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与えられた猶予

 女神の手がひらめき、空気が渦を巻いて動き出す。そのうねりが一つのかたまりになってゲオルグ大公に向かった瞬間、リナベルは飛び出した。

 王族が絶えクローディア国の影響が今以上になれば、人間が女神の信頼を取り戻すのは不可能になってしまう。


 壁に叩きつけられることも覚悟して身体を投げたリナベルは、予想していた衝撃がないことに気付いて、固く瞑っていた目を薄く開け恐る恐る顔を上げた。誰かが女神とリナベルの間に立ちはだかっている。ぼんやりとした視界に映るそれが誰かに気付いて、リナベルは呆然と目を瞬いた。


「カリ……ディアン……」


 うっすらと向こうが透けて見えるその身体に実体はない。ゆらゆらと輪郭の揺れる彼の手には、先程大公が取り落とした剣があった。


『—―—またそなたか。存在も消えかけた身でありながら、我の邪魔をするとは笑止。子孫を守るならば苦しみ死んだ他の者も救ってやればよかったではないか。何故今更現れた。最後の一人となって未練が生まれたか』


 女神が淡々と言う。だがそれだけに怒りの圧が増しているのははっきりと見て取れた。


『私……そのよ……力……ありませ……』

『ならば何故』

『あなた、は……御自分の愛し……コレシュの……を宿、す者……傷つ……てはなり……せん』


 不快げに眇めた女神の眼差しに動じることなく、カリディアンは言を継ぐ。


『コレシュとあな……たが……傷つ……』

『—―—しらじらしいことをっ』

「ぐっ、くうぅ……っ!」


 歯を鳴らして女神が錫杖をかざすと、リナベルの胸が破裂しそうな勢いで脈打ち、そのまま目も眩むような光を放つ。あまりの眩しさと苦しさに目を瞑って呻いたリナベルの耳に、コレシュ……と呼ぶ女神の声が聞こえた。

 後ろの大公もリナベルの肩に手を添えたまま、呆然とした声音で、これが……と呟く。

 不穏な空気がぴたりと動きを止めたことに気付いて、リナベルも目を開けようとしたがどうしてか出来なかった。意識が遠のきそうなのを堪えるだけで精一杯だ。このまま意識を手放せば、女神を説得する手も打てないまま死を待つしかない。いや、自分の命だけでなく世界の終わりがかかっているのだ。

 必死に闘っていたリナベルは肩の手が離れたことにも気付かぬまま、聴覚だけをなんとか保っていた。その耳に、耳鳴りに邪魔されながらも誰かの声が聞こえた。


 —―—母上、私の愛する人を傷つけるのは私を傷つけるも同じこと。どうかお心を鎮めて下さいませ。


 女性の声だ。これがコレシュの声なのだろうか。いや、石になったというコレシュの声が聞こえる筈がない。だが、苦々しげに返す女神の声が、あり得ないそれが現実だと物語っていた。


『そなたの強情には敵わぬ。そこな男を想う念の強さだけでこれだけの歳月を経て尚、我の前に在りし日の形をとることが出来ようとはの。そなたは人間に裏切られし今でもまだ悔いはないのか?』


 それに答えるコレシュに迷いはない。


『はっ。久方ぶりに愛し子の姿を見たと思えば、相も変わらず何の価値もない憎き男と互いに庇い合う様を見せおって。—―—だがそなたの意が変わらぬことは母たる我が誰よりよう知っておるわ。仕方ない。此度は我が退くとしよう』


 舌打ちせんばかりに言い捨てた女神は、改めてゲオルグ大公に、王族と申したな、と声をかけた。


『外れた道を必ず正すと我に申したその言葉、命にかけて忘るるな。もう一度そなたら人間に時間をやろう。そこな娘とやってみるがよい。だがいつまでも天秤の傾きが変わらぬとは限らぬぞ。今度は我を失望させるな』

「必ずや。お約束する」


 リナベルも口を挟みたかったがどうしても出来ないままに女神の気配は消えた。一気に張り詰めた空気が弛む。それでも尚、目も口も開かないでいたリナベルの全身が、何か温かいもので包まれた。その途端、苦痛を伴う胸の鼓動が落ち着きを取り戻し、入れ替わるように心地良い睡魔が襲ってくる。それは耐え難い誘惑だった。意志の力では踏み止まることは不可能だ。圧倒的な威力で眠りに引き摺り込まれていく。


