リナベルの視点で学術書を見ると・・・
次はこれなんだけど、と言いながら差し出された書物にざっと目を通したリナベルは、凶悪な表情で頭を掻きむしった。
「なんですか、これはっ?」
『姫七、虹四、コンフィ〈山羊〉』と書いてある行を、苛立ちも露わに人差し指で指し示す。
「ああ、意味深だろう? これはセルト村で発見された帳面の切れ端の文章だよ。十年前にルルベック教授が発表した論文によるとだ。これは何かの儀式の生け贄に王族の女性七人の命を必要とした、と解釈されている。虹が四つもかかるというのは考えられないから、虹が出ている間に四方に設けた祭壇に山羊の血を捧げて、『コンフィ』と唱えたんだ。ただ何の儀式だったのか、そこが謎で―――」
「どこが謎なのっ? これは姫鱒と虹鱒、コンフィはチーズのことでしょっ? ただの買い物リストだわ」
―――沈黙が訪れた。
聞いてるのっ? とばかりに顔を上げたリナベルは、遠い目をしているシオンを見てちょっとたじろいだ。強く言い過ぎたかもしれない。
「あの……シオン?」
恐る恐る呼びかけると、シオンは弱々しい笑みを浮かべた。何度も口を開いては閉じを繰り返し、やっとのことで声を出す。
「姫鱒と虹鱒、と、チーズ……コンフィ〈山羊〉というチーズがあるのか……」
「……正確にはコンフィディレンティンティン・シルナットバラングラーチェっていうんですけどね」
「山羊というのは……」
「そのままの意味です。昔ながらの山羊のチーズってことですよ。コンフィディレンティンティン・シルナットバレングラーチェという牛のチーズと一字違いで、しかも長ったらしい名前なので、コンフとかコンフィと書いて牛か山羊のどっちかを付けとくんです。よく食卓に上がるでしょう? ほら、少し酸味のある西の方で作られるチーズですってば。家計簿を預かる家庭の主婦や家政婦なら常識というか……」
「あれか……」
がっくりと肩を落としていたシオンは、暫くして多少気を取り直したのか、力なく別の書物を手に取った。
「じゃあ―――次はこれだ。えーと……」
「ていうか、もういいかげんにしてくれません? さっきから誰かの恋文の下書きだの、子供の下っ手くそなしりとりだの、うわ言めいた詩だの、買い物の控えだの、そんなのばっかじゃないですか。本当に大学じゃこんなもんに意味があると思って研究してるんですか?」
うんざりしている気分を隠さずリナベルがそう言うと、シオンは再びがっくりと肩を落とす。
「うん……そうなんだよね……俺としてもかなり衝撃的な事実だったよ。多くの学者達を魅了してきた、浪漫溢れる神秘的な謎だった筈が、ただの深読みだったとは―――」
「というより、ここまでくるともはや一種の創作だわよ」
「ははは……はぁ、うん、確かに……」
実際、リナベルでなくとも良識を持った人間が見たら、ただの落書きだとすぐにわかるシロモノばかりだった。それをおどろおどろしく変換して、勝手気ままに解釈する阿呆な学者の手腕は、普通の神経の斜め上を行っている。
『別に深い意味はないんだけど、結構趣味が合うっていうか話が合うなぁとか思うし、なんか僕らをそういう感じで見てくる奴も多いし、それも別にいいかなって思ったりもするんだけど。あくまで友達としてって意味で本当に深い意味ないし、別に今僕は恋愛とかマジ興味ないし、ていうかこの先もそんな興味湧くとか思えないんだけど、でも軽い質問だから軽く答えてほしいんだよね。そっちはどう思ってるのかなって思って、そっちがその気なら別に付き合ってもいいし、まあふと思っただけで本当に僕としてはどっちでもいいから、ていうかこの内容は絶対に誰にも見せないように。誰も興味ない話をすると君が引かれるから相談とかもしないように。そして返事は必ず三日以内に手紙で渡して下さい。繰り返しますがこの内容は絶対に他言無用で―――』
