『サイクスの書』
「これは六百年程前に記された『サイクスの書』に関する本なんだ。現存する中で、最も信ぴょう性が高い写しが載っている。実物は石板で、その頃紛失したとされているから、これを元に後の様々な研究がなされてきたわけ」
シオンは先程までとは格段に熱の入りようが違う口調でそう言うと、丁寧な手つきで頁を繰った。
「この『サイクスの書』というのは世間にあまり知られていない。学術的には古代の人間がどういう文化や考え方を持っていたかを知る上で最重要と位置付けられている、第一級資料なんだけれどもね。専門家以外の目に触れることがないのは、内容が創世記神話や契約神話に分類されるから―――一時期、異端の考え方として排除されてきたからで……ああ、これだ。ここにその神話が載っているよ。まあ、荒唐無稽なお伽話に過ぎないけれどね」
リナベルは黙ったまま、示された頁に目を落とした。
『遠い昔。大地には豊かな実りがあった。人間は大地に満ちていた。ある時、天地創造の女神リナジェが、自分の作った世界を作り変えようと思いついた。女神は大地に物が多くなり過ぎたと考えたのだ。
それを知った人間達は困って、女神に思い直してもらうため、祭壇を作り家畜の生け贄を百頭用意して祈りを捧げた。だがその時に家畜を惜しみ「なぜ女神はこんなことをするのか。本当に迷惑な話だ」と言いながら羊の喉笛を切り裂いたので、女神は怒って地を揺らし、大地の人間の三分の一を地の底に呑み込ませてしまった。
残った人間達は再び祭壇を作り、前回の倍の家畜を用意して祈りを捧げた。だが人間達はまた儀式の際に不平を言ったので、女神は怒って山の頂から火を噴かせ、溶岩を川のように流して、大地に残った人間の半分を呑み込ませてしまった。
今度こそ本当に悔いた人間達は、再び祭壇を作り生け贄を捧げようとしたが、地割れと火山の噴火で多くの家畜が死に、用意出来なかった。
滅びを待って嘆くばかりの人間達を見ていた女神の一人娘コレシュは、これを哀れに思い母の前に跪いて赦しを乞うた。
だが女神の怒りは深く「たとえこれまでに生まれた全ての人間と、これから生まれる筈だった全ての人間の五体を引き裂き、流れる血で大地が赤く染まって、苦しみ嘆く声が地上に満ちたとしても、私は決して赦さない」と言われた。
それを聞いた娘は、そのような景色を見たくないと思い、己の目をくりぬいた。
光を失ったコレシュを見て後悔した女神は、彼女の愛した世界を赦し、人間の長に娘の両の目を授けこう言われた。
「我が娘の願いゆえ赦してやるが、人間は彼女のために神殿を作り、感謝と崇敬の声を届けよ。自らが彼女の犠牲に見合う存在であったと証明せよ」
こうして女神と人間は契約を結んだ。
人間は悔い改め、言われた通りにしたが、長い歳月のうちに感謝の念も記憶も薄れ、いつしか神殿は詣でる人もなくなり、打ち捨てられて廃墟と化した。
だがそれでも女神は娘の願いを思って、何も言われなかった。
人間はいよいよ繁栄し驕り高ぶって偽の神を作り、そちらに額ずいて崇めるようになった。金儲けの神、虚飾の神、欲望の神である。
女神の娘は光の射さぬ暗闇の世界に一人座って耳を澄ましていたが、いつしか声が届かなくなったので人間は滅びてしまったと思い、悲しみのあまりその姿のまま石になってしまった。
時に、人間が女神と契約を結んでより、二千二百八十六年後のことである』
「そこに書かれている女神との契約を結んだ場所が、ヒルギス地方のサイクス山。だからその名を取ってこの神話は『サイクスの書』と呼ばれているんだ。六百年前には一般的な伝説だったんだろうね。この神話を石板に刻んだのは、コレシュの神殿の巫女だったと言われている」
リナベルは頭を上げた。
「これが何なの?」
