顔を見られた
這い蹲って床を磨いていたリナベルは、膝をついたまま上半身を起こして、痛む腰をトントンと叩いた。
広い。無駄に広い。
食堂と応接間が一つながりなので、汚れやすい食堂側の床板の色が変わってしまうと目立つのだ。特に一家の長たるゲイリーの父親の席周りがひどい。まったく、いい大人なんだからご飯くらい綺麗に食べてほしいものだ。
食事中に何かと演説をぶちたがる癖のあるアウグストン氏は、熱中するとカトラリーを持ったまま手を振り回す悪癖も持っている。おかげで油まじりの肉汁やソースがテーブルや床に飛び散ってシミを作るのだ。
リナベルは今朝できたばかりのとりわけ大きな油シミを、親の仇でも見るような目で睨みつけると、再び身を屈めて砂でこすり始めた。
これがなんとかなったら、綺麗になった部分との差を埋めるために、周囲の床も磨き立てなくてはならない。全く、キーッ! と叫びたくなってくる。
老婆のように背中を丸めてゴシゴシやっていると、玄関ホールの方に誰かが入ってきた気配がした。興奮した話し声がするが反響して何を言っているのか聞き取れない。
リナベルはちょっと顔を上げたが、再び床磨きを続けた。誰かは知らないが今日お客が来るとは聞いていないし、客なら勝手に入ってくる筈もない。多分ゲイリーだろう。無視して問題ない。そんなことよりこの床をなんとかしなくては。
だが、話し声は食堂に入ってきた。思った通り、ゲイリーとシオンだ。どうやら騒いでいるのはゲイリーだけらしい。
二人はリナベルに気付かないまま話し続ける。
「だいたい、お前はおかしいんだ。彼女の美しさを見て何も感じないなんて、男として間違ってるぞ? あり得ないっ、マジあり得ないっ」
「いや、ゲイリー。それは個人の好みだから」
「街中の男が憧れるマチルダ・ゴーエンだぞ? 彼女が出席するとわかってて夜会に行かないなんてひねくれ過ぎだっ。しかもその理由が『サイクスの書』! バカらしいっ! カビの生えた古文書なんかのために誰もが楽しみにしている夜会を欠席するつもりか? お前本気かっ? 実在するかもわからないまま何百年も放ったらかされてた古文書の研究なんか、一日二日待ったって何も変わらないだろ!?」
「だからさっきも言ったけど、その日に禁帯出本だったシェルビー教父の論文の写しが一般書籍扱いで図書館に入るんだって。貸し出しは早い者勝ちだから、図書館で待っていたいんだ」
「だーっっ! お前は間違っているよっ。信じられないっ、あー信じられないっ!」
いやいや、あんた仮にも大学生だろうに。
どう考えてもシオンの方が学生のあるべき姿だと内心ツッコんでいたリナベルは、興奮しきったゲイリーのいつまでも続く主張にうんざりして立ち上がろうとした。だが、長く屈んでいたせいでよろけてしまう。
「キャッ!」
思いがけず大きな音をたててしまったリナベルは、どこから出たんだと言いたくなるような、甲高い悲鳴を上げたゲイリーを見て、思わず噴き出した。彼はシオンにへばりついていたのだ。
「あーら、驚かせちゃったみたいで」
「お、お、お、お前っ、何やってんだよっ、なんでこんなとこにいるんだっ」
「よっこらせ……っと。何やってるって、仕事に決まってるでしょ」
「こそこそ隠れて人を脅かすなっ」
立ち上がって裾を払っていたリナベルは、ゲイリーの暴言に目を眇めた。
「人聞きの悪い言い方しないでくれます? そもそもわたしが先にここにいたんですからね。自分で勝手に驚いてシオンさんに抱きついたんでしょ? そりゃ、女の子みたいな声で悲鳴を上げるなんて、しかも男友達に女の子みたいに抱きしめてもらうなんて、こっ恥ずかしくて八つ当たりもしたくなるでしょうけど」
「お、お、お、お前こそ人聞きの悪いこと言うなっ! だ、だ、誰が女みたいだっ! ふふ、ふざけるなっ!」