こんなのをいかにもご大層に研究と銘打って、長年こねくり回していたという無意味さに、心底呆れると同時に少しは同情もしてしまう。見た瞬間に「長っ! そしてウザッ! 好きなら好きと自分からはっきり告白せいっちゅーの! なんだこの遠回しな探りの入れ方は! バカかあんたはっ!?」と、何百年も後に恥ずかしい手紙を掘り起こされ、皆に研究されてしまっている哀れな意気地なしに喝を入れてしまったが、書いた当人かというくらいシオンが萎れていた。
リナベルが悪いわけではないが、最初の目の煌めきを覚えているだけに、今や夢破れてどんよりしているのを目の当たりにすると、不憫でならない。
「ま、まあ、見方を変えれば無駄な時間をこれ以上重ねずにすんで良かったじゃないですか、ねっ?」
リナベルは必死にシオンを慰めながら、何故こんなことになったのだろうと溜め息をついた。だがまあ、秘密を盾にとって付き合わされているのに、今日までのこの一連のやりとりの影響で怯える気持ちが薄れ、いつもの調子に戻れたのは収穫と言えるかもしれない。
シオンはどうやら純粋に学問としての魔術や、魔女の歴史に興味を持っているだけらしく、リナベルの協力を取り付けた後は一度も脅迫めいた態度を取らなかった。今も結果的には魔女と全く関係ない文献や資料ばかりだったが、癇癪を起こすこともなく、ゲイリーと比べると扱いやすいくらいだ。
そのゲイリーといえば、どう説得されたのか、両親が不在の間リナベルがシオンに協力することを、不承不承だが了解していた。休暇扱いのリナベルの代わりにグレゴリー家の女中が通いでアウグストン家の家事をしているが、シオンもいつも暇なわけではない。
リナベルが呼びつけられるのは日に二、三時間くらいで他の時間は空いているから、なんとなく手持無沙汰を埋めるために、毎日皿いっぱいにゲイリーの好きなお菓子を作ってやっている。本人は何も言わないが、食料室の戸棚に置いた菓子が減っているので、夜中にでもこっそり食べているのだろう。全く子供みたいな奴だ。
文句や厭味ばかりなのがうっとうしくて、なるべく顔を合わさないようにしているとはいえ、なんとなく情緒不安定な感じがして多少は心配しているのだ。
リナベルは余分に作ってきた焼き菓子を取り出して、一つ摘まんだ。砂糖衣をかけた菓子の甘みが疲れを優しく癒してくれる気がして、自然に表情が弛む。
「あ、よかったらどうぞ? おやつでも食べて気分を変えましょうよ。ね?」
シオンにも勧めると、彼はのろのろと一つ口に運んだ。そのままぼそぼそと咀嚼している。
リナベルはムッとした。精神的に大きな打撃を受けたばかりで落ち込んでいるのはわかるが、せっかくのお菓子をあまりにも美味しくなさそうに食べられると、こちらの機嫌も下降してくる。
「あのねぇ、そんな嫌々食べなくても―――」
「……ウマっ」
「え、あ、そう……?」
文句を言おうとしたところで賛辞を言われて、矛先が鈍り語尾が尻すぼみになってしまう。締まらないったらありゃしない。旨いんならもっとわかりやすく、何これめっちゃ旨いんですけどぉっ!? という顔をしてみやがれっ、と内心毒づきながらも、リナベルは残りの菓子も差し出した。
作った物を褒められると弱いのは家政婦なら誰しも同じ、女心というやつだ。
「まあまあ、たくさんお食べなさいよ」
二人でばくばく食べているうちに、重い空気がだいぶ軽くなっていた。そこで本当に気持ちを切り換えられたのか、シオンはリナベルの前に積み上げた本の山を大雑把に取り除いた。
「いや、君のお蔭で色々とわかって良かったよ。『女性視点から見た歴史的資料の扱い方に関する一考察』という題で、今回得た貴重な情報を論文にまとめることにする。でも……次に見せるやつも同じような展開になったら、さすがに暫らくは立ち直れないかも―――」
そう言いながら大切そうに差し出されたのは、表題が『サイクスの書』と金字で打ち出された古い本だった。