リナベルの見たもの
皆の緊張を感じ取ったのかおとなしくなったゲイリーをはじめ、全員が身じろぎもせず見守る中、リナベルは一人池に向かった。大理石の階段を三段上がり、そっと水の中に足を踏み入れる。
石で足裏が痛いが膝下までの冷たい水を縫って中央の四角柱の台に近寄ると、リナベルは暫らく待ってから後ろを振り返った。
「あのぉ、何も起こらないですけど……普通に声に出して言えばいいんですか?」
だが、その問いに返ってきたのは零れ落ちそうに見開かれた四人の驚きの眼差しだった。
リナベルが慌てて視線を巡らすと、台に刻まれた文字が眩い光を放っていた。四人を振り返った時、無意識に手が触れたのがきっかけになったらしい。台に触れたままの右手が熱くなり、全身を流れる血が沸騰したように沸き立つ。雷にうたれたように髪が逆立ち、仰のいた喉元を晒したリナベルは、破裂しそうな心臓の脈動を感じながら凍り付いていた。
全身が氷漬けになったように強張り、瞬き一つ自由にならないまま、口を衝いて出たのは高く低く、太く細く、強く弱く響き渡る旋律だ。カリディアンの剣を手にした時の歌と似た響きだが、それよりも格段に複雑な音色が絡みながら空中に拡散していく。
自分のものとは思えない低くしわがれた声から、空気を切り裂くような高い声、泣くように笑うように吼えるように、喉を衝いて迸る歌に合わせて、リナベルの視界には様々な景色や情景が広がっては消えていった。
今とは全く違う服装や風俗、習慣を持つ人々の生活。未開拓の繁みや森の多い土地。折に触れて神々と人間の行動範囲が交わる世界。神々への畏怖と敬意。そして慣れ。侮り。忘却。
そして場面が転換する。
崖の上で馬の手綱を曳き長い黒髪を一つに束ねた男。視線の先には淡い空色の衣をまとった金髪の乙女。精悍な男が夢見るようにうっとりと微笑む。心を奪われた表情だ。視線に気づいた乙女が振り返り見つめ合う二人。
再び場面が変わる。
嵐の空。割れる大地。嘆き悲しむ民の声。噴火する山々と焼き爛れた村々。飢えと病の満ちた土地。女神を呪い怨嗟の声をあげる人々の群れ。炎のように赤い髪を躍らせ、荘厳な台座に腰を下ろした気高くも恐ろしい女神の姿。その前に膝をついて何事かを必死に懇願するのは先程の乙女だ。
再び転換。
今度はやつれ果て苦悩する黒髪の男の姿。自分に縋りつき頼るばかりの一族の者達を族長として導く責任と、全てを投げ出し死を賭して愛する乙女のもとへ行きたい思いに切り裂かれ、血の涙を流し喉も裂けよと吼える絶望の声。光を失った乙女はもう男に会いに来ることは出来ない。
女神の前に額づき、愛する乙女の大きな犠牲によって救われた事実を告げられた時の衝撃。抜け殻のようになった男に対して広がる不満の声。一方では女神の娘を利用して世界を救った英雄と称える声の高まり。
王になることを求める民意と、絶望に塗り潰された男の間に広がっていく乖離。
様々な場面が流れていく中、リナベルは傍観者としてただ見ていることしか出来ない自分を歯痒く思い、もどかしさに涙を流していた。明滅する光のように次々と顕れては消える人物像は、名を聞かなくても誰なのかがわかる。
尊敬する叔父の変貌に幻滅を覚えたギデオンの顔や、父を絶望の淵から救い新たな道へと踏み出させた、コレシュの魂の輝きを宿した娘の笑顔だけではない。連綿と続く新しい命の誕生と死の中で、人々の風俗や景色が目まぐるしく変化していき、やがて恐ろしい暗黒の時代が始まる。
笑みの消えた昏い表情が続き、縄をうたれて曳かれていく人の群れや、鞭打たれ血みどろの身体、火にまかれて苦しみ殺される悲鳴が、目に耳に灼き付いて離れない。
今は亡き祖母や伯母の若き日の姿。遠い土地で自分を産んだ後、長く疎遠になっていた祖母のもとに幼子を預けて死んだ、記憶にない病み衰えた母の顔で全ての光景が終わった時、リナベルは全身の力が抜け崩れ落ちていた。
「リナベルっ!」
ゲイリーの声がリナベルの遠のきかけた意識を刺激して引き止める。気付けば台から手が離れ歌声も止まっていたが、脈打つ鼓動は鎮まらず目の奥が赤く染まって感じた。
どのくらいの時間、我を忘れていたのだろうか。かなりの長さかもしれないし、ほんの一瞬だったのかもしれない。
「大……丈、夫……よ……」
安心させようと発した声は信じられない程掠れていた。咳き込みながら身体を起こすと、自分の胸元が淡い光を放っているのがわかる。
「これ……」
「コレシュの—―—魂の欠片が反応しているんだろう。大丈夫か?」
「……ええ……」
心配そうに身をのり出しながらも聖域に入ることに躊躇している大公に向かって頷いてから、よろよろと台に向き直ると、上に刻まれた文字が浮かび上がって見えた。
今まで読めなかった神聖文字が理解できるのはコレシュの力だろうか。リナベルは熱に浮かされたように文字列を追った。
「ああ麗しき……穢れなき乙女よ。天を割り地を穿つ女神のいかづ、ち……最も高き座におわす至高の女神の怒りの前に、その身を投げて守りしは……美しく……情篤き……人の住まいしこの世界……ああ、乙女よ。美しきカリディアンの乙女よ、永久に称えんその徳を—―—」
声が宙に吸い込まれて消えると同時に、水が波立ちはじめた。最初は小さかった波が見る間に大きくなり、壁や天井が軋んで土埃がたつ。
「リナベルっ! 危ない!」
「キャーっ!」
立っていられない程の揺れに全員がその場にしゃがみ込んでいた。ゲイリーはリナベルを助けようと階段に足をかけたところで大公に止められている。シオンは食い入るようにリナベルを凝視めたまま、ブルグント侯爵は落石を恐れて主の頭を低くさせながら、揺れが収まるのを待っている。
台に縋りついてなんとかやり過ごそうとしていたリナベルは、その時奥の壁際に人影を見つけて息を呑んだ。
炎のような赤い髪、額を飾る銀の額当て、白い衣。手には鈴の付いた錫杖を持ち、革のサンダルを履いた足で揺らぐ地面を踏みしめたその姿は、眼裏にはっきりと灼き付いている。
それはまごうことなき天地創造の女神、リナジェその方であった。
女神が手にした錫杖を振り上げると、嘘のように揺れが鎮まる。
彼女の存在に気付いたシオン達が、遅ればせながら息を呑んだ。
「だ、誰だ……まさかコレシュ……?」
コレシュの神殿から連想したのであろうブルグント侯爵の声に、女神はちらりと一瞥を与えた。
『愚かしき人間よ。コレシュは嘆きのあまり石と化したわ』
幾色にも聞こえる声でそう言い捨てて、辺りを見渡す眼差しは鋭く険しい。
『荒れ果てた神殿よの。契約を打ち捨て、裏切りの道を歩んだ人間どもの醜い心根を表しておるわ。かつては国中に散らばる神殿から、コレシュを称える声が螺旋となりて我が耳にまでも届いたものじゃ。今やそれも途絶えて久しいが』
「女神さま……っ」




