至れり尽くせりの待遇を、マチルダ嬢は淑女らしくいちいち驚きと感謝と喜びの表情で受け取っていた。その集団を遠巻きにしてチラチラ睨む他のご令嬢たちの視線になど気付いてもいないといった態度だ。
だが、本当に気付かぬ筈はない。どの角度にいる青年にも均等に愛想を振りまいているが、その先には男の目には触れないよう気を付けながらも、マチルダ嬢に苛立ちの目を向ける娘たちの姿が必ずあるのだ。
なかなかの肝っ玉だわ、と内心恐れ入っていたリナベルに、シオンは身を寄せて耳元で囁いた。
「あそこにいる。わかった?」
彼が言うのはゲイリーのことだ。なんとかマチルダ嬢の左隣に場所が取れたらしく、他人に割り込まれないよう必死に踏ん張っている。
多分、夢中になっている彼がこちらに気が付くことはあるまい。おかげでじっくり観察できるが、なんとなく哀れに見えるのはリナベルの気のせいだろうか。
「いい? いくよ」
シオンはそう言うと、二人で談笑しているように装いながら、彼らの方にゆったりと歩き出した。
作戦開始ということらしい。
シオンは十分に声が届く距離まで来ると、何気なさを装って、やあゲイリー、と話しかけた。
ゲイリーが邪魔をするなと言わんばかりの邪険さで振り返った時を狙って、リナベルが前面に押し出される。
バレる不安もあるが、怖いもの見たさでリナベルがチラッと視線を向けた次の瞬間、ゲイリーはガタンと立ち上がった。
彼ははっきりとわかるほど、呆然とした顔をしていた。