カリディアンって誰だ?
アウグストン夫妻が留守にして二十日が過ぎた。リナベルとシオンの協力関係が結ばれてからは、その倍以上の日数が経っている。その間、互いの信頼関係を築いていくうちに、リナベルは学問の楽しさを知った。
子供の頃の四年間は村の学校で学んだが、あとは祖母に教わった知識しかないリナベルにとって、シオンのもたらす書物や研究の知識は、難しいが胸の躍る内容だった。呆れるくらい的外れな研究もあったが、『サイクスの書』関連では新しい知識や手がかりも多かったし、元々リナベルが持っていた知識に裏付けとなる証明が与えられ、今までにない豊かに色づいた美しい世界が広がったのだ。
勿論、リナベルもシオンに出来る限りの協力をした。
例えば『サイクスの書』そのものについてだ。シオンに見せられた石板の写しという本の文章に誤りはなかったが、実は途中の内容が抜けていた。あれは完全ではないのだ。
リナベルも祖母も、六百年も前に紛失したという石板の実物は知らないが、魔女の間ではここに刻まれた文言は一言一句違わずに口伝えで残されていた。それによれば、女神の娘コレシュが光を失った後の『女神と人間は契約を結んだ』という文の後に、その消えた文言がある。
いわく―――。
『カリディアンは人の王。鉄の鎧と革の脛当て、大小二振りの剣を佩き、馬の王に乗っていた。
肩にとまるハヤブサの王。膝下にあるは犬の王。
背までを覆う黒髪と、真理を見通す黒瞳と、知恵の生まれる頭を持った、強く凛々しき人の王。
林檎を運んだハヤブサにより、女神と縁と契約を結び、人の世に平安をもたらした』
これを知ったシオンはあらゆる資料をひっくり返して調べたが、役に立つ情報は何もなかった。
「何故、この部分が抜けたんだろう。確かに石板はいくつかに割れていたものを復元したらしいんだけれど―――」
「へぇ、そうなんですね……」
「でも、この部分だけきっちり抜けたっていうことに、なんとなく作為的なものを感じないか? 知らない人間は途中が抜けているなんて思いもしない筈だよ」
「うーん。でも、わたしの方が間違って覚えてるのかもしれないし……。おばあちゃんだって代々伝わってるうちに、変化してしまったものを教えてくれたってことも……」
「いや、それはないとは言わないけれど、可能性は低いだろうね。他の部分に関して一言一句変わっていないんだ。この部分だけ間違いとは考えにくいよ」
問題点は他にもある。
リンカーティン王国が『サイクスの書』で言うところの、人間が女神と契約した地なのは明らかだったが、歴代の王の中にカリディアンという名は見当たらないのだ。
長い歴史の中で数多の王が玉座についた。短命な王、長命な王、大きな業績を残した王もいれば、国に荒廃をもたらした王もいた。後世に語り継がれる有名な王もいれば、存在すらあまり知られていないような無名な王もいたが、その中にカリディアンという王はいなかったのだ。
「少なくともこの話が生まれたのは六百年以上前のことだ。つまり、それ以前の王ってことだよ」
「……でも、もしかしたら玉座についた王じゃないのかもしれないわ。こういう伝説になるのが市井の人ってことがあってもおかしくはないんじゃないの? 例えば―――おらが村の大食い王! とかそんなかんじで」
「うーん……いや、それはないな。わざわざ人の王と明記されている人物が、そこらの有象無象だったとは考えられない。少なくとも当時の人々にとっては、英雄的人物だった筈だ。王という表現はそれ程重く大きいものなんだよ。しかも馬の王、ハヤブサの王、犬の王を従えた人の王だ」
しかもシオンによれば、カリディアンの描写自体が彼の身分の高さを表しているそうだ。
剣を携えた騎馬姿だけならただの兵卒だったかもしれないが、ハヤブサと犬は狩りの象徴だという。昔から現在に至るまで狩猟を許されているのは、広大な領地を持つ一部の権力者、特権階級に限られている。つまり、王族や高位の貴族だけなのだ。
「ということはやはりある程度の身分。王か、王でないなら王以上の力の持ち主だっただろう。さもなくば、本物の王が自分を差し置いてそんなすごい馬や犬を持つことを許す筈がない。ましてや『人の王』なんて僭称を許すなんてありえない」
だが史実をあたって英雄視されている人物を総ざらいしても、それらしい人は見つからなかった。
角度を変えて伝説の他の部分から、大きな天災があった時代、特に地震と火山の噴火の記録をも探してみたが、わからなかった。
地理の研究文献によれば、大陸の古い地層には、リンカーティン王国を含む広範囲に亘って厚い火山灰の含まれた部分があるという。だが、それがどのくらい古い時代のものかはわからないのだ。
「まぁとにかく、有名な王としては初代国王のギデオン王から始まって、大規模な灌漑を行ったニキ王、遠征王と呼ばれたシベリウス王、ケンダル王にクワート王……」
「ちょっと待って。ケンダル王って酒浸りの王様でしょ? 英雄に相応しくないわ」
「いや、彼は子供を二百七十九人残したと言われているんだ。二百七十九人だよ? すごいよね。英雄っぽいとは―――」
「思いませんね」
「ああ、そう……? じゃあ、まぁいいけど。でも男のロマンなんだけどなぁ」
「……」
何が男のロマンだ、くだらない。色欲にまみれた単なる種馬ではないか。諦めきれないようにケンダル王の名を未練がましく連呼するシオンに、リナベルはため息をついた。
まあ、シオンの浮ついたところは相変わらずだが、慣れてしまえばなんてことはない。今みたいにくだらないところで粘ることもあるが、基本的には軽くあしらってやればすぐに諦めて本題に戻るから、楽と言えば楽なものである。
恨めし気にロマンロマンと訴えてくるのだけはうっとうしいが、そういう部分がなければ歴史の研究なんて地味な学問は出来ないのだろう。それなりに知識も豊富で、わかりやすい説明にはいつも惹き込まれるし、一応、学生としての姿勢だけは見直したのだ。
温かい気持ちを取り戻したリナベルが、いつものように目を半眼にして、〈慈愛に満ちた〉と自分で思っているぬるい微笑を浮かべてゆっくり二、三度頷いてやると、シオンは何故かガックリと肩を落とした。
「わかった。ケンダル王は外すよ」
「え? そうですか? ……ならいいですけど。あっ、あとギデオン王は? 初代ってこと以外、特筆すべきことはないじゃないですか」
「うーん……でも他国に類を見ない、三千年以上続いた長期に亘る王朝の始祖だからね。国の土台を築いたという考え方も出来るかと思うんだよね。確かに地味だけど……」
「う~ん……まぁそう言われれば……」
だが、二人で頭をつき合わせて唸っていても、わからないものはわからなかった。