 リナベルは無駄な努力を捨てることにした。いいところを全てゲオルグ大公らに持っていかれた気もするが、とりあえず危機は去ったのだ。このままちょっとだけ身を委ねても構うまい。

 だが、気持ちのいい時間は長くは続かなかった。床に丸まってうとうとしたところをすぐに揺り起こされたのだ。


「リナベルっ、リナベルっ?」

「大丈夫か? 目を開けろ、リナベルっ」

「うう……っ、うるさいわねぇ……っ」


 渋々目を開けると皆が心配そうに覗き込んでいた。


「—―—あ、起きた」

「なんなのよ、人がせっかくいい気持ちで—―—って、あれ? 目が開く。さっきまでどうしても開かなかったのに。ん? あーっ!」


 欠伸をしながら周囲を見回したリナベルは、はっと気付いて皆に詰め寄った。


「ちょっとっ! さっきわたしが使い物にならなかった間にコレシュっぽい人現れなかったっ!? 夢じゃないわよねっ? ちゃんと謝らなくちゃ!」


 是非とも詫びねばならない相手の前で悠長にひっくり返っていたとは、情けないにも程がある。どこよどこっ、と騒ぐリナベルに、皆は顔を見合わせた。


「あー……リナベル? コレシュはえーと」


 口篭もったシオンの後を引き取ったのはゲオルグ大公だ。


「君の中から現れて、君の中に戻って行った、と言うべきだろう」

「……はぁ?」

「つまり君の胸の光がひときわ輝いてコレシュが現れたのだ。ゆらゆらと幻想的な姿の乙女だった」

「彼女は……石だったの—―—?」

「石じゃなかったよ。だが、今にも消えそうな薄く微かな気配だった。というか君の身体に伝わるコレシュの欠片の力だろう。カリディアンが……最後に彼女を抱き締め、目蓋に口接けると君の中に戻ったのだ」


 全員が今起こった出来事を噛み締め沈黙する中突然、おい、と不機嫌な声を出したのはゲイリーだ。なんだったんだよ今のは、と唸る声。


「こんなに危険なことをリナベルにさせるなんて酷いじゃないかっ。シオンは知っていたのかっ? だいたいコレシュって誰だよっ」


 面倒くさいからなんとか状況を説明せずにすませたい。だが、なあなあですませようと考えているリナベルの前で、ゲオルグ大公が余計なことを言い始めた。


「リナベル、さっきも言ったが君こそ私の求める人だ。女神への約束を果たすためにも私達は結ばれるべきだろう」


 絶句したリナベルに大公は喜々として続ける。


「ああ、それから私のことはフィルと呼んでくれ。敬称はいらない。私たちの仲で堅苦しい遠慮や儀礼は必要ないからな」

「ちょ、ちょっと待って。なんでそんな話になるんですかっ!?」

「なんで、とは?」

「いや、あの……ですね。む、結ばれるとか―——その、一般庶民には深い意味にとれちゃうというか、穏当じゃない発言で……」

「いや、どの身分だろうとそれは深い意味の発言と思って間違いないと思う」


 申し訳なさそうに会話に加わったブルグント侯爵の意見は無視だ。リナベルは、ですからねっ、と声を励まして訴えた。


「そういう誤解を生む発言は以後気を付けて下さいよ。全く、いるのよねこういう無意識に女の敵っていう人」


 だが当の大公は不本意そうに眉を寄せた。


「誤解とはなんだ。本心だぞ? もしやもっと直接的な言葉で言うべきだったか? 今は君に贈る指輪もなく、余計な連中もいるから控えていたのだが、端的に言えば私と結婚して欲しいということで―——」

「だーっ!?」


 リナベルは顔を真っ赤にして遮った。


「ちょっと待ってよっ!? 何よっ、都合だけで結婚って。人は愛がなければ―——」

「あるとも。心外だな。それは確かに最初は君と私が力を併せたり、二人で子供を作れば好都合だと思っていただけだが、今は違う。信念のために戦う勇気、美しい心根、しかも私を守るために身を投げ出したあの行動で男心を鷲掴みにされたのだ」

「はぁーっ!?」


 脳天から出たようなリナベルの絶叫に、今まで石と化していたゲイリーが我に返って目を引ん剥いた。


「ちょ、ちょっと待てっ! 黙って聞いていれば何の話だっ。なんだってうちのリナベルに向かってこんなフィルだかウィルだか知らん男が結婚とか言っているんだっ? それに女神ってなんだっ!? 女神じゃなくて家政婦だろうがっ、頭おかしいんじゃないのかっ?」

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