「うん。俺はこの神話に出てくる契約っていうのが、具体的にどういうものだったのか、研究しているんだ。神殿のあるサイクス山の中腹にあるクゲル村は、今は人口も減って二十世帯にも満たない過疎の村だけど、大昔はとても栄えた都だったらしい。地層を掘り返すと当時の痕跡がかなり広範囲から出てきて、大きな都市だったことがわかっているんだ。そこからいずれ契約の内容を記した石板が発見されるんじゃないかと『サイクスの書』の研究者達は皆、手に汗握る思いで待っているんだよね」
「はぁ……」
それはすごいっ、とでも言えばいいのだろうか。リナベルは熱弁を振るうシオンを扱いかねて、気の抜けた相槌を打つ。
「そのクゲル村は、他の土地より魔女が多かったことで知られているんだよ。神殿が廃れた時代から少しずつ人口は減少していたけれど、こんなに寂れてしまったのはアウストラ教が国教に定まってからだ。つまり異端審問でクゲル村の人口は一気に減ったというわけ。俺はね、だから魔女はもしかしたら『サイクスの書』に関する知識を持っていたかもしれない、と思っているんだ」
「……」
「君はどこの出身なの? 『サイクスの書』について何か知っている?」
「……ティグリット村出身ですけど」
「ティグリット村―――クゲル村とはそう遠くないね」
「は? 馬車で二十日もかかるのに?」
「あはは、まあ近いとは言い難いか。でも途中は平坦な道が続いて移動しやすい方だと思うけど。それにしてもリナベル、よくクゲル村との距離を知っていたね」
「……そっちこそ、ティグリット村なんて小さい村をよく知ってますね」
「そりゃあ、俺の知的探求心が身に着けさせた教養ってやつさ」
「わたしのもそれですよ」
「ふーん……まあ、いいか」
シオンはあっさり頷くと表情を改めた。
「俺はね、リナベル。この国の歴史を学んできて思うようになったことがある。魔女がたとえどんな力を持っていたにしても、迫害はこの国最大の恥ずべき歴史だったとね。こんなことを言うと、俺も異端だと後ろ指を指されるかもしれないけれど、調べれば調べる程その思いは強くなった」
シオンの黒い眸は今まで見たこともない程真剣だった。
「だからね、君のことは教会にも大学にも絶対に言わない。俺としてはアウストラ教の教義は完全に間違っていると思っているんだ。勿論、今の時代にこういう意見を持っているからって投獄されたり、縛り首になるなんてありえないけれど、知られたらあまり芳しくない影響はあるだろうね。けれども残虐な行為を容認は出来ない」
シオンの踏み込んだ発言に、リナベルはぽかんと口を開けたまま固まっていたが、危うく涎が垂れそうになり慌てて閉じた。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫ですっ」
乙女らしからぬ音をたててしまった恥ずかしさで、思わず強い言い方をしたリナベルは、改めてシオンを見つめた。
いつも違う女の子を連れて歩きながら、その実たいして女の子に興味がない、冷めたところのある男。偉そうに振る舞うのに何かと要領の悪い幼馴染みの我が儘を余裕であしらい、たまには小バカにしながら、実はそんなゲイリーに対してだけは自分のことのように親身になっている男。
何をしていてもどこか飄々としていた彼が、今は真面目な顔をして他人に聞かれたらまずい心情を吐露しているのだ。
息を詰めるようにしながら、分厚い眼鏡越しに彼をまじまじと見つめていたリナベルは、暫らくしてほぉっと息をついた。いくら考えても、シオンが本音で喋っているのか、それとも何らかの思惑があるのか、わかる筈もないのだ。だったら考えるだけ無駄だろう。
少なくとも、魔法を見た一般人の反応として祖母に聞かされたものとは全く違うシオンの言葉に、気持ちが楽になったのは事実だった。




