帰って来た日常
「ふぁ~、眠いっ。……寒いっ、痛いっ、よしっ、行こうっ」
いつものように大欠伸をしてうーんと伸びたリナベルは、自己流の掛け声で覚悟を決めて顔を洗った。表面に薄氷の張った井戸水は恐ろしく冷たい。
声にならない悶えを放っていたリナベルは、家の中から聞こえるアウグストン夫人の声に飛び上がった。
「家政婦ーっ。家政婦っ、どこにいるの? 用があるのよ、さっさと来なさいっ」
「あー……ったく、はいはい、はぁいっ!」
走って行くと、寝間着の上に目の詰まった暖かそうなガウンをまとったアウグストン夫人の用事は、隣室から本を取ってくることだった。顎がはずれるかと思ったリナベルに、奥様は優雅に座ったまま邪険に手を振って急かす。
言われた通りにした上で、リナベルは、あのぅ、と口を開いた。
「自分で取りに行った方が余程早いのでは―――?」
「早い遅いではないのよ。上流の人間はかけられた手間の多さで洗練されていくものですからね。私もよくよく考えると、使用人に甘くし過ぎてたと気付かされたわ」
どうやら長い休暇を過ごした訪問先で、くだらない考えを拾ってきたらしい。『おのずと滲み出る品格』だの『立場に合った振る舞い』だの、あれやこれやと熱弁を振るう姿は何かと騒ぐ息子にそっくり、さすが親子だ。
リナベルはアウグストン夫人の話がダンナの不平不満に及んだところで、なんとか逃げ出すことに成功した。喋っている方は気持ちいいだろうが、こちらは朝食の用意から始まって山ほどの家事が待っている。仕事に影響が出ると覿面に小言を食らうのだ。長口舌に付き合っている暇はない。
「全く、家政婦をなんだと思ってんのよ。腕も足も二本ずつしかないんだっつーの」
口の中でブツブツ文句を言っていたリナベルは、おい、と呼びかけられて、はぁっ!? と言わんばかりの勢いと形相で振り返った。そこに立っていたゲイリーはギョッとして仰け反る。
「な、なんだっ?」
「なんでもないわよっ、何の用っ?」
「な、何って別に―――」
「あっそう、なら失礼しますよ? 今朝は余計なことをしてる暇なんてないんだから」
「なんだとっ? 僕と一日の最初に交わす爽やかな会話が余計なことだって言うのかっ? おいリナベルっ、お前は使用人としての立場を忘れてるんじゃないのかっ?」
「はいはいはい」
あの事件以来、暫らくは沈んでいたが少し元気を取り戻したようだ。活き活きと戦闘態勢に入ったゲイリーを軽くあしらって台所に引っ込んだリナベルは、当たり前のようにくっついてきた足音にげんなりと肩を落とした。
「あのねぇ、言いにくいんですけどねぇ。はっきり言って非常に邪魔なんですけどっ」
「ああっ? 別に気を遣わなくていいぞ」
これは何を言っても無駄だろう。あの時は気持ちが弱っていたからこんな奴でも頼もしく感じられたが、今となっては気の迷いだったとしか思えない。
リナベルは諦めて朝食作りに取りかかる。
あからさまに邪魔者扱いしてもゲイリーは気付くことなく絶好調で喋り続けた。いわく―――。
「しかし驚いたな。何が驚きだって、眼鏡を外したお前の顔だよ。いやはや、中身と外見がこれ程噛み合わないと最早詐欺だぞ。まぁ、今は中身のがさつさと釣り合ういつもの外見だから、違和感はないけどな。それにしても、お前の上っ面につられてつまらない男がうじゃうじゃ現れたが、まさかそれで調子に乗っちゃいないだろうな? なんといったか、ほらあのウィンだかミルだかいう男。突然結婚だのこ、子供だの言って、頭がおかしいだろう。……まぁ、お前だって流石にあんなの鵜呑みにしないよな。そりゃそうだ、そうだよ、うん」
リナベルは完全無視で、塩漬け肉の塩出しをしたり干し葡萄入りのパンを焼いたり、てきぱきと動いていたが、流石にうんざりして振り返った。
「ねぇ、どうでもいいからさっさと食堂に行きなさいよ。朝食出来たわよ?」
皿が満載のトレーの持ち手を持つと、部屋の出入りは斜にならないと不可能だ。入り口にでんと居座っているゲイリーが邪魔でしょうがない。
どいてっ、と顎をしゃくるとゲイリーはムッとしながらも場所を空けた。その前をすり抜けて食堂に行く後ろには、当然のごとくゲイリーがついて来る。自分の振る舞いが鳥のヒナのようだとは気付いてないらしい。彼はテーブルに皿を並べているリナベルに向かって再び話し始めた。
「それにしても、シオンの奴といい、あのビルだかジムだかいう奴といい、あいつらも馬鹿だよな。お前は僕の傍にいたくてうちにいるっていうのに、身の程知らずにも程があるよ。うん」
リナベルは思わずスプーンを取り落とした。はぁっ!? と目を引ん剥く。フィルというゲオルグ大公の名はもはや原形をとどめていないがそれはどうでもいい。その意味不明の話はどこから出て来たのだ?