「ふざけてなんかいませんけど? なかなか可愛らしかったですよ、シオンさんがいつになく頼り甲斐のある男前に見えたりして」
真っ赤になって噴火寸前のゲイリーは、このままでは勝てないと踏んだのか矛先を変えてきた。
「そりゃあ、お前みたいなブサイク眼鏡と比べたら、シオンだって僕にくっつかれた方がよっぽど嬉しいだろうな、リナベル。だいたい仕事サボって何やってたんだよ。本当に仕事してたのか? サボってたんだろ?」
「いいえっ、わたしがこんなところで転がって昼寝でもしてたと思うんですかっ? 床を磨いていたんですっ!」
「ふんっ、どうだか」
「なっ……! あんたねぇっ、どうでもわたしがサボってたことにしたいわけっ? こっちはただでさえ忙しいのにっ」
「あんたとはなんだっ」
仕事内容にケチをつけられては黙ってはいられない。いや、他の時も黙ってないが。
「本来、三人、最低でも二人で回す量の家事労働をわたし一人でやってるんですからねっ。あんた……じゃなかった、ゲイリーお坊ちゃまも他人の邪魔をしてる暇があるなら、ご自分のお父さまに、作った料理の半分をそこらにまき散らさずにすむ食べ方を教えてあげて下さいなっ。余計な仕事が増えて仕方ないんだから」
『ゲイリーお坊ちゃま』のところを強調してやると、ゲイリーは茹だったエビのようになった。
シオンは傍観者に徹しつつ笑いをこらえている。リナベルは両手を腰に当てて二人をじろりと睨みつけた。
「いつまでわたしの邪魔をしてるつもりなんですか? 二人でキャッキャ騒いで遊ぶのは自由ですけどね。どこかよそでやって下さいな。仕事が片付きゃしない」
ゲイリーが泡を吹くのではないかと思うほど血を昇らせているのを見て、さすがに言い過ぎたかと反省〈あくまでもちょっぴり〉したリナベルは、今更ながら繕うように小首を傾げて笑みを作った。ほぼ眼鏡で隠れてしまうが、少なくとも笑っていることだけはわかる筈。
だが、友好を示したつもりのリナベルの笑顔に返ってきたのは、お馴染みの喚き声と乱暴に叩きつけられた扉の音だった。
飛び上がったリナベルが、何よ、と文句を言うと、残されたシオンが肩を揺らして笑った。
「君にゲイリーが口で勝てるわけないのにね。あいつもそろそろ学べばいいのに」
「そんなオツムがあったら落第点なんて取らないんじゃありません?」
「あはは、本当に辛口だね」
楽し気なシオンには悪いが、今この会話も無駄話、時間の無駄である。リナベルはうんざりした気分を隠して愛想笑いを浮かべた。早く追っ払わなければ仕事にならない。
「あのぅ、シオンさん?」
だが、リナベルは次の瞬間驚きで固まった。
シオンがスッと手を伸ばしてリナベルの眼鏡を取ったのだ。さすが女ったらしで名を馳せているだけのことはある。全く相手に警戒心を抱かせないまま間合いに入って、抵抗する間もなく眼鏡を取り上げるその手際。恐るべし、だ。
呆気に取られて見ている前で、シオンは眼鏡のレンズをハンカチで拭いた。
「汚れてたから。はい」
「……どうも」
油を吸わせた砂がはねたのだろう。受け取った眼鏡をかけ直そうとしたリナベルは、手を押さえられてギョッとする。
「驚いたな。君、こんなに美人だったんだ……」
シオンは言葉通り驚いた顔をして、まじまじとリナベルの顔を覗き込んでいた。
「なんで隠してるの? 君の美貌なら街一番の美女の名をほしいままにしているマチルダ・ゴーエンだって足元にも及ばないよ」
「……っ」
「おっと、眼鏡はまだかけないで。目の表情が隠れちまう。それに―――君、視力に問題ないよね? 今見たらレンズに度は入ってないようだ。なんで顔を隠してるの?」
まずい。実にまずい。目立たないようひっそりと身を潜めてきたのに、ぼんくらゲイリーの親友に興味を持たれてしまったのだ。
よりにもよって、と歯噛みしたい気分のリナベルに、シオンは顎を親指と人差し指で支えながら、んー……、と首をひねった。