協力関係
逃げ切る前に捉まってしまう。
「君の能力に興味がある。知っているかもしれないけれど、俺の専攻は古文書なんだよね。知ってた?」
「……」
そんなことをリナベルが知るわけがない。大学なんて金持ち坊ちゃんの趣味の延長、道楽の一種としか思っていないのだ。何を学んでいようとどうでもいい。
「なんだよ。冷たいなー。俺にもうちょっと関心を持ってくれてもいいのに。俺はリナベルに興味津々だよ?」
「……」
「まぁ、とにかく古文書専攻なわけ。サライン教を信仰していた時代の、いわゆる封印文書の研究をしているんだ。それを手伝って欲しいんだよ。読めないところや抜けているところ、わざと隠喩的に表現しているところも多くて、意味が通らない文献や石碑が幾つもある。君なら―――理解できるんじゃないかな」
封印文書とはその名の通り、魔女時代の遺物として長らく封印されてきた資料だ。三十年程前から研究が盛んになり始め、今ではそれを専門にしている学者もいるらしい。シオンはそれを学んでいるという。
リナベルは慎重に、あのね、と口を開いた。
「何を期待しているのか知りませんけど、わたしには無理です。偉い学者やあなたのような賢い―――かどうかは知らないけど、まあとにかく大学生が日夜研究してわからないものを、わたしなんかがわかるわけないですから」
「えー? だって君、魔女でしょ?」
「だぁーっっ! ちょっとっ!?」
「あ、ごめんごめん。言っちゃいけなかったね。気を付ける。でも君が魔……なのは事実だから、君にしかわからないこともあると思うんだよね」
「わかったわよっ、わかりましたっ!」
二人きりとはいえ、うかつなことを言い散らすのはやめて欲しい。どこで誰が聞いていないとも限らないのだ。
「無用心なことをしないでちょうだい。協力はするから、その代わりその言葉は今後絶対に口にしないで。……それと、期待通りにいかなくても怒らないで下さいよ?」
「勿論。友達じゃないか、リナベル」
友達のつもりはないし、仮にそうだとしてもシオンのやっていることはれっきとした脅迫だ。信頼するのは難しい。
だが、リナベルは渋々頷いてみせた。信頼しにくかろうとこいつの条件を呑むしか手はないのだ。なんとなく現実逃避の感があるが、せっかく手に入れた安定を手放す勇気は誰だってそう簡単には持てない筈。
とりあえず、そう悪い奴ではないというところに賭けて、暫くは様子を見るしかないだろう。
それに―――もしかしたらこれをきっかけに、祖母の遺言を果たす糸口がみつかるかもしれない。
「友達かどうかはともかく、一応協力はします。といっても、仕事の合間を縫ってあなたの相手をすることになるから……毎日ってわけにはいきませんからね?」
「うん。そうだよね。リナベル一人でアウグストン家を回しているんだもんな。うちに勤め先を替えてくれたら嬉しいんだけど―――」
「そ、それは……」
「うん。それはゲイリーに断られた。君、よっぽど大事に思われているんだねぇ」
「はぁっ!?」
危なく顎が外れるところだった。あまり気持ち悪いことを言うのはやめて欲しい。
「まぁ、それはともかく。あと二十日程したら今年の収穫も全部終わって、聖リンロップ祭が始まるけれど、ここの家族は毎年シンガ湖の親戚のところで一月ほど過ごす筈だ。聞いている?」
「まぁ、なんとなく」
正確には、うるさい両親がシンガ湖に行ったら羽を伸ばすつもりでわくわくしているゲイリーが、度々言ってくる子供じみた計画の数々で知ったのだ。例年は家族全員で訪問していたらしいが、今年は大学の課題を理由に別行動を勝ち取ったと威張っていた。おかげでその間もリナベルはゲイリーの世話をしなくてはならなくなり、正直げんなりしていたのだが。
「なるほど。あいつの計画なんて、思う存分寝坊するとか、ちょっと評判の良くない連中の夜会に参加するとか、その程度の可愛いものだろうけどね」
「それとか、最近『世界の美女百選』の今年度版を手に入れたと浮かれていたんで、この機会にじっくり堪能するんじゃないですか?」
「ああ……ごめんね?」
「……なんでわたしに謝るんです?」
「その本をゲイリーに渡したの、俺だから。ちなみに『魅惑の熟女特集』ね」
「……」
「あいつのリーナへの想いは本物だと思うよ? 蜂蜜でも嘗めたのかというくらい、甘ったるい賛辞をまき散らしていたからね。ただ―――男というものはどうしようもない生き物なんだ。情けないことに」
そんなことをしみじみと言われても困る。
リナベルはシオンに白い目を向けた。
「ああ、リナベル。そんな軽蔑するような目で見ないでくれ。『魅惑の熟女特集』は二十代から五十代の御婦人で構成されていて、特に過激で刺激的と一部の愛好家の間では垂涎の一冊なんだよ?」
「愛好家……」
「うん。これが十代の令嬢だけで構成された『青い果実編』だと、着こなしも硬くて色気が足りないんだけどね。まぁ、そこがいいところでもあるんだけど、やっぱり成熟しきった肉体の魅力をこれでもかと見せつける熟女特集は、隠れた人気作なんだ。極限まで露出した胸元や、油を塗って光らせた唇など、男の欲望をあますところなく表現した素晴らしい画集で、手に入れるのは大変なんだ。勿論、数量限定版の『悲しみにくれる麗しの未亡人編』程の希少価値はないんだけどね」
熱を帯びた口調で滔々と語っていたシオンは、呆れて絶句しているリナベルに気が付いてやっと口を閉じた。二、三度咳払いをしてから、誤魔化すように笑ってみせる。
「ま、まぁともかく、えーと、あいつの秘蔵本の話は措いておくとして。アウグストン夫妻がシンガ湖に行っている間、休暇ということにして俺の自由研究に協力してくれないか? 勿論、その間の賃金はきちんと支払うし、ゲイリーのためにはうちのアイラを代わりに寄越すから」
リナベルは半ば観念して、肩を竦めた。
「いいですよ。ただ、あの坊ちゃんがうんと言うかしら?」
「あ、それは大丈夫。俺に任せておいて」
気軽に請合ってくれるが、ゲイリーをどう説得するつもりなのだろう。
リナベルは半日休みを貰った時のことを思い出して眉を寄せた。あれもシオンの命令で夜会に出るため休みを取ったのだが、代わりの女中を二人も回して貰っておきながら、ゲイリーは文句たらたらだった。リーナとの出会いで浮かれて後に引きずらなかったのは逆に有難かったが、今度はそういうわけにはいくまい。
だが、シオンは自信たっぷりに微笑んだ。
「大丈夫。二十一年の付き合いだからね。あいつを操るくらい簡単に出来るって。君が魔……ってことは勿論言わないから安心して」
度々寸止め―――というか、ほとんど口にしてしまっているシオンに、神経が擦り切れそうになる。だがこうなったら乗り掛かった舟だ。
リナベルは呑気に笑っているシオンを睨みながら、がっくりと肩を落としたのだった。