うっすら頬を赤らめつつも偉そうに踏ん反り返っているゲイリーは、何故か自分の発言に絶対の自信を持っているらしい。リナベルはあまりのバカらしさに顔を顰めた。
「ちょっと伺いますけどねぇ、なんでそんな愉快な思い込みを持つに至ったのか、わたしにも是非教えて貰える? 悪いけど全く意味不明なんですけど?」
「何言ってるんだ? シオンに頼み込んで僕の気を惹こうとしていたじゃないか。正体を隠して夜会に出ただろうが。余程お前は僕に女性として見られたかったのだと察して、不憫になったよ」
「……」
「我が家のたった一人の使用人として仕事に励んでいるのも、他の使用人が雇われたら僕を独占出来なくなるからだろう。しかし、最初こそ僕の傍でひっそりと日々を過ごす幸せで満足していただろうに、人間というのは欲張りなものだな。いつしかそれでは物足りなくなったお前は、僕の周囲に群がる女の子たちに焦って、身の程も弁えずシオンを味方に引っ張り込んだというわけか。こざかしいが、お前にしてはよく考えたな。まぁ、僕としては立場上、その気持ちに応えるわけにもいかないが、寛大な主人としてお前が僕を慕いつつ傍にいることまで禁じようとは思わないし―――」
「……ちょっと待ちなさいよ……っ」
「あ、あの時も……僕の胸に縋ってその……離れたくない、もっと強く抱き締めてと言わんばかりにしがみついてただろう。なんというかちょっと驚いた。想像してたより華奢というか、守ってやりたい感じがこうフツフツと……って、あ、自惚れるなよ? あくまでも男としての責任感で―――」
リナベルは頭を抱えた。こんな辱めを受けると知っていたら、あの時の自分を殴ってでも止めていたのに。
シオンに頼まれて夜会に行ったことや、アウグストン家の締まり屋ぶりの結果までもが、ゲイリーの中で見事に都合よく編纂されている。気持ちよさそうにこちらを見ているゲイリーに説明するのを諦めて、リナベルは肩を落とした。何を言ってもこいつの頭の中では『羞じらうあまりの言い訳』になり、いっそう調子付かせるのが関の山だ。
ちょうど食堂に入って来たアウグストン夫妻が何事かと目を剥く中、リナベルは体調が悪いと言い訳してその場を逃げ出した。夫人の怒る声を背中に受けるが知ったことではない。用もないのに壁際に控えさせたがる、いつものくだらない見栄に付き合っていられるか。
気を落ち着けようと裏庭に出たリナベルは、そこにシオンの姿を見つけたが素知らぬ顔でつんと澄まし、戸口から死角の木のベンチに一直線に向かう。後からついてきたシオンはリナベルの機嫌には頓着せずに傍の柵に凭れかかった。
「どうしたの? どうせまたゲイリーがヘマをして君を怒らせたんだろうけど」
「……まぁ色々と」
「いっそのことうちに来ない?」
苦笑混じりにシオンはそんなことを言う。
「勿論、客分としてだよ? 君を働かせようなんて全く思ってない。なにしろ君にはもっと重大な仕事が待っているんだからね」
「……他人事のように言わないでよ。言っとくけどここまできたら運命共同体みたいなものなんですからね」
「勿論っ。俺もそう思ってるよ?」
口元を綻ばせてそう言ったシオンは、だがすぐに表情を改めて続ける。
「一番大きな責任があるのは俺達普通の人間だし、君の―――君の一族にあんな酷いことをしたんだからね。本当なら君にはこれ以上の負担をかけたくないんだ。ただ、君の力がないと―――」
「わかってるわよ。それにおばあちゃんの遺言だって言ったでしょう?」
色々複雑な思いもあるが、全てひっくるめて決めたことだ。




