道なき道を進もう
収穫も終わり日に日に寒さが募るこの時季に、何故『花祭り』という催しがあるのか不思議だったが、聞いてみれば単純な話だった。
今から七代だか八代前の王妃が、国中に蔓延した流行り病の薬草を作るため建設した、通称『ティルダ王妃の花園』。そこにある王妃像を、彼女の命日に水で洗って酒をかける習わしなのだという。『花祭り』とは花園にかけた呼び名で、本物の花の代わりに美しく装った街の乙女達が王妃の花園に集うのだ。
この花園が普段は女性が立ち入ることのない大学の敷地内にあるため、年に一度の祭りの日は大学中が浮足立つのだという。
良家の令嬢を装ってシオンと大学に入ったリナベルは、もういいよ、と言われて、人目につかないよう目深に被っていたマントのフードを払い落した。ぐるぐると首を回す。ずっと俯きがちに歩いていたので、竦めた首が痛くなっていた。
「ここは?」
賑やかな喧騒から離れたひと気のない建物の中で、リナベルの声も自然ひそめたものになる。
「図書館の入っている建物だ。今日はこっちに来る奴はいないと思うけど、みつかったら面倒だから静かにね。もし誰かに行き会ったら、迷子になったということで」
「ええ、わかった」
重厚な造りの薄暗い廊下は、よく見ればあちこちに宗教的なモチーフが据え付けられ、威圧的な空間になっている。教会に足を踏み入れたことのないリナベルにとって、それだけでも決して居心地のいい場所ではなかった。
地味目の服を選んでもらったとはいえ、いつもの姿より確実に目立つ格好なだけに、すぐにでも見つかりそうでドキドキしている。
「じゃあ行こう」
先に立って歩き出したシオンの後を追いながら、勝手に身体が壁に寄ったり後ろを振り返ったりと、不審な動きをしてしまう。それに気付いたシオンに、それかえって目立つから、と窘められてリナベルは眉を寄せた。
仕方がないではないか。気分は敵地に乗り込むも同然なのだ。
「君ほど綺麗な娘がビクビクしてたら、何事かと思われるって。ごく自然に振る舞ってくれないかな。この辺はまだ人に会っても大事にはならないから」
だが見つかったら面倒なことに変わりはない。リナベルはシオンをじろりと睨んで、さっさと歩けと促した。
結局誰にも会わぬまま、複雑に入り組んだ建物の中を進んで、小さな物置部屋に滑り込む。
「ここは?」
「ここから禁書館に行ける筈なんだ。正攻法で行けないからね。ああ、マントは脱いで。邪魔な物はここに置いて行った方がいい」
シオンはそう説明しながら埃っぽい木箱やがたついた丸椅子を動かして部屋の隅に積み上げ、危なっかしい段々を作った。そしてそれをよじ登ると、天井の羽目板を持ち上げて横にずらす。ぽっかりと開いた黒い穴に上半身を潜り込ませたシオンは、何を思ったかひょいと顔を覗かせて、呆気に取られているリナベルを見下ろした。
「先に上がる? 怖いなら俺が下から支えるけど。その場合はえーと、不適切なところに接触したり、見ちゃいけないものを見てしまうかもしれないけど」
「はあっ?」
「だからね、具体的に言うと役得的に俺が君のお尻に触ったり、下着を見ちゃうかもって話。あ、不埒な考えはないから安心してよ。まぁ、完全に真っ白かといえば、それは断言出来ないけどね。でも、ちゃんと―――」
「結構ですっ。先に上がってちょうだい」
思った以上に冒険的な道行きに絶句していたリナベルは、シオンの提案を我に返って蹴散らした。
「そりゃ残念」
全く残念でなさそうにそう言うと、シオンはするすると天井裏に姿を消す。
リナベルは脱いだマントを傍らに置いて、はぁーっ、と溜め息をついた。
こちらの緊張を解そうとするシオンの軽口に、とりあえず感謝だ。さっきまでのガチガチになった状態では、この先いくらも保たなかったに違いない。小さなヘマが命取りになる場所で、過ぎた緊張は足を引っ張るだけだ。
ここからは誰かに見つかったら言い逃れの余地はないのだ。
リナベルはもう一度大きく息をつくと、手のひらの汗を腰の辺りで拭ってシオンの後を追った。さすがに天井裏によじ登るのは大変だったが、シオンに引っ張り上げてもらい無事到着する。
「お見事」
色めいた気配の微塵もない手付きでリナベルを助け上げたシオンは、すぐに天井板を戻して穴を塞いだ。
真っ暗になるかと思った天井裏は、どこからか洩れ入る光で薄明るい。
「じゃ行こう。それから足音が響いたり、埃が下に落ちるとまずいから、梁の上だけ歩くようにね」
「わかったわ。望むらくは蜘蛛の巣がありませんようにってことね。ネズミは言うまでもなくご勘弁願いたいし。あー、それからこの埃で肺病になるなんてのもご免だわ」
小声とはいえいつもの調子でまくしたてたリナベルは、ぼやっとしてないでさっさと案内してよ、とシオンを急かした。女の我が儘になれているシオンは賢くも、君のお話を拝聴していたからです、とは言わずにおとなしく歩き出した。
道のりは今まで以上の険しさだったが、人目を気にしなくてすむ分マシかもしれない。息を切らしていたリナベルは、行き止まりでシオンが屈み込んだのを幸い、一息ついて休憩した。
「ふぅ、思った以上にキツイわね……山越え谷越えってかんじじゃないの。もうちょっと歩きやすいよう少しは配慮して欲しいわよ」
「そりゃ無理な話だね……単純に考えて、こんなところを歩くのは疚しい目的を持つ、俺達みたいな人間だけでしょ。そんな奴のために配慮してくれる筈はないと―――」
「だーっ、そんなのわかってるわよ。文句くらい好きに言わせてちょうだい。―――てか何やってるの?」
「ふんっ、ここをっ、通り、抜けるためっ、板を剥がしているんだ。ふんっ、ちょっと待ってて」
そう言いながらシオンは行く手を遮る板を取り出した金梃ではずしていく。想った以上に手際よく、人ひとりがなんとか通れるくらいの穴がすぐに生まれて、リナベルは胡散臭そうに向こうを覗き見た。
「この先、ね。確かなの?」
「うん。大丈夫? 女の子には過酷過ぎるかな」
「まさか。文句ばっかりで信じてもらえないかもしれないけど、こんなの全然問題なしよ。わたしだってあなたに負けず劣らず、秘密の書庫とやらに興味津々なんだから」
ただちょっぴり胸とお尻の辺りがつかえないか不安だけど、と目を眇めたリナベルに、シオンはヘラッと微妙な笑みを浮かべた。
「あー……多分、全く問題ないんじゃないかな……と」
その態度と言葉に、リナベルはシオンの背中を一発どついてから、穴の中に足から入った。癪に障ることにシオンの言う通り、全く問題なく通り抜けられたが、盛大に呻いて胸がつかえたフリをしてやる。だが、子供をあしらうように、大丈夫? と聞かれるとバレバレなのがはっきりしているだけに、虚しさ倍増だった。